わたしなんか産まれて来なけりゃ良かった!

志乃原七海

第1話灰色のリボン



灰色のリボン


物心ついた時から、世界は灰色だった。色のない景色の中で、わたしはいつも息を潜めていた。「お前は本当に要領が悪い」「どうして普通にできないの」。両親のため息が、わたしの存在価値を少しずつ削り取っていく。わたしなんか、産まれて来なければ良かった。誰の迷惑にもならずに済んだのに。


人生は、その灰色を塗り重ねるだけの作業だった。必死に息を吸っても、胸を満たすのはいつも虚しさだけ。いいことなんて、何一つなかった。


そんなわたしが、結婚し、母になった。夫は、わたしの灰色の世界に無理やり色をつけようとしない、穏やかな人だった。だから一緒にいられたのかもしれない。お腹に新しい命が宿った時、初めて恐怖以外の感情が芽生えた。この子を腕に抱けば、わたしの世界にも色がつくのかもしれない。淡い、淡い期待だった。


娘の由美が産まれた。赤ん坊の柔らかな肌も、ミルクの匂いも、きゃっきゃと笑う声も、確かにわたしの世界に束の間、光を差した。けれど、わたしという人間が根っこから変わるわけではなかった。


「ママ、この算数、教えて!」

宿題のノートを広げる由美のキラキラした瞳が、わたしには眩しすぎた。その純粋な期待が、わたしの空っぽの頭と心を突き刺す。

「……ごめんね、ママ、わかんないから。パパが帰ってきたら、教えてもらいなさい」

「えー、今知りたいのに」

「ごめんね」

わたしにできるのは、謝ることだけ。由美が求めるものを、何一つ与えてあげられない。勉強も、自信も、明るい未来への希望も。わたしが持っていないのだから、当然だ。わたしはいつだって、由美から逃げていた。向き合うことが、怖かった。わたしの「空っぽ」が、由美に伝染してしまうのが怖かった。


夫はよく、「君は頑張りすぎだ」と言った。違う。わたしは、頑張ることすら放棄していたのだ。夫と由美が楽しそうに話しているのを、少し離れたキッチンから眺めるのが、わたしの定位置になった。わたしは、この家族の輪郭をなぞるだけの、影のような存在だった。


由美は中学生になった。わたしに似ず、活発な子に育ったように見えた。けれど、その内側で何かが少しずつ歪んでいることに、わたしは気づいていた。いや、気づかないふりをしていた。派手になっていく身なり。増えていく友達との外泊。そして、学校からの電話。


その日、わたしは由美の部屋で、ぐしゃぐしゃに丸められた答案用紙を見つけた。目を覆いたくなるような点数が並んでいた。

帰宅した由美を、わたしは生まれて初めて、本気で問い詰めた。

「由美、これは何なの!あんた、将来どうするつもりなの!」

声を荒げるわたしを、由美は冷め切った目で見つめていた。

「……うるさいな」

「うるさいって、どういうこと!あんたのためを思って……」

「あたしのため?」

由美の口元が、皮肉に歪んだ。

「ママが、あたしのために何かしてくれたことなんて一度もなかったくせに。勉強教えてって言っても、パパに聞けって言うだけ。相談したって、困った顔するだけ。あんたは、ただあたしを産んだだけじゃない!」


その言葉が、わたしの心臓を鷲掴みにした。


「あんたなんか、親じゃない!」


ああ、そうだ。その通りだ。わたしは親の役割を果たせていなかった。ずっと逃げてきた。


そして、由美は、わたしが心の奥底で、ずっと自分自身に言い聞かせてきた言葉を、わたしに向かって突きつけた。


「自分なんか、産まれなきゃ良かった……!」


刹那、わたしの頭の中で何かが切れた。灰色の世界が、真っ黒に塗りつぶされる。溢れ出したのは、悲しみでも怒りでもなかった。ただ、どす黒い肯定の感情だった。


「……そうね」

わたしの声は、自分でも驚くほど静かだった。

「あんたなんか、産まなきゃ良かったわ」


由美の目が、驚きに見開かれる。その顔を見て、わたしはさらに言葉を続けた。それは、ずっとわたし自身を縛り付けてきた呪いの言葉。


「ごめんね。でも仕方ないのよ。こんなわたしが産まれて来なけりゃ、あんただっていなかったんだもの。そうでしょう?」


わたしは、壊れた人形のように笑っていた。


「ぜんぶ、ぜんぶ、ママが悪いの。ママが、産まれてきちゃったのが、すべての間違いだったのよ」


言ってしまった。言ってはいけない言葉を。娘の存在そのものを、わたしの「間違い」の証明にしてしまった。

由美の顔から、みるみる血の気が引いていく。その瞳に浮かんだのは、怒りや反抗心ではなかった。絶望だ。わたしがずっと抱えて生きてきたものと、同じ色の、深い深い絶望。

由美は何も言わず、踵を返して自分の部屋に駆け込み、力任せにドアを閉めた。鍵のかかる音が、わたしたちの間に、決して越えられない壁を作った。


わたしは、その場に崩れ落ちた。

ああ、わたしは、なんてことをしてしまったんだろう。

わたしは、わたしを縛り付ける呪いを、愛する娘に、同じように巻きつけてしまったのだ。

「産まれなきゃ良かった」という灰色のリボンを、由美の首にも固く結んでしまった。


床に冷たい涙が落ちる。それは、自分のためではない、初めて流す涙だった。由美の未来を、わたしが奪ってしまった。わたしの手で、彼女の世界を灰色に染めてしまった。


「……ごめん……ごめんなさい……」


誰にともなく謝りながら、わたしは閉ざされたドアを見つめた。

今からでも、この呪いを解くことはできるだろうか。

わたしが産まれてきたことが間違いではなかったと、そう思える日が来るだろうか。

そして、由美に、「あなたを産んで、本当に良かった」と、心の底から言える日が、来るのだろうか。


ドアの向こうからは、嗚咽を殺す、かすかな声が聞こえていた。

わたしたちの長い、長い夜が始まった。

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