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「この曲、すごく綺麗」
槙野は綺麗なものを綺麗と、いつも綺麗に言った。思うだけでそれを心に仕舞ったままの、私とは違って綺麗な人だった。
「これも、綺麗」
私は槙野に、沢山の音楽を教えてくれた。
槙野と私は音楽の趣味が合った。一番好きなアーティストも一緒だった。私が良いと思う音を、歌詞を、槙野も良いと思っている、ただそれだけのことが嬉しくて仕方なかった。槙野も私も、夏の音が好きだった。
槙野は深い心を持っていた。槙野の流す曲を調べて聴いて、槙野の心を知れたような気になっていた。洋楽は和訳を見ながら聴いて、恋愛の曲だと少し苦しくなったりした。
今日もまた、あの橋の上を歩いていた。あの日みたいに晴れやかじゃない空も、それもまた違う色で綺麗だと思った。昼下がりの街は、いつにも増して人出が多い。今日は、この街で花火大会があるからだ。私はそれを知っていた。その花火大会が行われる場所は、槙野の家の近くだということも知っていた。槙野なら、絶対に来るだろうということも知っていた。空は灰色に曇っていて、今にも雨が降りそうな雲が近くまで迫っていた。
花火大会には一人で行こうと思っていた。友達がいないわけではない。だけど直前まで、心のどこかで奇跡を信じていたのだ。もし、槙野に会えたら。そしたらその時、一緒に花火を見られるから。なんて、叶わない妄想を浮かべていた。
花火の時間が近づくにつれて、浴衣の男女が楽しそうに横を通っていった。はしゃぐ小学生を見る度に、笑いながらかき氷を買う家族を見る度に、どうしようもなく胸が締め付けられた。お洒落な髪飾りをつけたクラスメイトが、白いワンピースを着て通りすぎていった。誰も彼も、一人で歩く私に目を向けることはなかった。いつの間にか降っていた小雨は、わたしが気付いた頃にはもう止んでいた。
最初の花火が上がって、周りの人たちが歓声を上げた。屋台に並んでいる人も、夜店で働いている人までもが一斉に同じ空を見上げていた。
まだ黒に染まり切っていない七時の空に、鮮やかな花が次々と咲く。少しだけずれて耳に飛び込んでくる花火の音に、心臓を打たれたような心地がした。
「わぁ、花だ、すごい」
両親に手を引かれた小さな子が、無邪気な声で笑っていた。そこから視線を少しだけ動かすと、そこには槙野がいた。息を吞んだ。胸が苦しくなった。部活帰りだろうか、槙野は制服を着ていた。片手にサイダーを持って、友達と楽しそうに夜空を見ていた。槙野の瞳には、この花火がどれほど綺麗に映っているのだろうか。私の見る花火よりももっと、きっとずっと美しいのだろう。私は声をかけず、静かにその場所を離れた。
河川敷に座り、イヤホンをつける。やわらいだ喧騒の向こうで、花火の爆ぜる音がひとつ、またひとつと聴こえてくる。
槙野が好きだと言っていた曲を再生する。耳に直接流れ込んでくるのは痛切で、だけど美しい失恋の曲だった。戻らない過去とさよならと、永遠じゃない夏。そんなメロディを聴きながら、ただずっと、夜空に咲く花を見上げ続けた。
「……綺麗」
ひとりなら綺麗と、そう言葉に出すことができた。
金色の尾を引く花火が、一斉に空に広がる。同じ速度で咲いた花が、同じ速度で散っていった。夏よ終わるな、と甘い声のボーカルが歌った。隣にはいられなくても、今、どこかで槙野も同じ花火を見ている。逸らさずに、目に焼き付けるように、それを眺めた。光で頬が金色に照らされる、瞬きを拒んだ瞳が眩しくて痛い、だけど構わず見つめ続ける。最後の花火が散っていく。遠くから、拍手と感嘆の声が聞こえてくる。苦しかった。残り火のような煙が、辺りに薄く香っていた。一生夏でいいよ、と言葉がこぼれた。
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