迷い込んだ竜
それは、新月の夜だった。
寝苦しさを覚え、せめて空気を入れ換えようと窓に近付いた。
呼び鈴を鳴らせば、不寝番の侍女が来て、何くれと世話をしてくれるだろうが、同時に眠りを妨げられたと不満げな表情を見せられるだろう。
それを想像しただけで不快感が募り、音をなるべく立てないようにして自分で動くことを選んだ。
この牢獄で過ごすようになり、気が付けば気の置けない馴染みの側仕えたちは姿を消し、新たにやって来たのは、直接身の回りの世話をする侍女だけだった。
多くは無表情なりに、そつなく仕事はしているが、忌まわしい予言を受けた『禁海の姫』に対してあからさまな侮蔑を示す者もいた。
今夜の不寝番がその相手であることを知っていたし、私自身、なるべく不快な思いをしたくなかった、から。
そっと忍び寄って、窓を開けた。
清涼な空気が、室内に注ぎ込まれた。
静かに深く息をして、そのまま、闇夜の景色を眺め、海のさざ波に耳をすませていた、けれど。
カタカタと物音がして、窓枠を見ると。
「え?」
思わず驚きを声に出してしまい、慌てて口をふさいだ。
不寝番の侍女が来ないことを確認して、もう一度小さく開いた窓の外側を見ると、そこには。
小さな、生き物が、いた。
闇夜でも分かる、輝く瞳。
丸みを帯びた影に、最初は大きな猫かと思った。
けれど、だんだんと目が慣れてきて、それが小犬ほどの大きさの、竜だと、分かった。
背中には、小さな翼もあった。
けれど、夏なのに、凍えるように身をすくめ、翼ごと身を丸めて。
「くぅ……」
小さな竜は、切なげに鳴いた。
大きさを考えれば、ほんの子供の竜なのかもしれない。
実際に見たことはないが、竜はとても大きな生き物と聞いていた。
遠い異国では、竜の種類は多少違うが、馬の代わりに竜に騎乗する「竜騎兵」も存在するらしい。
そして、海辺のこの国では、海竜を紋章として崇めていた。
なので、粗末に扱ってよい生き物ではなかった。
「くぅ……きゅうん」
切なく鳴き続ける様子から、ふとお腹が減っているのかも、と思い至った。
と言っても、食膳はとっくに下げられ、食べ物なんて、な……いや、あった。
静物画を描くために、モチーフとして用意してもらった果物が一皿。
私は静かに、でも出来る限り急いで、果物皿から桃と梨を掴み取り、窓辺に運んだ。
手触りから、まだ熟していない様子だったけれど、小さな竜はクンクンと嗅いでから、シャリシャリと音を立てて食べ始めた。
「きゅうん……きゅうん」
まるで、もっと頂戴、とでも言っているように聞こえて、私は残りの果物も全て窓辺に運んだ。
それらを全て平らげて、満足したのか小さな竜は寝息を立て始めた。
もう一回り小さければ、中に入れたのかもしれないのが、なんだかとても残念だった。
無意識に、窓の外に手を伸ばし、頭を撫でた。
「きゅうん」
一瞬噛まれるかと思ったけれど、小さな竜は気持ち良さそうに私の手に頭を擦りつけて鳴いた。
私はそっと撫で続け、その手を頬に滑らせ、猫にするように顎の下も撫でた。
固い鱗に覆われていたけれど、思ったよりもゴツゴツはしていなくて、少し弾力のある
撫でていると、嗅いだことのない、何となく湿気った、けれど嫌な感じはしない香りがした。
どこか懐かしいような、すん、と鼻につく香り。
さらに撫で続けながら、敬うべき
「……あなたは、迷子なの?」
「きゅ?」
「お腹がいっぱいになったのなら、もうおうちに帰れるかしら?」
「きゅうん」
「あなたのおうちは、山? それとも、海なのかしら……海……行ってみたいな……」
「きゅきゅっ」
……気が付けばそのまま窓にもたれて寝入ってしまった。
朝日で目を覚まし、慌ててベッドに戻った。
小さな竜は、いなくなっていた。
夜中の無作法は、侍女に気付かれることなく、空っぽの果物皿には知らん顔で通した。
次の夜、もしかしたら、と思い窓を開けて待っていたけれど、小さな竜は来なかった。
再び用意してもらった果物皿にオレンジを戻して、残念な気持ちで私はベッドに戻った。
【………………】
そして、その夜から、かすかなさざ波の音と共に、あの『声』が、聞こえ始めたのだった。
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