3

 もしも生まれ変われるなら、私はウミネコになりたい。なんて空想を浮かべながら、どこまでも続く青のなか、飛び交う鳥たちを見上げる。学校の裏門を抜けて海への坂を下っていくと、水平線とカーブミラーが見えた。絵に描いたような夏だと思った。目を細めたその先に、陽炎がゆらゆらと揺れていた。

 制服のまま海に来ているからだろうか、なんだか夏を謳歌しているような気分だ。白いブラウスの袖を捲り、律儀に膝丈にしていたスカートを二回ほど折り曲げる。暑苦しい世界と、社会への小さな抵抗だった。掠る海風に、前髪が揺れて視界がふわりと開ける。遠くから波が打ち寄せて、その度テトラポッドに白い水飛沫がかかっていた。

 堤防の階段に鞄を放り投げて、白い砂浜を歩く。スニーカーの網目に砂が入ってきて、鬱陶しくなって脱ぎ捨てた。靴下も脱いで素足になって、そのまま波へ飛び込む。冷たかった。だけどその冷たさも、気付けばすぐに肌に馴染んだ。

 青春なんていらない、と思う。だけどそう思ってしまう今こそが青春なのかもしれないと、同時に思う。忘れたくない、と海を見た。ただ青かった。

「平内」

 頭上から、ひとつの声がした。私の名字だった。私の馬鹿な身体は、ついに幻聴までもを呼ぶようになったのかもしれないと思った。

「平内凜」

 今度はフルネームだった。聞き覚えのある声だった。嘘だ、と思った。だけど振り返ってみて、そこに彼がいた。

「槙野」

 どうして今、こんなところで。嬉しさよりも先にやって来たのは戸惑いの方だった。鼓動のリズムが狂っていた。槙野の透明な瞳は、私を捉えて逸らさなかった。

「久しぶりだね、元気?」

 槙野は呑気にそう微笑んだ。声も表情も全部が優しくて、もう止めてほしいと思った。

「海、綺麗だね」

「うん、青い」

 もう少し何か、美しい言葉を発そうと口を開く。だけど私の空虚なボキャブラリーは、そう簡単には機能してくれないようだった。

「僕も海、入ろうかな」

 そう呟いた槙野は躊躇なく靴を脱ぎ、私の横で水に浸かった。そのまま歩いて、何かを拾う。掴んだ貝殻を無邪気に持ってくる槙野が、綺麗で澄んでいて憎らしかった。

「そういえばこの前、花火見たんだけど」

「あの、私も行ったよ」

 途端、槙野が柔らかに笑った。その顔を見ていたくなくて、すぐに視線から外した。ざあ、と白波が流れた。

「同じ花火、見てたんだ」

「うん、見てたよ。私槙野見かけたし」

「えー、話しかけてくれればよかったのに!」

 槙野の中で、私は何番目に特別な人なのだろう。そんなことを不意に考えてしまって、そしてまた自己嫌悪。槙野のことだから、みんな大好きだよとか平気で言うのだろう。だけど私はそういうところも含めて全部、槙野瑞希という人間が好きなのだ。感情は制御できない。 

 槙野にとって、一番大切な人は誰なのだろう。この先の人生をずっと一緒に過ごしたいと思うほどの、大切な誰かは彼にいるのだろうか。槙野のことだから、きっともう出会っているのかもしれない。

 伝えたい言葉が、身体のなかを蠢く。言葉が、火照った身体のなかをぐるぐると巡る。それを口に出すことができなくて、乾いた唇をあけたままそこに立っていた。頭がぼうっとした。

「なんかさ」

 ん、と槙野がこちらを見た。瞳は真っ直ぐだった。潮風が綺麗な頬を撫でていた。

「槙野は、素敵な人だね」

 そう、はっきりと声に出した。やっと言えた、と思った。槙野は声を漏らし、驚きを見せた。

「そう言ってくれる平内も、素敵だと思うよ。なんだか空と海の綺麗なところを、全部集めたみたい」

 眩暈がした。それが槙野の眩さに触れてしまったからなのか、ただの熱中症なのか、はたまたどちらもなのかは分からなかった。くらくらした視界のなか、慌てる槙野の整った顔だけを見ていた。夏の匂いに包まれたまま、意識が遠のいていくのを感じた。目を瞑って、そのまま下に崩れ落ちた。砂はさらさらしていて、怖いくらいに温かかった。

 あのね槙野好きだよと、叫んだ感覚だけが身体に残っていた。それが夢で言った台詞だったのか、この唇で届けた言葉なのか、それは私には分からなかった。全部夏のせいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏は眩暈 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画