死にゆく僕が君に遺すもの
りんくま
第1話 窓越しの出会い
西暦1980
サイレンが響き渡る市街地の一角。
赤い灯りが街の静寂を断ち、凍えた空気の中をストレッチャーが急いで運ばれていく。
「少年を保護!……意識不明、脈拍微弱!」
「頭部の損傷が激しい……」
「右眼球損傷……いや……眼球消失!」
救急隊員たちの緊迫した声が飛び交う。
騒然とした現場には、もう一人の少年がうつ伏せに倒れていた。
「死亡者確認!堀田那由多!」
少年の手の中には、光を失った眼球があった。
指が動く。
ぬるりと、眼球を包むその手が、静かに握り込まれる。
――ぶちっ。
どこかで何かが潰れた音がした。
西暦1985
蒼白な顔をした細身の青年が、ベッドの上で息を荒げながら飛び起きた。
額には汗がにじみ、白いTシャツが背中に張り付いている。
「……はぁ、はぁ……っ……」
右目を押さえながら、乱れた呼吸。止まらない震え。
彼は夢から覚めたのではなかった。
――まだ、悪夢の中にいた。
青年の名は、宮下 秀。
過去を抱え、未来を恐れながら、彼は生きていた。
「那由多…俺を殺してくれ…」
震えが治まるまで、膝を抱え蹲る。既に日は高くなっていた。
ここはとある町工場。
――我孫子義肢装具製作所。
薄暗い蛍光灯の下、金属と石膏の匂いが混ざる作業場には、工具の音と乾いた会話が響いていた。
秀は、我孫子が所有する古びたアパートに下宿しながら、見習い作業員としてここで働いていた。
同年代の若い男たち、そして数名の女性作業員も加わって、狭い作業場にはいつも賑やかな声が満ちていた。
――ただし、その輪の中に、秀の居場所は無かった。
「ねぇ、今日もまた寝坊したらしいよ、宮下さん」
「5年も昏睡状態だったんだって。まだ夢の中なんじゃないの?」
女子作業員たちが耳打ちし、くすくすと笑う。
汗を拭いながら黙々と作業を続けていた秀の背後を、一人の男が通りざまにわざと肘をぶつける。
「おい、ボサッと立ってんなよ。邪魔なんだよ!」
その声に、秀はゆっくりと振り向いた。
――鋭い眼差し。
突き刺すような視線。怯えたように後ずさる男。
「ひっ……顔、こえぇ~~……!」
バキッ!!
乾いた音が工場に響く。
言葉もなく、秀は男の頬に拳を叩き込んだ。
「わ、わぁっ!やめろよ!何だよ!?ちょっと当たっただけだろ?!」
騒然とする作業場。
女子作業員が慌てて事務所に駆け込み、声を上げる。
「社長ーっ!!大変です!!宮下さんが……また!!」
重たい足音と共に、作業場の奥から一人の男が現れる。
我孫子義肢装具製作所の社長――我孫子 慶一郎だ。
「秀っ!!まーたお前か!!いい加減にしろ!!」
怒声と共に、もみ合う二人を力づくで引き剥がした。
彼の怒鳴り声が、作業場に一瞬の静寂をもたらす。
しかしその沈黙は、すぐにいつものざわめきへと戻っていった。
まるで、何もなかったかのように。
ただ一人、秀だけが、その場に立ち尽くしていた。
昼休みを過ぎた頃、事務室の扉が勢いよく開け放たれた。
「社長!!」
作業着姿の若い男が、怒気を孕んだ声で飛び込んでくる。
我孫子は、書類に目を落としたまま、軽く顔を上げた。
「……どうした?」
「どうした、じゃないですよ!あいつ、クビにして下さいよ!あの“宮下”とか言うやつ!!」
作業員は興奮を抑えきれず、机を叩く勢いで言葉を続けた。
「話しかけても無視するし、すぐキレるし、挙げ句に暴力!なんで社長は、あんな奴の身柄なんか預かったんスか!?」
我孫子は苦笑交じりに首をすくめた。
「まぁそう言うな。あいつはな、俺の恩師のせがれなんだよ」
「……は?なんすか?それ」
作業員は一瞬あっけに取られ、すぐに顔をしかめた。
「ここに就職したのもコネってやつかよ……ますます気に食わねぇ……!」
忌々しげに吐き捨てた後、さらに声を潜めて付け加える。
「それに、時々前髪の隙間から見える、あの顔の傷、右半分ぐっちゃぐちゃのアレ、女子連中がマジで怖がってんスよ」
その言葉を聞いた瞬間、我孫子の目が細くなった。
……一瞬、空気が凍る。
彼の眼差しは、鋭い刃物のように冷たい。
作業員は気まずそうに視線を逸らすと、勢いだけで言葉を吐き捨てた。
「……とにかく、なんとかして下さいよ!」
そう叫び、逃げるようにドアをバタンと閉めて出て行った。
――静寂が戻る。
我孫子は、眉間を指で揉みながら、机に深く背を預けた。
「……はぁ〜〜、どうしたもんかねぇ……」
小さく吐き出されたその溜息は、暑気を帯びた事務室の空気に、静かに溶けていった。
午後の陽射しが斜めに差し込む細い路地に、軽トラックがエンジン音を響かせながら滑り込んできた。
軽トラの運転席には、くたびれた作業着を着た男。我孫子慶一郎。助手席には、無言の青年が乗っている。
軽トラは、ひときわ年季の入った木造アパートの前でゆっくりと止まった。
我孫子が運転席のドアを勢いよく開けると、ちょうど一人の小柄な老人が、玄関から顔を出した。
「世話ンなるよ、おやっさん!」
景気の良い声を張り上げて、我孫子が頭を下げる。
老人は片手で腰を支えながら、秀に目をやった。
「この子かい?」
「おう、そうよ!」
我孫子は秀の肩をバンバンと叩きながら誇らしげに言う。
「肝の座った良い面してんだろ?俺にそっくりだ!ガハハ!」
「お前さんのせがれじゃないだろうが」
老人は顔をしかめると、我孫子の声の大きさに、片方の耳に指を差し込んだ。
「今日からここが、お前の家だ」
我孫子はそう言って、秀に向き直った。
「2階の真ん中の部屋な。いいか?家賃は俺が出す、だが生活費は自分で賄えよ。うちの工場に戻るも良し、新しい仕事を探すも良し!」
秀は黙ったまま、アパートを見上げている。
「とにかく、自力で生きてみろ」
我孫子の声が、少しだけ低くなる。
「お前が“人間”になった頃、見に来てやるよ」
「じゃあ、一生会うことはねぇな」
吐き捨てるように、秀がぼそりと呟いた。
その言葉に、我孫子はニヤリと口角を上げた。
「んじゃ、おやっさん、コイツ頼むわ〜!」
そう言って、荷台の荷物をひとまとめに下ろし、我孫子は秀にすべてを任せると、軽トラのエンジンを再び唸らせた。
砂ぼこりを巻き上げながら、彼の姿はあっという間に通りの向こうへと消えていった。
老人は、そっとポケットから鍵を取り出し、秀に差し出した。
「……ほれ、鍵な」
それだけ言い残すと、老人は面倒ごとから一歩退くように、自室へと戻っていった。
残された秀は、しばらくその場で立ち尽くしていたが――
やがて、深いため息を一つ。肩を落とし、無造作に荷物を担ぎ上げた。
どこかの誰かの期待も、情も、憎しみも、すべて放り投げるように。
青年は、薄汚れた鉄の階段を、ただ黙々と登っていった。
我孫子慶一郎が工場へ戻ると、待ち構えていたかのように数人の若い作業員が駆け寄ってきた。
「社長!宮下、クビにしたんスね!」
「おう。お望みどおりにしてやったぞ」
最も前のめりな口調で話しかけてきたのは、先日、秀と揉めた男だった。
我孫子が短く応えると、男は満足げに笑い、手を叩いた。
「そうこなくっちゃ!あー、せいせいした!」
後ろにいた女子作業員二人も、キャッキャとはしゃぎながら同意する。
「マジ、こわかったよね〜」「あんなの居なくて正解だって〜」
若者たちは、まるで厄介払いでも済ませたかのように軽薄な笑い声を残して去っていった。
我孫子はその背中を、しばし無言で見送っていた。
「社長……」
背後から呼びかけられ、振り返ると、事務員の神崎亜弓が不安げな表情で立っていた。
「どうした、神崎くん」
「……私、知ってたんです。作業員の人たちが、宮下さんに辛く当たってるの……でも、怖くて、助けてあげられなかった」
「君が気にすることじゃないよ」
我孫子は、そっと彼女の肩に手を置いた。
だが亜弓の目は真剣だった。
「社長が身柄を引き取るくらいだから、宮下さんには特別な何かがあるんじゃないかって、ずっと気になってたんです」
我孫子はひとつため息をつき、少しだけ視線を落とす。
「……わかった。俺も警察から聞いた話だから、正確とは限らないがな」
そして、静かに語り始めた。
「5年前、秀が十四歳のときだな。学校で、自殺しようと屋上から飛び降りた生徒がいたらしい。
その生徒と、たまたま下を歩いていた秀が衝突してな。片方は即死。秀は頭蓋骨を陥没骨折。衝撃で……右目が吹き飛んだそうだ」
亜弓は息を呑んだ。
「……それから三年間、昏睡状態だった。意識が戻るまでの間に、両親は離婚。父親は医療費だけは振り込んでたが、見舞いには一度も来なかったそうだ」
「お母さんは……?」
「一度だけ病院に来たそうだが、それきり行方知れずだとさ」
我孫子の口調に、怒りとも悲しみともつかない陰りが差した。
「その後――目覚めてからは、自傷行為を繰り返して、さらに二年間、精神科の病院に拘束されていた。
……義眼も拒否したらしい。入れても、ほじくり出す。ついには、劇薬を盗み出して、自分の瞼を焼いたとまで聞いている」
亜弓は、思わず生唾を飲み込んだ。
「……そんな……」
「秀の父親は、俺の恩師だった。俺がこの工場を立ち上げられたのも、その人のおかげだ。だから、放っておくわけにはいかなかったんだよ」
静かに語られるその過去は、思っていたより遥かに過酷で、悲しいものだった。
「……なんて……なんて酷い……宮下さん……」
亜弓は、こらえきれずに一筋の涙をこぼした。
我孫子はそんな彼女を見て、柔らかく微笑む。
「一人でも……君みたいな子が居てくれたのは、救いだよ。
あいつは今から再スタートを切る。祈ってやっててくれ。な?」
「はい!」
亜弓は涙を拭い、笑顔で頷いた。
一方その頃、秀は愕然としていた。
部屋は、六畳一間。台所の小窓を除けば、窓はひとつしかない。なので、昼間だというのに、部屋の中は薄暗い。
ジメジメと湿った空気が、鼻の奥を刺した。カビと埃の臭い。長らく誰も住んでいなかったことがすぐに察せられる。
「……なんだよ、これ……」
秀は、忌々しげに呟きながら部屋の中央に立ち尽くした。ふっ…と、ため息をひとつ吐き、重たそうな硝子窓を引く。開けると、そこには――
「……っ!」
またしても、言葉を失う。
窓のすぐ向かい――ほんの手を伸ばせば届いてしまう距離に、隣家の窓があったのだ。
申し訳程度に設置された鉄柵が、まるで“越えろ”と言わんばかりの無防備さでそこにある。
「ふざけんなよ……とんでもねぇ部屋選びやがって、あのオヤジ……」
苦々しげに呟いたその瞬間だった。
カチ――
カラカラカラ……
隣家の窓が開く音がした。
……え?
驚きに目を見開く秀の前に、ふわりと風に舞ったレースのカーテン。その奥から、そっと顔を覗かせたのは――少女だった。
年の頃は、十ニ、三歳ほどか。長くまっすぐな黒髪、大きな瞳、透けるように白い肌。細く小さな腕が、窓枠にかかっている。
少女は一瞬、秀の姿に驚いたように目を瞬かせた。だがすぐに、ニッコリと笑って声をかけてきた。
「こんにちは!」
「………………」
――その笑顔は、あまりにも無垢で、眩しかった。
ガラガラ――バタン。
秀は無言で硝子戸を閉めた。
「愛里〜? 誰と話してるの?」
部屋の奥から、女性の声がした。
「お母さん、お隣さんが引っ越してきたよ!」
「ええ?!」
驚いたような返事の直後、窓際に飛びついてきたのは、先ほどの少女の母親らしき女性だった。ウェーブのかかった髪、少女によく似た大きな瞳。
カーテンなどない秀の部屋には、ただ彼の存在がそのまま晒されていた。
母親は秀を見るなり、その瞳をさらに大きく見開いた。そして、娘の頭を庇うようにして、慌ててサッシを閉め、ピシャリとカーテンを引いた。
「愛里! お母さんが帰ってくるまで、このカーテン開けちゃダメよ!窓も閉めときなさい!」
「えー? なんでぇ? 暑いよぉ〜」
「ダメなものはダメ! それに、あの男の人に話しかけられても、絶対に答えちゃダメよ!」
「男の人? そうかな? 愛里と同じくらいの男の子に見えたけど……」
「何言ってるの! どう見ても大人の男の人でしょ!? 嘘つかないの!」
その声には、怯えにも似た緊張が滲んでいた。
「とにかく、お母さん、ちょっと大家さんのところに行ってくるから、いい子にしてるのよ!」
「はーい……」
少女――愛里は、気のない返事をして、母の足音が遠ざかるのを聞いた。
そして、すぐにニヤリと笑い、カーテンをめくって窓を開けた。
……だが、そこにはもう誰もいなかった。
「あれ?いなくなっちゃった。変なの〜」
愛里は首を傾げる。
そのすぐ傍、壁の陰に身を潜めた秀が、ぼそりと呟いた。
「……アホくさ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます