灰かぶりのシンフォニーに紅色の沈黙を
青崎葵
霧散
取り出し、咥え、火を付け、煙を吐く。
私が吐いたこの煙にはいったいどれほどの歴史が詰まっていたのだろうか。
2階の部屋のベランダで煙草を吸っていると、私まで煙になって東京の夜景を一望しているような気分になる。煙に詰まっていたのは私自身だったのだろうか。
東京を一望した後の私はどうなってしまうのだろう。どういう仕組みか、まるで最初からそこにいなかったかのように煙はそのまま霧散し、私という存在が世界へと広がっていくのだろう。私が今吸っている空気は誰かが吐いた空気ではなく、誰かそのものなのだろう。私はこの地で呼吸をしている。煙に詰まっていたのは世界だったのだろうか。
煙草を吸い始めて何年かが経つが、日々うまくいかないストレスをニコチンにぶつけているわけではない。日々汚れていく私の体を煙で洗い流さなければ気が狂ってしまいそうなのだ。よく例え話で煙草と車の話が出てくるが私がいまだ若造であるうちは歯牙にもかけない話である。ただ煙草はご飯代わりになるので、こうして夜風にあたりながら煙を吹かすことで夕食代を節約することができるのだ。煙が高く上って霧散するように私の意識もまた、消えて眠りについた。そこから4時間余の時間で何らかの力が霧散した私の意識を精一杯集めるのだろう。朝起きて寝不足だと感じるのは私の意識が完全に集まりきっていないからだろう。うん。きっとそうに違いない。
朝日は昇る。だが、太陽の高度に限界はなく煙のように消えることはない。ああ眩しい。そんな顔で照らさないでくれ。その明るさはわたしにとって毒だ。光のようなあなたと煙のようなわたし。光で煙は留めることができないのだ。私はいずれ霧散してしまう。まるで最初からそこになかったかのようにいなくなるのだろう。だからこの体に有毒なものをいくら取り入れても無問題ということだ。はあ…太陽を見るだけでこんな憂鬱な気分になってしまう。私にも休息が必要なのだろうか。朝日を浴びて吸う煙草は夜のそれの数倍気持ちが悪い。こんなことなら吸わなければ良かった。朝日を浴びることで幸せホルモンが増加するとか聞いたが私を幸福にしてくれるのは月光だけだろう。朝、街中で流れているのは何か流行りの曲だろうか、単調なリズムが耳障りだ。こんな時にはイヤホンで自分の世界に入るに限る。警官の目など知ったことか。本当に良い音とは人の声帯から発されるものではないのだろう。夜風の音が心地よい。
寝つけない夜が増えた。絶賛寝不足である。寝不足だから夜、散歩をしてみることにした。私は路地裏を好んで歩く。路地裏にある誰の目にもとまらず、このまま朽ちていくだけのグランドピアノを見つけた。このピアノはまるで私だ。
役割を果たしきれていないのに中途半端に退廃的な気分を味わっている。
私はそっと鍵盤に触れた。音が私に語りかけてくる。良い音色だ。この音色こそが私にとってのエーテルなのだろう。この音色をもっと聞いていたい。親の言われるがままにピアノを練習していたあの頃とは全く違う音色だ。この音色を聞いた今日はいい夢が見れそうだ。
あれから何度もそのエーテルへと足を運んだ。もうこの道も見慣れた光景だろう。切れかかった街灯、煙草の匂いが染み付いた路地を踏みしめ、夜風を感じながら探す。
やっと見つけた。もう一人の私。この時私はどれほど恍惚とした表情をしていたのだろう。今日は雨だったが傘はささずに来た。私が雨に濡れることでこのピアノの価値が少しでも上がると思ったから。雨でも私の指はうごく。だがこのピアノは晴れていてもうごけない。これまでも、そしてこれからも独りこの地で朽ちていくことに酔いしれるのだろう。わたしのエーテルは。
響板の上に煙草の灰が落ちる。
色褪せた美しさがそこには確かにあった
灰かぶりのシンフォニーに紅色の沈黙を 青崎葵 @a0sak1-
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