追憶
三沢から連れ去り事件の話を聞いた日の夜、私はパソコンの電源を入れキーボードを叩いていた。
事件の詳細が気になって仕方がなかったのだ。
それらしい事件を扱ったページはすぐに見つかった。
『S市南区女児失踪事件』。今から十年ほど前の夏に起きた事件のようだ。
事件の内容はおおよそ三沢の語った通りだった。
当時10歳だった少女――『立花葵』が飼い犬の散歩中に行方不明になり、数年後に衰弱して意識を失っていたところを発見された。
発見当時の彼女の体には、手足や首に拘束の痕があったらしい。
監禁事件として調べられていたが、彼女の精神状態が悪く何も話せなかったため捜査が難航したとのことだった。
事件をまとめたページには、一枚の写真が載せられていた。
黒髪を長く伸ばした、幼い笑顔を見せる美少女。彼女の手に持ったリードの先でお座りのポーズを取っている、赤い首輪をつけた柴犬。
キャプションには、『立花葵ちゃんとマロン君』と書かれている。
この先に悲劇が待っているなんて少したりとも想像していないであろう、幸せに満ちた光景がそこに切り取られていた。
◇
それからというもの、私はどうにも落ち着かなかった。
帰り際に例の裏路地を通るたびに、あの鎖の音が聞こえるような気がした。
日常のふとした瞬間に彼女の虚ろな表情が
悲しみを背負ったまま赤い首輪を引きずって歩く姿が頭から離れない毎日。
似たような喪失感を抱えている私なら、彼女の心に寄り添ってあげられるのではないだろうか。
そんな考えが浮かんでは、思い上がり甚だしいと振り払っていた。
そうして、10日ほど経った頃だった。
あの日と同じように残業で帰りが遅くなった私は、裏路地で影が揺れるのを見かけた。
あの女だ。
病的なまでに白い肌に古い黒のワンピース、そして鎖のついた犬用の首輪……。
先日と寸分違わない格好をした彼女は、地面をじっと見つめたまま辺りを右往左往していた。
まばたき一つすらしないその瞳は小刻みに揺れていて、酷く狼狽しているようだった。
その弱々しい姿に、先日調べた事件のことが頭をよぎって。
「……どうかされましたか」
気付いた時には声をかけていた。
女の両眼がギョロリと動き、こちらの姿を捉える。
底の見えない暗闇を
そうして見つめられて、数十秒経った頃だろうか。
「ネームタグが、無いの」
女は風にかき消されそうな声でそう呟いた。
……首輪を地面に引きずって歩いていたのだ。取れてしまってもおかしくはないだろう。
「あの子との思い出はもうこれだけなのに……」
古びた首輪を胸に抱き寄せて、女は再び地面に目を落として歩き始める。
「一緒に探しましょうか」
そう尋ねてみるが返事はない。
自分の世界に入ってしまったようだ。
このまま放ってもおけないので、私は彼女から少し離れたところを探してみることにした。
スマートフォンのライトで道を照らしながら歩くこと数分。
切れた街灯の下に何かが転がっているのを見つけた。
擦り傷がいくつも入った小さなプラスチック製の板。おそらく、これが探し物だ。
暗闇の中にあったので彼女の眼には届かなかったのだろう。
名前が書かれていないか確認するために、屈んでひっくり返してみると。
そこには擦れて消えかかった文字で、『アオイ』とだけ書かれていた。
全身の産毛が一気に逆立ち、心臓がバクバクと暴れ始める。
頭を巡る血流の勢いが増し、痛いほどの刺激をもたらす。
飼い犬ではなく飼い主の名前を入れただけ……ならば、名字や連絡先もセットでないとおかしいだろう。
立花葵発見時についていたという首の拘束痕。
未だ見つかっていない監禁事件の犯人。
あの鎖につながれていたのは犬ではなく――。
「それ」
頭上から声が降ってきて、顔の横から白い腕が伸びてくる。
拾い上げられるネームタグ。その行方を視線で追おうとするが、体が凍り付いたように動かない。
「やっと、見つけた」
無機質だった女の声に、かすかに安堵の息が混じる。
「……アオイっていうのは、その……」
何とか乾ききった舌を動かす。
しかし、紡ぐべき言葉がつっかえて出てこない。
「大切なお友達、だったの。誰にも、取られたくない、くらい大切な」
そう話す彼女の声は、心の底からアオイのことを想っているような熱がこもっていて。
「でも、動かなくなったから捨てちゃった」
同じ熱量でそう語る彼女が、私には怪物としか思えなかった。
気が付けば、女は夜闇の中に消えていた。
鎖を引きずるような音が、私の頭の中で反響し続けていた。
Missing Dog 水底まどろみ @minasoko_madoromi
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