満月の儀式

 満月まで、あと一晩。


 あれほどいとわしく感じていた婚儀が、これ程待ち遠しくなると思わなかった。


 満月の夜には、海に行ける。


 浜に降りることは出来なくても、海をこの目にすることができる。


 夜ではあるけれど、満月の明るさならば、きっと見えるはず。


 浮き立つ心を抑え、憂鬱そうに過ごさなければいけないことが、一番の苦行だった。





【おいで……ここに……おいで……】


 満月に向かう夜毎、夢の中で、相変わらず『声』は、呼び掛けていた。


【ここに……おいでよ……来てくれないの……?】


 少し拗ねたような『声』と共に、どこか懐かしい、湿気った香りが漂っていた。


(ええ、いくわ。どうか、私を連れていって)


 満月の前夜、夢の中で、私は答えた。


【いいのか?】


(ええ。満月の夜に、私は、海にいくの……そのまま、連れていって……!)


 制するものもない夢の中で、私は本心を叫んだ。


【叶えよう……ここに、誓いは成立した】


 急に大人びた口調で、『声』はそう告げた。


 満たされた想いを抱いて、私は目覚めた。


 今夜は、婚姻の儀式……満月の夜、だった。






 儀式は夜とはいえ、朝から準備で慌ただしかった。


 本来なら儀式の手順も覚えなければならないのだろう。


 けれど、急に知らされた儀式に対処できないであろうことをかんがみて、私は世話人に手を引かれて歩き、黙って夫となる男の隣に立ち、神官に促されるまま誓いの言葉に許諾の返答をするだけでよいと言われた。


 本で得た知識では、誓いの言葉は婚姻する本人が述べなければならないはずなのに。


 ……誓いたくもないので、別によいけれど。


 それよりも。


 岬の神殿に移動するまでの時間が、待ち遠しくて仕方なかった。


 身支度は全て城で済ませて、日が沈むのを待って馬車で移動するのだという。


 夕陽が沈む海、というものも見てみたかったけれど、余計なことを言って儀式の場所を変えられては困るから、私はじっと我慢した。


 さもつまらなそうに、言われるがまま、婚礼衣装を着せられて、あたふたと準備している侍女たちを眺めて過ごした。


 そして、ようやく。


 岬の神殿に移動することになった。


 残念ながら、馬車は山側を走っているようで、窓から海は見えなかった。


 満月の光に照らされて明るい山道を馬車はどんどん上っていく。


 神殿に着いて、馬車を降りる、と。


 城ではかすかにしか聞こえなかったさざ波の音が、はっきりと耳に届いた。

 

 神殿の入り口からは見えないけれど、音の方向から、その向こうに海があるのは確かだった。


 つん、と鼻に、あまり嗅いだことのない、湿気ったような香りが届いた。


 あまり嗅いだことのない……けれど、どこか記憶にある、それは、あの小さな竜から漂っていた香りだと、思い出した。


 やはり、あの子は、あの小さな竜は、海に住んでいるのだ。


 世話人に手を引かれ、期待に満ちた心を秘めて、満月に照らされ輝く神殿に足を踏み入れた私は、……愕然とした。


 神殿の中は、当たり前だけど、室内だった。


 月明かりと、山のような蝋燭で、神殿の中は、光に満ちていた、が。


 海は……見えない。


 四方を壁に囲まれ、窓は手の届かない天井近くにあるだけ。


 思わず足を止めた私を、望まぬ婚姻に対する最後の抵抗とでも考えたのか、世話人はやや強引に私の手を引いた。


 引き立てられるように祭壇に向かい、待っていた男の隣に立たせられた。


 海が、見えない……見られない……。


 もう二度と、外に出られないかもしれないのに。


 絶望で強張こわばった表情を見て、男は小さく舌打ちした。


 それでも儀式は粛々と進み、誓いの言葉が神官から促された。


 本来の儀式にのっとり、男は自らの口で誓いの言葉を述べた。


 私の誓いの言葉は、神官が代わりに述べる、が。


「嫌……」


「……姫さま?」


「嫌ですっ! 私は、私は海にいくの! 海に連れていってと、約束したの!」


 そう叫んで、祭壇から離れようとした……けれど。


「この忌み子が! 海に近付いて、魅入られたか?!」


 男が、私を羽交い締めにした。


「姫は、呪いのために乱心した! このまま海の近くにいては、忌まわしいモノが国を襲うかも知れない! 婚姻の儀式は成立した! このまま城に戻すぞ!」


「嫌っ! 離して!」


 必死に暴れたけれど、力で敵うはずもなく。


 私はそのまま兵士に引き渡され、担がれるようにして神殿を出されると、馬車に押し込まれ……扉が閉まる、寸前。


【誓約を果たそう……海へ、連れていこう】


 バサバサっ、と大きな羽ばたきが聞こえ、何かが満月の光を、遮った。




 


 


 




 


 



 

 

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