第2話 不器用な僕と君の涙

スナックつばさの店内は、まだ営業前の準備中だった。


照明はやや落とされ、ガラス棚に並んだボトルたちが、外の夕暮れを受けてぼんやりと光を返している。


「そんなに心配しなくても大丈夫だって、千鶴〜」


カウンターの奥で、グラスを拭きながら笑う女性――スナックつばさの店主、星乃つばさが、困ったように眉尻を下げた。


すっきりと高い位置で結ばれた髪は、彼女の気っ風のよさを表すようにきびきびと揺れている。年齢は三十代半ばか、それを少し超えるくらい。整った目鼻立ちに、柔らかく落ち着いた声音。どこか安心感を与える女性だった。


「だって!十九歳の男の子よ? 愛里に何かあったらどうするのよ……」


カウンター席に腰かけた千鶴が、グラスの水を手にしながら不安げに言った。少し伏し目がちで、おっとりとした雰囲気。だが、その声音には母親としての切実な思いが含まれていた。


「ないない。今どき隣人なんて、みんな無関心なもんだって〜」

「でも……」


「だいたい、大家さんも言ってたんでしょ? 問題起こしたわけでもないのに、“出て行け”なんて言えないってさ」


「うん……まあ、そうなんだけど」


「そりゃそうよ〜」

つばさはフニャリと微笑みながら、カウンター越しに千鶴の顔を覗き込んだ。


「……な、なによ」


「ねぇ、愛里十四歳になるのね」


「ええ、来月で」


「……晴彦さんが癌で亡くなって、もう随分経ったわね」


「……ええ、そうね…」


その一言に、千鶴はほんの一瞬、目を伏せた。


重い沈黙が流れかけたのを察して、つばさが明るく言葉をつないだ。


「ほんっと、おっとりお嬢様だった千鶴が、すっかり母親らしくなって……あたしゃ感慨深いよ」学生時代、世間知らずで天然娘だった千鶴の姿がつばさの脳裏に蘇る。


「もう……一言多い」


ふくれっ面をしながら、千鶴はグラスの水をぐっと飲み干した。


「とにかく、愛里にはあたしもいるし、そんなに心配しないで。今日はこれから仕事でしょ? さ、行った行った」


「う、うん……悪いわね、つばさ」


席を立ち、バッグを肩にかけると、千鶴は深く一礼して店を出ていった。


静かになった店内に、ふたたびグラスを拭く音が響く。


「やれやれ……あの心配性が」


つばさは独りごちて、ぼんやりとした視線を宙に泳がせ、つぶやく。

「……でも、一体どんな子が越してきたのかしらね?」


そう言ったつばさの声には、わずかな好奇心と、母親とはまた違った直感のようなものが、確かに混じっていた。



昼下がりの町に、パチンコ屋の電子音が虚しく響いていた。


秀は今日も、あてもなく時間を潰していた。働く気力などない。手元に残ったのは、僅かな景品と、胃を誤魔化すだけのインスタントラーメン。


六畳一間の部屋に戻ると、湯を注ぎ三分を待った。カチ…カラカラカラ……

まるでその音を合図にしたかのように、隣の窓が開いた。


「今日もラーメン食べてる。」


幼い声。細い腕が窓から伸びて、風に揺れるレースのカーテンの隙間から顔を覗かせたのは、あの少女——愛里だった。


「………人の部屋を覗くな。」


警戒心を滲ませた声で言うが、愛里は怯むどころか、にっこりと笑って続ける。


「ねぇ、それ美味しい??」


返事はない。秀は無視して麺を啜った。


「愛里もご飯食べようっと!」


嬉しそうに呟き、手にしたのはサンドイッチ。小さな手で大きく口を開け、むしゃむしゃと食べ始める。窓の向こうとこちらで、まるで向かい合って食事をしているようだった。


「窓開けたりして、また母親に怒られるんじゃないのか?」


「そう?でもお母さん怒っても全然怖くないから大丈夫だよ?」


「そういう問題じゃねぇだろ……」

「——あー美味しかった!やっぱりつばさママのご飯は絶品だね!」


食べ終えた愛里は、いつの間にか取り出したクマのぬいぐるみと会話を始めていた。


「でも、愛里ちゃん、カップラーメンもきっと美味しいんだよ?食べてみたいね!」


「………何やってんだ、アイツ。」


呆れたように呟いたその時——


「僕ちょっと食べに行ってみる!」


次の瞬間、クマのぬいぐるみがポーンっと空を切って、秀の部屋に飛び込んできた。


「うわっ!」


反射的に拾い上げたぬいぐるみは、手縫いだった。小さな手で時間をかけて作ったことが伝わってくる。


「——あげるね♪」


愛里の声がそう言い残すと、サッシがピシャリと閉じられた。


「え? お、おい、待て!いらねぇよ、こんなもん!」


慌てて窓に駆け寄るが、既にカーテンは引かれていた。


「なんなんだよ~!」


ぬいぐるみを見つめながら、捨ててやろうかとゴミ箱に向かうが——結局、部屋の隅に投げて終わった。


静けさの中に、ラーメンの湯気だけがふわりと漂っていた。



夕暮れの光がじわじわと空を紅く染めはじめ、風が少しだけ涼しくなった。


スナックの店先で、つばさはぐぅっと背中を伸ばし、上機嫌で空を仰いだ。


「う~~~ん……はぁ〜。今日も暑かったわねぇ〜」


そのとき、煙草をくわえ、袋をぶら下げた若者が店の前を通りかかる。


(……見ない顔ね)


つばさの目が鋭くなり、通りすがる若者――秀の姿をじっと見つめる。秀はそれに気づき、つばさに視線を返す。途端に鋭い薮睨みで顔をそらし、足早に通り過ぎた。


(はは〜ん……あれが、千鶴の隣に越してきたっていう若者ね)


つばさの目が細められる。鋭さと好奇心の混じった、女ならではの目だ。


(前髪で顔半分隠してるけど……相当なハンサムだわ。目つきが怪しいけど。…愛里はあれで面食いだからな〜……波乱の予感)


そんなことを考えながら、つばさは開店の準備を始めた。



帰宅した秀は、部屋の窓を開けて鉄柵に腰をかけた。汗が滲む額を手で拭いながら、となりの窓を見やる。だが、今日はカーテンが閉められたままで、音も気配もない。


「……今日は居ないのか」


ひとりごとのように呟き、ポケットからタバコを取り出す。火をつけて、深く吸い込み、ふー……と吐き出すと、煙が狭い壁の隙間を静かに滑っていった。


——カチ…カラカラカラ……


窓が開き、まるでタイミングを見計らっていたかのように、愛里が顔を出した。


「きゃぁっ!!」


「な、なんだよ!自分で開けといて、何に驚いてんだよ!?」


「だ、だって、こんなに近くにいるなんて思わなかったんだもん!」


愛里は、頬をほんのり赤らめている。その無防備な表情に、秀は思わず視線を逸らす。


「コホン……まぁいいや」


ごそごそとポリ袋の中を漁り、景品のチョコレートを一つ取り出す。


「ん」


「え?」


「ん! やるよ」


ぶっきらぼうに差し出されたチョコを、愛里は目を輝かせながら受け取った。


「いいの!?ありがとう!」


まるで宝物を受け取ったような、無垢な喜び方だった。小さな手で丁寧に包装紙をなぞりながら、しげしげとチョコを見つめている。


(……そんなに嬉しいもんかよ、パチンコの景品が)


秀は思わず口元を緩める。ふ、と笑みがこぼれた。


「あ!笑った!初めて笑ってるとこ見た!」


「……!!」

秀はさっと真顔に戻り、片手で顔を隠した。


「お兄ちゃん、笑った〜♪」


「……っ」

その言葉がどうにもくすぐったくて、秀は咳払いでごまかす。


——遠くで、学校のチャイムが鳴った。


「……そういや、お前、学校は? 小学生か? 中学生?」


その瞬間、愛里の笑みが消えた。視線を外し、俯く。


「……あー、登校拒否とかか? まぁ、別に嫌なら行かなくてもいいんじゃねぇ?」タバコを一本出しながら、ふと、沈黙に気づいた。


「…え?」


愛里の肩が、かすかに震えている。


瞳からは大粒の涙が溢れていた。


「なっ…!」

愛里は嗚咽を漏らしながら、顔を両手で覆った。その様子に秀は慌てて声をかけた。


「なんだよ!なんで泣くんだよ?おい、俺、なんか言った?…なぁ、愛里!」


愛里は涙を浮かべたまま、パッと顔を上げた。


「あ…初めて名前呼んでくれた…」


「……!」


(しまった……)

そう思った時にはもう遅かった。


「お兄ちゃん……愛里の頭、撫でて?」


「は?」


「お願い……」


愛里は、心細い声で懇願した。秀はためらいながらも、おずおずと手を伸ばし、細い髪をわしゃわしゃと撫でた。


「なんなんだよ、もう〜……」


その手に、愛里の細い指がそっと添えられる。そして、彼女の頬へと手が導かれた。


「……大きい手……」


ドクン

鼓動が、胸の奥で跳ね上がる。


「お兄ちゃん……愛里のこと知っても……嫌いにならないでね……?」


喉がカラカラに乾いて、言葉が出てこない。秀はかすれる声でようやく搾り出す。


「な……に……言って……お前……ごくっ……」

心臓が、あり得ない早さで脈打つ。


身体が自然と傾き、額が、愛里の額に触れた。愛里は大きな瞳を見開いて、秀のシャツの袖を掴んだ。


「お…お兄ちゃん……?」


「嫌いになるどころか……俺は……」


そのときだった。


階下に、コツ……コツ……と、ヒールの音が響いた。


秀の目が一瞬で凍りつく。


下から見上げていたのは、愛里の母・千鶴だった。部屋の中に身を引いていた愛里は気づいていない。


その瞳は、窓から乗り出した秀を見ていた。射抜くような、鋭い視線。


空気が、ひやりと張り詰める。


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