【番外編】赤

 あか、アカ、赤。


 文字で書くのは簡単で、私は赤色を認識することも容易だ。

 PCのブックマーク欄にたたずむ、YouTubeのアイコンを見れば簡単に赤を認識することができるし、少し横に目を滑らせれば、Swhichの右手用コントローラが私に赤を教えてくれる。


 赤色を他人に説明しろと言われれば、スマホで適当な画像を見繕って、目の前にかざしてあげれば事足りる。

 そんな単純な、赤。


 しかし、私は赤という色を見たことがない人に、正確には色を知覚できない人に説明することができるのだろうか。いや、できない。


 無知な私は、調べれば調べるほど、知覚の壁の高さに絶望するほかなかった。

 絶望なんて、たいそうなことではないかもしれない。そう感じるかもしれないが、実際に自分が、色を知覚できなかったら?

 そう思うと、決して超えられないその壁は、絶望的に高く見えてしまったのだ。


 自分ならどうするか。

 色を知覚できる人に対して、その説明を行うのであれば、熟したリンゴを指さして、これが赤だと伝えてあげればいい。

 

 文字で伝えるときも同様に、眼に見える景色をありのままに伝えてあげればそれだけで問題ない。

 「秋の終わりにのみ現れる紅葉の絨毯のような色」などと言われれば、私は赤という色を思い浮かべる。

 ほかには、イメージと絡めて「メラメラと燃えるその情熱の色は」のように表現されれば、私は自然と炎を連想し、赤やオレンジなどの関連づいた色をイメージする。


 赤と色に関連づく物事の知覚を、生まれた時から共通の認識として、有しあっているからこそ、こうした相手よがりのコミュニケーションが可能になる。

 自分から他者に対する知覚情報の共有は、他者が他者自身でその知覚を認識していることが前提となっているのだ。

 

 小説というものは、文字のみで物語を作り出すというその特性上、どうしても漫画やアニメ、映画や舞台劇などよりも視覚的な情報にかけるものとなってしまう。

 しかしながら、視覚に頼らないのであれば、途端にその情報量は逆転し、小説という媒体が持つ情報量は、一躍トップに躍り出る。


 小説の良いところは「足りない情報を読み手が補えること」にある。

 足りないことの何がいいのだ、もちろんそうした考え方をするのも当然だろう。しかし、私はこの、足りないというのは、面白味を持たせるための非常に重要な要素だと感じるのだ。


 私の操る第一言語である「日本語」に沿って話すのであれば、その言葉の持つ余韻や、敬語や膠着語のもつ表現の幅広さ、語順に頼らない言語体系など、文字そのもので表現できる世界がとてつもなく広い。

 そしてその世界は、すべてを説明せずとも、誰しもが自身の培った経験や積み上げた知識と照らし合わせて、自分だけのカスタマイズを加えた、独自の情景を構築する。カスタマイズこそが、足りない情報の補完であり、様々な景色が生まれるためのきっかけとなるのだ。


 そして私は、自身が小説を読んでいるときにとあることに気が付いた。


 ——頭の中に色は浮かばないのではないか?


 いったん部屋の電気を消して目を閉じてみてほしい。面倒であれば電気はつけたまま目を閉じて、目を覆い隠すようにして、両掌を当てるだけでもいい。

 その真っ暗な瞼の裏の世界で、自分が暮らしていた部屋の景色を思い浮かべても、そこに色はついていないのではないだろうか?


 少なくとも私はそうだった。形として思い出すことはできるし、知識として思い出すこともできる。キッチンにあるリンゴの色が赤であることも知っているし、赤という色そのものも知覚している。


 しかし、眼を閉じた瞬間にその知覚は途端に溶け崩れ、テキストで構成されたモノクロの情報に置き換わる。リンゴが赤いことを何も考えずに認識していたはずが、光を遮断しただけで、リンゴという知識に対して、これは赤いものだというラベルを張らないと認識ができなくなる。


 これに気が付いた後に小説を読んでみてほしい。

 今まで本の上に見ていた色は幻想で、その色は自分の記憶が作り出した、目の前にあると思っているだけのまやかしなのだ。

 

 見聞きした事柄を自動的に判別して、形は四角、色は赤、といったようにラベリングを行い、それをもとに脳内を検索しているだけに過ぎないのだ。

 そこにあるのは情報の蓄積であり、視覚からのみ感じることのできる色の知覚情報はしまわれていない。だから、私たちは記憶からその色を再現することはできず、なんとなく色を再現している気になっているにすぎないのだ。


 つまるところ、赤を認識できたとしても、赤を認識できなかったとしても、ほかの情報を事前に共有することができていれば、初めから色や景色の正解が与えられるほかの媒体よりも、足りないことによる面白味が生まれるのではないだろうか。


 しかし、この話には重要な問題がある。

 私は色を知覚できているという点だ。


 実際にその立場に立ったことがないものの、独り言なのだ。

 今回このエッセイを書くにあたり、いくつかのコラムを参照した。

 それは盲学校で務める方の綴った、現場での葛藤や、実際にその学校に通っている人たちの生の声が綴られたものである。


 詳細は割愛するが、私はそのコラムから少しだけ勇気をもらったことだけをここに記しておく。


 私は赤という色について、正確に説明することはできない。

 しかし、赤という色を知らなくても楽しむことができる世界は、温度やにおいなど、ほかの感覚情報を絡めながら、もっと表現力や文章力を磨くことで提供することができるかもしれない。

 そんな、知覚よりも一つ手前の知識の共有技術を磨くことで、赤以外の情報を伝えることができるかもしれない。

 そうすればたくさんの人が、より楽しめる作品を作ることができるかもしれない。


 そう感じました。


 以上、ここ数日、知覚の迷宮に陥った、初心者の独り言でした。

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【脱0PV🔰】初心者の目線と感覚で勝手に語る わたねべ @watanebe

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