あの夏はもう戻らない

クロノヒョウ

第1話




 七月二十日、朝。


 スマホのアラームで目を覚ます。


 ベッドから出てリビングに行きエアコンをつけ、時計がわりのテレビの電源を入れてからバスルームへ向かう。


 歯みがき粉を乗せた歯ブラシを口に突っ込みくわえたまま服を脱ぎシャワーを浴びる。


 さっと汗を流しバスタオルを腰に巻きつけリビングに戻るとちょうどいい具合に冷えている部屋。


『関東地方でもきのう梅雨明けが発表されました……』


 テレビの中の女性アナウンサーの声を脳ミソのどこかで聞きながら冷蔵庫から取り出した冷たいペットボトルの水を飲む。


 朝食は食べない。


 そんな時間があるのなら五分でも長く寝ていたいと思うのは俺だけじゃないはずだ。


 ドライヤーで軽く髪を乾かしてから半袖のワイシャツに袖をとおし準備ができたらテレビとエアコンを消して出勤だ。


「暑っ」


 玄関のドアを開けた瞬間、異様な暑さの風が体にまとわりついてきた。




「おはようございます」


 医療機器を扱う外資系の会社が俺の職場だ。


「おはよう森山。今日も暑いな」


 いつも俺より早く出勤している事務長に向かってうなずく。


「っすね」


 最近は皆、口を開けば暑いという言葉しか出てこない。


 余計に暑くなる気がしてうんざりだ。


「そうだ森山。夏休みの申請、あとはお前だけだぞ」


 この会社にお盆休みはない。


 だから八月から九月にかけて各自が夏の休暇を申請しなければならないのだ。


「あー、はい。考えておきます」


 長期休暇なんていらない。


 休んだところで、だ。


 地方出身の者は里帰りを、家庭がある者は家族サービスを。


 あとは恋人と過ごしたり旅行や海に行くなど皆何かしら予定をたてているようだが、俺は独身で家庭もないし恋人もいないし地元に帰るつもりもない。


 そもそもお盆に休みがとれないから友人たちとのスケジュールも合わないのだ。


「明日には提出しろよ」


 事務長に「はぁい」と返事をしながらデスクに座りパソコンの電源を入れた。


 夏休み、か。


 卓上カレンダーとにらめっこしながら夏休みをいつ、どう過ごすかを考えていた。


 俺にとって、後悔してもしきれない夏休み。


 できるならあの頃に戻ってやり直したいとずっと思っていた。





 家が近所で親同士が仲良くて、そう、よくある幼馴染みというやつだ。


 遠藤晴紀はるき、晴紀とは小学校中学校はもちろん、高校まで同じだった。


 登下校も部活も一緒、高校の時なんかはクラスが違ってもわざわざ俺のクラスまできてお昼を一緒に食べるほど仲が良かった。


 俺は男三人兄弟の長男で、晴紀は一人っ子だったせいか、出会った時から俺にべったりだった。


 どこへ行くにも何をするにも俺の後ろをついてきて俺のまねをしようとする晴紀。


 悪い気はしなかった。


 同い年だけど俺よりも小柄で、茶色がかったふわふわの柔らかい髪の毛、大きな瞳でかわいらしい顔立ちの晴紀と一緒にいるのはひそかな俺の自慢だった。


 自分の弟たちよりも懐いてくる晴紀は親友であると同時に家族のような兄弟のような、とにかく大切な存在だった。


 だからこの先もずっと一緒にいるのだろうと、当たり前のようにそう思っていた。


 『亮介りょうすけ、今年の夏休みは何する?』


 四年生くらいからか、毎年七月になると晴紀は決まってそう聞いてきた。


 晴紀は毎年八月になると両親と一緒に田舎の祖母の家に行っていたのだが、俺と離れたくないからと一人で留守番するようになったのだ。


 その間はうちで預かることになった。


 男三人だったのが一人増えるだけだから何も変わらないわよと言って母は笑っていた。


 しかも晴紀はよく掃除など母の手伝いをしていたから、母はよほど嬉しかったのだろう。


 『あんたたちも晴紀くんを見習いなさいよ』


 何かある度に母は俺たち兄弟にそう言っていたのだから。


 俺ももちろん夏休みがくるのが一番の楽しみで、晴紀と何をして遊ぼうかとそればかり考えていた。


 小学生の頃は二人してお昼近くまで寝ていた。


 起きてご飯を食べ、母に言われる前に夏休みの宿題をちょっとずつやる。


 午後からは毎日のように市営プールに行って遊んだ。


 中学生になって、俺が野球をやってみたいと言うと晴紀も俺もやると言ったから二人で野球部に入った。


 だから中一の夏休みは部活であまり遊べなくて、俺たちは一年生の終わり頃にあっけなく辞めた。


 そんなに強豪校ではなかったし、遊びの延長みたいな部活だったから楽ではあったけれど、細くて運動神経もあまりよくない晴紀が先輩たちにからかわれたりしているのが嫌で我慢できなかったのだ。


 『ごめんな亮介。部活辞めたの俺のせいだろ?』


 晴紀はそう言って謝っていたが別にそれだけが原因じゃない。


 晴紀をからかうやつらを許せなかったのもあるけど、野球よりも晴紀と二人で遊んでいるほうが楽しいと気づいたからだ。


 だから二年と三年の夏休みはまた晴紀と思いきり遊んだ。


 プールもだし、海へ行ったり映画を観に行ったり水族館に行ったり夏祭りに行ったり。


 やっぱり晴紀と二人で過ごす夏休みが一番楽しくて一番好きだった。


 高校生になると弟たちの手がかからなくなったからと言って母が働き出した。


 だから母の負担を減らそうと夏休みは俺が両親のいない晴紀の家に泊まって過ごすようになっていた。


 まるで二人で生活しているようで本当に楽しかったな。


 何をしていたかというと、コンビニ弁当やカップラーメンに飽きてきた俺たちは料理を勉強することにしたのだ。


 最初は目玉焼きもうまく焼けなかったのが、毎日動画を見て練習するうちに上手くなっていくのが嬉しかったし楽しかった。


 高校二年生の夏休みは二人でスーパーに行って買い物をして家でご飯を作るのが日課となっていた。


 特に晴紀は料理の腕がすさまじく上達していた。


 晴紀の作るカレーは母のカレーよりも、いや、どこのカレーよりもおいしかった。


 もちろん海にも行ったし夏祭りも花火大会も、夏らしいこともして遊んだ。


 そして三年生の、高校生最後の夏休み。


 俺も晴紀も勉強だけはちゃんとやっていたから受験勉強で焦るようなことはなかった。


 無理していい大学へ行こうとは思っていなかったから夏休みが終わってから本腰をいれるつもりだった。


 俺は上京して都内の大学を、晴紀はすっかり料理の虜になっていて、地元にある料理学校へ行くと決めていた。


 一緒に過ごせる最後の夏休み。


 俺たちは出会ってから初めて別々の道を歩くことになる。


 だから最後の夏休みはたくさん遊ぼうと約束していた。


 なのにその約束が守られることはなかった。


 全て俺が悪い。


 全て俺のせいなのだ。 




 思春期の多感な男子高校生だ。


 女の子やエロいことに興味を持つのは当然で、俺だっていくら晴紀と一緒にいるのが楽しいからといって女の子に全く興味がないわけではなかった。


 男子校だったから出会いがなかったと言い訳しておこう。


 だが三年生になってすぐの時に、同じクラスの友だちに誘われてそいつの彼女と彼女の友だちらと、とにかく大人数でカラオケに行ったことがあった。


 女子と遊ぶのは中学生以来だったかもしれない。


 俺たち男子はそりゃあはしゃいで歌いまくって時間も忘れて盛り上がり、皆それぞれ気が合う子と連絡先を交換しだした。


 もちろん俺も、マキちゃんというかわいらしくてふんわりとした子と連絡先を交換した。


 どことなく晴紀に雰囲気が似ていると思った。


 それからマキちゃんとは連絡を取り合っていた。


 そして夏になり、もうすぐ夏休みだという七月二十一日。


 マキちゃんに告白された。


 明るくて優しくていい子なのは間違いないし断わる理由がなかったから俺はマキちゃんと付き合うことにしたのだ。


 学校帰りに待ち合わせして公園でしゃべったり、夏休みに入ってからはデートで映画を観に行ったり、とにかく誘われるがまま毎日会っていた。


 そう、なかなか晴紀にかまってあげられなくなったのだ。


 あの日、八月初旬、両親もいないし晴紀は一人で大丈夫かと心配になった俺はマキちゃんとの待ち合わせの前に晴紀の家に寄った。


 晴紀は俺の顔を見てすごく嬉しそうにしていた。


 その顔を見て俺は晴紀にちゃんと話そうと思った。


 そう、俺は彼女ができたことを隠していたのだ。


 なぜかはわからない。


 晴紀が寂しがるのではと思っていたのか何なのか、とにかく晴紀には受験勉強だのなんだのと嘘をついて会わなかったのだ。


 二週間ぶりに晴紀と会って、晴紀の部屋に入った。


 そして俺は彼女ができたことを伝えた。


 マキちゃんとの出会いと、どことなく雰囲気が晴紀に似ていることを。


 『は?』


 晴紀は泣きそうになっていた。


 いつも笑顔だった晴紀のあんな悲しそうな表情を見たのは初めてだったかもしれない。


 『ごめんな』


 なぜか悪いことをしてしまったような気持ちになって謝った俺に晴紀が言った。


 『もう、キスとかしたの?』


 驚いたけど晴紀の真剣な表情を前に笑うことすらできなかった。


 『してないよ』


 嘘じゃない、その時はまだ何もしていなかった。


 『じゃあ俺とキスしてよ。俺のほうがそんな女よりもずっと亮介のそばにいたんだし俺のほうが絶対に亮介のこと好きなんだから』


 そう言ったかと思うと晴紀は座っていた俺の上に乗ってきた。


 一瞬だけ、唇に柔らかい感触を受けた。


 真っ赤になっている晴紀の顔。


 俺の中で何かが音をたてた。


 一瞬ではわからない、もう一回したいと思った俺はとっさに晴紀の顔をつかんで引き寄せていた。


 小さな唇に唇を重ね、無理矢理舌を押し入れた。


 必死になって舌をからめていると下半身がズキズキとうずいているのがわかった。


 頭が変になったのかと思った。


 唇を離した時、晴紀の恍惚とした顔が目の前にあった。


 その顔を見た瞬間、俺は訳のわからない罪悪感に襲われ『ごめん』と言いながら晴紀を突き飛ばして部屋を飛び出していた。


 そのまま走ってマキちゃんとの待ち合わせの公園に向かった。


 ベンチに座って心と体を落ち着かせているとマキちゃんが来て『今日、うち誰もいないんだ』と言った。


 マキちゃんの部屋に入るなり俺はマキちゃんを押し倒していた。


 どうやらマキちゃんは初めてではないようで『もっとゆっくり』とか『焦らないで』とか言っていた記憶がある。


 俺はマキちゃんとやりながら頭の中はさっきの晴紀とのキスのことしか考えていなかった。


 あの晴紀の気持ちよさそうな表情。


 あんな顔をするなんて知らなかった。


 そしてなぜ俺はあんなキスをしてしまったのか。


 俺はマキちゃんを晴紀だと思い、晴紀の体を想像しながら果てていた。


 


 それからの俺は最悪だった。


 マキちゃんと会っても罪悪感からか俺の下半身は全く機能してくれなくなった。


 そのかわり俺は毎日のようにあの晴紀の顔を思い出しながら抜いていたのだ。


 俺の様子がおかしいのもあって、お盆が終わる頃にはマキちゃんに愛想をつかされフラれた。


 晴紀とは、連絡もとれずにいた。


 あんなキスをしてしまったことや晴紀をおかずにしていることへの罪悪感は半端なかった。


 晴紀からも連絡はこなかった。


 どうすることもできないまま、あっという間に高校三年生の夏は終わっていた。






 ――夏休みをいつとるか。


 昔のことを思い出しながら一日中考えていたせいで気持ちが沈んだまま帰宅した。


 晴紀とはあれ以来まともに話していない。


 夏休みが終わると本格的に受験勉強に追われていたし、学校で見かけることはあったけど話しかける勇気はなかった。


 そのまま卒業して俺たちは離ればなれになった。


 上京して新しい生活を始めた俺の心は何かから解放されたかのように軽くなっていた。


 ずっと抱えていた不安を確かめるかのように遊びまくって、自分が男でも女でも愛せることがわかった。


 わかったから安心はしたものの、俺の中で晴紀の存在がより大きなものだとも気づいてしまった。


 あの夏をやり直せたら。


 そうすれば今ごろ俺の隣には晴紀がいてくれるはずだったのに。


 晴紀とずっと一緒にいれたのに。


 夏が近づくたびにそう思っていた。


 部屋着に着替えて冷蔵庫から缶ビールを取り出した時、スマホが鳴った。


「はい、もしもし、母さん?」


 母からはよく電話がくる。


 上京してから一度も帰っていないから余計な心配をかけているのはわかっているのだが、どうしても帰る気になれないのだ。


 家族の近況は教えてくれるし、母や弟たちがこっちに遊びに来てくれるから全く会っていないわけでもない。


 ただ、地元に帰ればあの夏の記憶が鮮明に思い出されて後悔に押しつぶされそうになるのが怖いのだ。


『ところであんたさぁ、聞いてる? 晴紀くんのこと』


 俺の心臓が飛びはねた。


 他愛もない話を終えたあと、母が思いがけない言葉を口にしたのだ。


「何?」


『ほら、晴紀くんあそこのホテルで働いてたでしょ? 八月から海外に行くんだって。向こうでお店やってるオーナーさんから誘われたらしいのよ』


「へえ」


 鼓動が激しいままそっけない返事をした。


 そうか、すごいな晴紀。


『あんたやっぱり知らなかったのね。あんなに仲良かったんだから連絡くらいしなさいよ。もう何年になる? あんたがそっちに行ってから、八年?』


「七年」


『どうせ一回も連絡してないんでしょ』


「ああ、うん……」


 電話を切ったあとも俺はしばらく興奮していた。


 晴紀が海外か。


 がんばってるんだな、晴紀。


 なんだか誇らしいし、まるで自分のことのように嬉しかった。





 七月二十一日、朝。


 スマホのアラームで目を覚ます。


 はずなのに、目覚めに聞こえたのは枕元にある目覚まし時計の音だった。


 体を起こすとすぐに異変に気づいた。


 ここは俺が住んでいた部屋じゃない。


 見覚えのある部屋、懐かしいベッド、そして妙に軽く感じる自分の体。


 急いでベッドから飛び出しクローゼットを開けて鏡を見た。


「な、んだよこれ」


 そこに映っていたのはまだ幼さの残る自分の姿だった。


「亮介ぇ? ご飯よぉ、起きてる?」


 部屋の外から母の声がした。


「起きてる!」


 そう言うと同時に部屋のドアが開いた。


「あら珍しい、起きてたのね」


 俺を見て驚いた顔をしてからドアを閉めようとする母を呼び止めた。


「母さん、今日何月何日?」


 また驚いた顔をする母。


「今日は、七月二十一日だけど?」


「えっと、何年だっけ? いや、俺何歳? 何年生?」


「は? あんたは十八歳でしょ」


 ということは、俺は。


「ねえ、俺って今高校三年生?」


「もう、何よさっきから。当たり前でしょ。早くご飯食べてよ、母さんも仕事行くんだから」


 やっぱりそうだ。


 俺は高校三年生に戻っているのだ。


 いやまさか、これは夢だ。


 きのうあんなにも晴紀のことを考えていたからこんな夢を見ているんだ。


 それにしてもリアルだ。


 不思議な感覚を抱きながらも懐かしい高校の制服を着てリビングのある一階に降りた。


 そうだ、朝食を食べなくなったのは大学生になってからだ。


 懐かしい母の味噌汁の味に感動しながら考えていた。


 夢だったら何でもできるのではないか。


 早く晴紀に会いたい。


「ご馳走さま、行ってきます!」


 そう思った俺はご飯を掻き込んで急いで家を出た。





「おはよう晴紀」


 校門を入るとすぐに晴紀を見つけた。


「おはよう亮介、今日は早いな」


 あの頃のままの晴紀だ。


 サラフワの髪の毛に大きな目と小さな唇。


 かわいい笑顔。


 思わず見惚れていた。


 走馬灯のように思い出される記憶。


 この顔もだけど、俺のことを一番に理解してくれていて、本当は寂しがりやで、こう見えて意外と男らしい性格で。


 晴紀の全てが懐かしくて愛しくて感動していた。


「何? さっきから俺の顔見て。何かついてる?」


「え、あ、いや、ごめん!」


 晴紀と目が合った。


 吸い込まれるような瞳は俺を映すとさらに大きく開いた。


「え、亮介何泣いてんの!?」


「へ?」


 気づくと嬉しさのあまりか、俺は泣いていたのだ。


 慌てて頬にこぼれてきた涙を手でぬぐった。


「何だこれ」


「お前情緒不安定かよ、大丈夫か?」


 俺を見上げながら晴紀は楽しそうに笑っていた。


「ごめんな、晴紀」


 思わず晴紀に謝っていた。


 あの時、彼女ができたことを隠しててごめん、あんなキスしてごめん、晴紀をおかずにしてごめん、それから連絡しなくてごめん。


 まだガキで臆病だった俺を許してくれ。


 今までのたくさんの想いを込めて謝った。


「何だよ、今日変だぞ亮介。暑くて頭おかしくなったのか?」


 今度は本当に心配そうな顔をした晴紀。


 その時、俺の太ももに振動を感じた。


「ん?」


 慌ててポケットからスマホを取り出した。


 古い機種だったけど指紋認証でちゃんと起動したことにほっとした。


 『おはよう。今日の放課後会える?』


 メールはマキちゃんからだった。


 そうだ、この日、七月二十一日に俺はマキちゃんに告白される。


「夢じゃ、ない?」


 あの日と同じことが起こっている、ということは俺は過去に戻ったのか?


 だとしたらマキちゃんと付き合わなければいいのではないか。


 そうしたら最後の夏休みを晴紀と過ごすことができるかもしれない。


 そうだ、あの夏をやり直せるのだったら過去を変えてやる。


「なあ亮介、本当に大丈夫か?」


 俺を見上げている晴紀を見つめた。


「大丈夫。めっちゃ元気になった」


「ふーん、ならいいけどさ」


 校舎に入って晴紀と別れてからすぐにマキちゃんに返事をして会う約束をした。


 過去を変えるとしてもマキちゃんにはちゃんと会って断わろうと思っていた。




「亮介ぇ、行くぞ」


 昼休み、晴紀が俺を迎えにきた。


「おう」


 そうだった、この頃の昼休みはまだ晴紀と屋上で飯食ってたんだ。


 カバンの中に入っていた弁当箱を持って晴紀と屋上に上がった。


「えーっと、夏休みは何するんだったっけ」


 まだこの世界に慣れないせいか、俺はさぐりさぐりで晴紀に話しかけた。


「夏休み? 八月から親が田舎に帰るから、うちに来るだろ?」


 そうだった、毎年晴紀の家に行くのは八月からだった。


「もちろん」


「またおいしい物いっぱい作ってやるよ」


 そうか、晴紀はもうすぐ料理学校に行くんだったな。


「カレー食べたい!」


 もしかしたらまたあの晴紀のカレーが食べられるかもしれないと思うと嬉しくなった。


「カレーな。カレーもいいけど俺のオリジナル料理もあるから楽しみにしてろよ」


「オリジナル?」


 オリジナルとは初耳だぞ。


「そう、レシピを考えるのが楽しくてさ。暇さえあれば母さんに頼んで何か作らせてもらってる」


「へえ、お前本当に料理が好きなんだな」


「うん、好き」


 晴紀は本当に楽しそうに笑っていた。


 好きなことを勉強して、ホテルのレストランで働くようになって、その腕前が認められて海外にまで行くのか。


 俺はきのう電話で母から聞いたことを思い出していた。


 じゃあ、俺がいた未来の世界では晴紀の夢は叶っているってことだよな。


「なあ晴紀、お前の夢って何?」


「俺の夢? そうだなぁ、自分が作った料理をたくさんの人に食べてもらって、おいしいって言ってもらうことかな」


「それってさ、もしかして、例えば海外にお店出したりとか?」


 聞くと晴紀は目を丸くした。


「なんでわかった? 俺そんな話お前にしたっけ?」


 俺は首を振った。


 いいや、こんな話をしたことは一度もなかったはずだ。


「なんか恥ずかしいしさ、笑われたりしたくないから黙ってたけど、俺の夢は海外に行って修行して、どこかで店を出せたらいいなって思ってる。で、世界中に俺の味を伝えるんだ」


「恥ずかしいことじゃないし笑ったりするわけないだろう。すごいことだと思う。俺は応援してる。誰が何と言おうと晴紀はがんばってるよ。えらいよ」


 思わず熱くなってしまった。


 現に晴紀は海外に行くことになったんだ。


「おう、なんか、ありがとう亮介」


 少し照れたようにしている晴紀だけど、しっかりとした夢を持っている晴紀はとても輝いていたし、とても大きく見えた。


 ん、ちょっと待てよ。


 晴紀の夢が叶うのはもともとの俺の世界だ。


 もしも今、俺が過去を変えてしまったらどうなる?


 俺が何かをねじ曲げてしまって晴紀の夢が叶わなかったら?


 晴紀が悲しむことになるのか?


 俺のせいで?


「もしも俺が本当に店出せたらさ、亮介も食べに来いよな」


 ああ、店出せるよ晴紀は。


 しかも海外にな。


「行くよ、もちろん。海外でもどこにでも、晴紀の料理を食べに行く」


「本当か? 約束だぞ」


 晴紀が俺の目の前に小指を突き出した。


「うん」


 俺は決心しながらその指に自分の小指を強くからめた。


 過去を変えるわけにはいかない。


 晴紀の夢を俺の手で壊すわけにはいかないのだ。


 だからこのまま未来へ戻ろう。


 そう思いながら俺は晴紀に言った。


「晴紀、俺は一生お前の親友だからな」


「ハハッ、当たり前だろ」


 晴紀の目を見つめながら、さらにからまった小指に力を入れた。




 マキちゃんとの待ち合わせの前に急いで家に帰った。


 根拠も確信も何もなかったけど、一か八かで目覚めた場所からだったら未来に帰れるのではないかと考えた。


 部屋に入ってすぐに制服を脱いでクローゼットの元の位置にしまった。


 起きた時に着ていたTシャツと短パンを着てベッドに横になった。


 体は疲れていないけれど、ずっと気を張っていたせいかまぶたはすぐに重くなった。


 目を閉じて晴紀のことを考えていた。


 まだ俺の右手の小指には晴紀の指の感覚が残っていた。


 晴紀の夢は絶対に俺が守る。


 頼むから未来を変えないでくれ。


 俺は心からそう願っていた。





 スマホのアラームが聞こえた。


 見慣れた天井に見慣れた部屋。


 俺は急いで飛び起きてリビングに向かいテレビをつけてその画面とスマホを見て確認した。


 今日は七月二十一日。


 もうひとつ確認だ。


「もしもし? 母さん? おはよう」


 俺はすぐに実家に電話した。


 晴紀の状況が何も変わっていないか確認するには母に聞くしかなかった。


『何よ、どうしたのよ朝早くから』


 珍しいわねと驚く母の声。


「なあ、母さんきのう俺と電話で話したよな?」


『あ、そうそう、ちょうどよかったわ』


「え? 何?」


『ほら、晴紀くんが海外に行くって言ったでしょ?』


 その言葉を聞いてとりあえず胸を撫で下ろした。


『ずっと連絡とってないって言ってたからさ、母さん晴紀くんの連絡先聞いてあんたにメール送っといたから』


「えっ」


『ちゃんと連絡とりなさいよ。もう一生会えないかもしれないのよ』


「いやいや、一生会えないってことはないだろうけどさ」


『とにかく、連絡くらいしなさいよ。わかった?』


「うん、わかったよ。ありがとう母さん」


 通話を切って確認すると確かに母からメールがきていた。


 そこには晴紀のだろうアドレスが載っていた。


 とりあえずそのアドレスを登録してからいつものルーティーンを始めた。


 着替えて家を出て電車に乗ってからもずっと考えていた。


 晴紀にどういう言葉を送ればいいのだろうか。


 『久しぶり』とか『元気か』から切り出すのもよそよそしいしありきたりな気がしてしっくりこない。


 つまらない言葉しか思い浮かばず、打っては消してを何度も繰り返した。


 電車を降りて会社に着く寸前まで悩んでいた。


 もうこれ以上考えてもいい言葉が見つからないとあきらめた俺は『おめでとう』とだけ入力して送信した。




「おはようございます」


「おう、おはよう森山」


 自分のデスクに座りパソコンを立ちあげ気を取り直そうとしたものの、妙な緊張感はずっと続いていた。


 晴紀は突然俺からメールがきてどう思っているだろうか。


 晴紀は真っ直ぐで思いやりのある優しい男だからきっと無視したりせず何かしら返事はくるだろうけど。


 などと考えていたら俺は大変なことに気づいた。


 俺、『おめでとう』だけ送って、亮介だって名乗るの忘れてるじゃん。


 もう一度名前だけでも送ろうかと思ってスマホを手に取った時だ。


『約束、守れよ』


 画面に映し出された晴紀からのそのメッセージを見た瞬間、俺の小指に晴紀と強くからませたあの指の感覚がよみがえった。


 ああ、約束したもんな。


 海外でもどこにでも食べに行くってさ。


 思わず笑みがこぼれた。


『守るよ』


 もう俺の中で迷いや不安はなくなっていた。


 やっぱり何があろうと俺たちは一生親友なんだ。


 だから俺は晴紀のことをずっと見守っていたいし応援もしたい。


『待ってる』


 たったひと言ずつのメッセージだけれど、俺たちにはこれで充分だった。


 わざわざ名乗らなくてもわざわざ説明しなくても俺たちの心はまだ繋がっている。


 俺たちの想いは七年前のあの夏以来またひとつになった気がした。


 ずっと後悔していて、ずっとやり直したいと思っていた高校三年生の夏。


 俺は本当に過去に戻ったのか。


 いいや違う。


 あのことがあまりにも衝撃すぎて俺があの屋上での晴紀との約束を忘れていただけだったのだ。


 きっと夢がそれを思い出させてくれたのだろう。


 とにかくわかったことは、どんなに後悔しても人生やり直しはきかないということだ。


 だから失敗したり悔やんでいることがあっても前に進むしかない。


 勇気を出して、その失敗に向き合うしかないのだ。


 そうと決まれば、早速晴紀に会いに行こう。


 時間を戻せないなら、時間を進めればいいじゃないか。


 これからの俺たちの新しい夏を作ればいい。


 そう考えると楽しみでたまらなかった。


 ああ、早く晴紀に会いたい。


「事務長! 夏休みの件ですけど……」


 俺は胸を弾ませながら勢いよく立ち上がった。




          完


 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの夏はもう戻らない クロノヒョウ @kurono-hyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説