第15話 踏み越えて変わるもの、変わらないもの
バスの窓から差す木洩れ陽が、次第に速度を上げて流れていく。先にバスを降りた染倉たちクイズ研究部の部員を追い抜くと、伊奈瀬は振っていた手を下ろして背中をシートに預け直した。
「あーあ、つっかれた……」
「お疲れ」
「おまえに言われるとなんかなあ〜。絶対神坂のが疲れてるだろっていう」
「まあ俺は、幼少から特殊な訓練を受けている身だしな。これしきのことで特別に疲れるってことはないが」
そう言って、通路側の席に座った神坂が笑った。駅で拾った客も一通り降りてしまい、車内には人の姿がほとんど残っていない。音声広告がのびのびと空っぽの空間を駆け抜けていく。
「俺は仕事に慣れていても、お前は違う。お前にとっては色々なことが起きすぎた」
「まあ、そう言われたら頷くしかないんだけどさ。慣れないクイズ大会に慣れない手助け……でもま、無事に全部終わって安心したわ。たまにはこういう忙しいのも悪くないのかも」
「全部……ね」
そう口にした神坂の表情は、いつになく優越を含んで艶めいていた。プラスチックの肘掛けについた頬杖から覗く口元が、知的かつ嗜虐的に歪む。伊奈瀬は息を呑んだ。
「なあ伊奈瀬、気づいてたか?」
言葉を紡ぎ出しながら神坂は、通路に背を向けるように伊奈瀬の側に身体を向けると、その手をゆっくりと伊奈瀬の首元へと伸ばした。座席は路線バス特有の硬い長椅子で、肘掛けといった神坂の行動を阻害するものは何もなかった。ただでさえ近い距離が、いっそう、異様に、縮まってゆく。かといって通路側を塞がれた伊奈瀬に退路はない。
されるがままにネクタイを左手で掴まれると、犬の首輪のように軽く引っぱられた。加えられる力に負け、伊奈瀬の体勢は首を晒すように前のめりになる。心よりも先に肉体が危機を感じ取り、鼓動の主張を激しくした。神坂の低い囁き声が耳元で響く。
「お前の位置から俺が見えてるってことは、俺の位置からもお前が見えてるってことだ」
「何……」
伊奈瀬のネクタイを左手で掴んだまま今度は右手を伸ばし、神坂はノットの裏側に指を入れた。首を解放されると同時に覆い被さらんばかりだった距離も元に戻り、伊奈瀬は詰めていた息を密かに吐き出す。
背もたれに背をつけ直した神坂は、伊奈瀬に向けて差し出した右手の上に、小さな機械のようなものを載せていた。
「盗聴器」
彼は言った。あまりにも犯罪の匂いが強すぎるそれに、伊奈瀬は軽く絶句する。それが、伊奈瀬のネクタイの裏についていたというのか。……一体いつ? いつから盗聴されていた?
「あ……」
思い当たる瞬間が記憶から掘り起こされ、伊奈瀬は呻いた。
「一回戦の直前か……!」
解答者席に立った伊奈瀬の首に手を伸ばし、神坂が伊奈瀬のネクタイを直した時だ。身なりを整えろとか何とか言っていたが、あれは伊奈瀬の衣服に触れるための建前か。
「正解」神坂が満足げに目を細める。
「けど、なんで……オレは全然、おまえのこと裏切ったりとか何も……!」
「お前のことを警戒していたんじゃない。俺が警戒していたのはお前に近づくかもしれない悪い虫だ」
「悪い、虫……?」
まさかここにきて恋愛云々の話はしまい。そして、神坂ほど悪の道を歩み慣れた人間がそう形容するだけの立場にいる人間なんて、そう多くはいないはずだ。……いや、むしろ。
「……まさかとは思うけど、同業者……なんて言わないよな」
神坂は何も答えなかった。無言で、ただ、微笑むだけ。伊奈瀬は途端に背中が粟立つのを感じた。
だが、確かに説明はつくのだ、何もかもに。朝に駅でバスを待っていた際、近づいてきたスカウトの男から伊奈瀬を庇うように動いた神坂のさりげない気遣いであるとか、神坂自身がさっき口にした、「伊奈瀬に神坂が見えているということは神坂にも伊奈瀬が見えているのだ」という発言であるとか。あれはきっと、千梅先輩と舞台上で仕事の話をしていた時のことを指しているのだろう。伊奈瀬は舞台にいる神坂たちの様子を客席からほとんどガン見していたし、そのことを後で神坂に指摘されもした。見られていたという証拠だ。
神坂が今日護衛していたのは、千梅先輩一人じゃない。二人だ。伊奈瀬針羅を含めた二人。
「いや、でもなんでそんな……わざわざ高い金払って高校生殺すとか……」
伊奈瀬が思考に没頭してそんな独り言を吐いた時、バスが減速を始めた。車体が徐々に左に寄り、停止する。プシューと気持ちのいい音が聞こえると同時にドアが開き、一人の客が乗り込んできた。伊奈瀬は反射的にそちらを見る。見覚えのある男だった。
見覚えはある。が、このタイミングでこの車両に乗ってくるにはあまりにも不自然な客でもあった。何しろその男はつい先刻まで伊奈瀬たちと同じ場所におり、伊奈瀬たちよりも先にその場所を出ることは、普通にしていればできないはずだったのだから。
休日にも関わらずビジネスマン風のワイシャツ姿。少し神経質そうで教師としてはいささか柔軟性に欠けるであろう顔つきの、三十代半ばほどの男性。
白亜女子高等学校競技クイズ部顧問、松原孝明──
松原は車両全体を軽く見回すと、空席がほとんどであるにも関わらず、伊奈瀬たちの座っている車両後方へと歩き始めた。乗車時は六人だったこともあり、伊奈瀬たちは一番後ろの長い席から一つ前にずれた、奥の二人席に座っていた。自然、こちらに歩み寄ってくる松原の顔が見える。数多の座席越しに目が合う。
「こっ、神坂……」
伊奈瀬は震える指先で神坂の袖を掴んだ。今となっては自分が窓側の席に座っていることすら予定のうちだったのだろうと思う。今から戦闘が始まるのなら神坂に縋りつくのは邪魔だろうとわずかに残った理性が顔を覗かせ、伊奈瀬は慌てて手を離した。
「大丈夫」
神坂の低くもさっぱりとした声が、普段よりもいっそう心地よく、伊奈瀬の耳に届いた。それで冷静さを取り戻した伊奈瀬は窓に背を預けるように後ずさり、前の座席と神坂の身体に隠れるように身をかがめた。
一列、二列と空席を通過し、松原が近づく。
「お疲れ様です」
神坂が言った。
「うい、お疲れーい」
松原が言った。外見からは想像もつかないラフな返事が聞こえたかと思うと、前の席が揺れて軋んだ。松原が座っていた。
「…………えっ?」
「紹介も何もあったもんじゃないとは思うが、俺の父親だ。少なくともこの件に関しては味方と断言していい」
神坂が前の席を手で示して答えた。「大丈夫って言っただろ?」とでも言い出しそうな軽さだ。伊奈瀬は緊張を漲らせた肩をがっくりと落とし、項垂れたまま何度も頷いた。
「……あー、なるほど……。…………なるほどね…………」
顔と名前を自在に変えて各地を飛び回っている詐欺師。それが神坂優人の父親だったはずだ。
「つまり、替え玉ですか。本物の松原孝明先生は別にいて、何らかの手段で入れ替わった──なら、今日使った問題の選定をしたのも本物の松原先生じゃないかもしれない。たまに変な問題混ざってましたよね」
飲酒が禁止されている十代しか参加していないクイズの対戦に危険めな酒の名前を登場させたり、本物の殺し屋がいる場に「暗殺者のパスタ」を配置したりした。詐欺師のユーモアと言ってしまっていいのかわからないが、そういった悪戯をしそうな雰囲気は既に感じる。
「あれは俺なりの倅への忖度だったんだけどね。得意だろ○○、そういうの」
「本名で呼ぶな。外で。あとあれは忖度とは呼ばない、嫌がらせだ」
険しい顔で神坂が前の座席を蹴──りそうになったところで、バス会社のことを思ったのか空中で足を止めた。そういうとこだよなあ、と伊奈瀬は横目で見ながら思う。裏社会にいながら芯は染まりきらないところ。きっと、裏社会で生きるにはいささか不器用が過ぎる。
「にしてもこりゃホントにすごいね、イナセ君。うちの倅が好きそうな回転の速さだわ。腹割って話す相手なんか一生作らねぇってツラしてたのにどういう風の吹き回しかと思ってたが、まあ納得するわな。こいつ有能なのがタイプだからさあ、才能とか大好物なんだわ。自分だってそっち側のくせにな。共食いかよって」
「介入するならせめて仕事の話をしてください。ただでさえ満足に役目を果たしていないでしょう、今日のあなたは。これ以上無駄口叩くなら背面の綿ごと心臓ブチ抜いたっていいんですよ」
神坂が手近な降車ボタンを押して言った。伊奈瀬たちが降りる予定の場所ではなかった。冷ややかな敬語とオブラートのない脅し文句。伊奈瀬には見せたことのない顔だ。
すると、神坂の父親は豪快に笑った。……豪快にこそ聞こえるが、実際の声量は伊奈瀬や神坂が普通に話す時よりもずっと小さいだろう。声のニュアンスだけで、聞く側にそう受け取られるよう演出しているのだ。さっきからこちらを振り向きもしないし、「そういう体裁」なのだろうと伊奈瀬は思う。この車内で自分たちは「高校生二人組と一人の成人男性」でしかなく、面識も関係もない。ただ偶然同じバスに乗り合わせただけの、赤の他人だ。
「健気なことだねぇ今回の雇い主様は。ま、制限時間もついたことだし少しぐらいは体裁を保って種明かしを手伝うとするか。……俺の担当箇所を補足しとくと、本物の松原教諭は介護の関係でここ数日出勤してない。本物の松原教諭が使ったと思ってる休暇の日数と、実際に使われた休暇の日数がちょちょ〜っと違ってるだけだ。まあ本人が戻ってきたら違和感ぐらいは感じるだろうが、休みが減ってるならまだしも出勤したことになってんだから必死に訴えるほどではないわな。それに学校なんて七不思議や八不思議の一つや二つ、どこにでもあるモンだからねえ。多少騒ぎになってもだいたいドッペルゲンガーでカタついて終わりなわけよ。まさか一日、自分らの職場が日陰者の祭典になってたとは思いもしない」
大胆な言い分だが、確かにそんなものかもしれない。死体がなければ事件にならず、事件にならなければ現場を詳しく調べられたりもしない。殺し屋だの変装の名手の詐欺師だのは、実在を知らなければフィクションの中の存在だ。
「とにかく、本物の松原教諭の無事は俺が保証するってことだ。イナセ君はそのあたり気にしなくてもオールオッケー。君が何を気にして何を気にしないかは、これから倅が存分に見届けてくれることだろうよ」
伊奈瀬は内心で首を傾げながら神坂を見た。神坂はつまらない授業でも聞いているみたいに頬杖をついている。
バスが再び減速をかけ、左に寄った。完全に停止し、ドアが開く。神坂の父親が立ち上がる。
「報酬は追って支払います。予定通り手渡しで構いませんね?」
「いいよいいよ、金とか。実子の稼ぎ受け取るとか忍びないし」
神坂は皮肉げに笑った。
「意地でも受け取ってもらいますよ。詐欺師のタダは何よりも高い」
「おうおう、できるもんならやってみろや」
手を振るようなこともなく一貫して他人のまま、神坂の父親はバスを降りた。ドアが閉まり、再び景色が動き出す。
「……さて、何の話をしていたんだったか」
深く息を吐き出し、神坂はそう切り出した。伊奈瀬は答える。
「オレの衣服に盗聴器を仕込んでた。どういうわけか、千梅先輩だけじゃなくてオレまで命を狙われてるらしい」
神坂が穏やかに頷く。「そうだったな」
「変な話だけど、盗聴器は目の代わりだろ? おまえがやるべき第一の仕事は、千梅先輩の護衛だった。オレと神坂はだいたい一緒に行動してたけど、仕事の都合上どうしても別行動になるタイミングがある。神坂の目の届かないところにオレがいる時、おまえは音を頼りにオレの状況をチェックしてた。オレに何かあった時、すぐに駆けつけられるようにするために」
伊奈瀬と一緒の時は盗聴器の出番がないから伊奈瀬には目撃のしようがないが、きっと舞台の上にいた時の神坂はイヤホンをしていたはずだ。だから「暗殺者のイケメン」という呼び名が浸透していることをあんなに早く知っていたのだ。あの時、伊奈瀬は意図せず神坂の情報源になっていた。
「なら、神坂のお父さんはさながら『手』だ。千梅先輩の側に問題が起きた時、おまえはオレを置いて現場に出なきゃいけない。そのタイミングで万が一にでもオレのところで問題が起きた時のための、避難の手。そのためにおまえは自腹を切ってまで自分の父親を派遣した。……おまえがお父さんにちょっと怒ってたのは、動くべき状況だったにも関わらずオレを止めなかったからだろ? オレを殺し屋から守るのが目的だったのに、オレが自分から敵の元に走って行ってんだからそりゃ危険だわ。知らなかったとはいえ、それはごめん。余計な心労かけさせた」
「いい、その件は」
神坂は静かに首を振った。
「もう謝罪も感謝も一通り済ませた話だ。蒸し返すのは野暮だろう」
「うん、ありがと」
伊奈瀬は頷いた。頷いた状態のまま、俯く。
「……きっとポリシー曲げさせたよな。自分の仕事の現場に自腹切って身内呼んで、その上千梅先輩の件は依頼人が金払ってこそ人が動いてるのに、オレの護衛は無償なわけじゃん。同じ現場とはいえ、正式な依頼とボランティアが同居してた。仕事を至上とするおまえとしては、お世辞にも健全な状況とは言えない。……そういうことだろ? オレが気にする気にしないっていうさっきの話は」
徹底した仕事人間の生き方にある種の神聖さが宿るなら、伊奈瀬は今日、それを穢したことになる。神坂優人という絶対的な才能であり至高の商材を、伊奈瀬は対価を支払うことなく動かした。私情という極めて人間的な動機を神坂に発露させ、仕事に殉じる一人の職人の価値を貶めた。そういう負い目を背負いきれるのかという問いだ、あれは。
「──はっ、」
心底馬鹿にしたように、神坂が鼻を鳴らした。伊奈瀬は顔を上げる。
「そんなものがお前の解答か?」
神坂は言った。ゆったりと目を細め、歪んだ口元を手の甲で隠して──あの優越と嗜虐心の混ざった笑み。伊奈瀬はその表情を前に、呼吸を止めて固まった。
全部……ね──
先刻同じ表情を見せた時の神坂の声が、今になって伊奈瀬の脳裏に蘇る。
まだ、終わってなどいないはずじゃないか。神坂の仕事は。伊奈瀬の窮地は。
「今回ばかりは俺の勝ちだな。この際だからはっきり答えを出してやる──『違う』。お前は真実を見誤っている。……というよりも、お前は俺のことを買い被りすぎなんだ、伊奈瀬。俺にもこの業界にも、神性なんてものは端から存在しない」
その台詞を紡ぐ間も、神坂は笑っていた──嬉しそうだった。心から。それで伊奈瀬は悟る。神坂にとっては、肉体の躍動なんて一切ないこの場さえも真剣な勝負のフィールドなのだ。伊奈瀬がいかに自分を見破るのかという攻守分かれた推理勝負さえ、殺し合いと同等の価値を有する。
命の取り合いにして、至上の娯楽。伊奈瀬にとってそうであるように、神坂にとってもそれは、遠慮なく本気を振るえる数少ない解放の機会だ。手加減の要らない全力のコミュニケーション。きっと伊奈瀬が神坂の厚意に
「お前が考えるべきは飛鳥井千梅との相違点じゃない。むしろ共通点のほうだ」
息を吐き出して椅子に座り直し、神坂は真剣な面持ちになって伊奈瀬を見た。考えろ、と目が言っていた。
「お前はその情報を既に持っているはずだ。俺が思うに、状況はそこまでアンフェアじゃない。お前自身がそれを特筆すべき情報と思わなかっただけで──お前の感性に引っかからなかっただけの話で、お前が飛鳥井さんと同時期に同じようにして命を狙われていたという事実さえ理解できれば、本来は気づくこと自体はそう難しくないはずだった」
「共通点……オレがもう知ってる……?」
そして、伊奈瀬がその情報を持っているということを、神坂が断言できるもの。そこまで考えて、伊奈瀬は一つの記憶に突き当たる。
「冊子掲載者……! 模試の!」
神坂と離れている時に白亜女子のクイズ部員から聞いた話だ。初対面にも関わらず伊奈瀬針羅という名前に食いついたその女子生徒は、伊奈瀬の名前を冊子で知ったと言っていた。一定の順位に入った者だけが名前を載せることができ、千梅先輩もその中によく名前を連ねているという。
神坂が頷いた。
「つまり、事の成り立ちはこう考えられる。柳に化けていた殺し屋の依頼人は、受験期の子供か孫を持つそこそこの金持ち。名門と呼ばれる大学に行かせて経歴に箔をつけさせたいが、今一歩合格圏まで点数が届かない。不安を覚えた依頼人は、悩んだ末にある解決策を思いついた──確実に受かるような頭のいい『上の順位』の人間を、少しずつ減らしていけばいい、と。そこで依頼人は殺し屋とコンタクトを取り、事前に入手しておいた冊子を渡してこう依頼した。『ここに名前が書かれている息子ないし娘、あるいは孫と志望校が被りそうな人間をピックアップし、複数人殺せ。報酬は人数分出す』。個人情報の保護が重要視される昨今だ、名前が載るったってせいぜい読み、住んでいる地域も都道府県単位の記載だが、ある程度の居住地域と名前がわかっていれば、特定するのはプロにとっては難しいことじゃない。特に、難解だったり珍しい苗字、名前を持った人間は。アスカイチウメ、イナセシンラ──お前らみたいな名前はな」
「何だよそれ……くだらねぇ」
心からの言葉が、口を衝いて出た。神坂の笑う息遣いが鼓膜の上で跳ねる。
「お前がそれを『くだらない』と思うのは、お前がその力を偶然、最初から持っていたからだ。持っていない人間からすれば、たいていは羨ましいか妬ましいかのどちらかだろう。俺も職場ではよくいじめられるしな。『運よく伝説の腹から生まれてきただけの二世タレント』とか──おっと、伝説は余計だったか。お前がその辺の事情に詳しくなってもしょうがない」
神坂は苦笑を装って笑う。「打ち明ける」という行為を口止めとセットでしかできない人生のことを、伊奈瀬は少し想像した。それは果たして幸運なのだろうか。
「でも実際、俺はそういうことを言ってくる年上とか先輩たちの首を、割合簡単に掻き切れてしまうんだよな。くだらない嫉妬だと切り捨ててしまえる事実が、あっちからしたら恐ろしく残酷だったりする。……まあ、だからって大人しくサンドバッグとして奉仕してやれるほど、こっちも余裕だらけの聖人君子じゃないわけだが」
おまえはかなり聖人君子寄りだと思うけど──そういう意見を、伊奈瀬は喉のあたりで飲み込んだ。代わりに、息を吸う。
「まあ千梅先輩がその理由で狙われるのはわかる、三年生だし。でもオレは二年生だよ? 依頼人の子供なり孫なりが三年生なら、オレを殺しても意味がない。学年が逆でも然りだ。依頼人側が二年生なら、三年生の千梅先輩を殺す理由がない」
「そこはわからないだろ、依頼人側が一歳差のきょうだいかもしれない。──それに、正直依頼人側の事情はどうでもいいんだ。俺が気にしているのは『冊子から無作為に標的が選ばれている』という事実、そして飛鳥井家側が俺の会社に依頼した内容だ。つまり、『飛鳥井千梅を守り抜け』。敵対する人間が現れた場合は排除する、というのはあくまでも会社の方針だ。──俺は結果的に柳を殺したが、柳を殺すことはマストではなかった。飛鳥井さん側の依頼は守護一択であり、雇用者側に殺意はない。一方、柳側の依頼人は明確に殺意がある。そして、複数人を無作為に、二年生まで含めて殺すということは、それなりに長期的な計画だったことが窺える。少なくとも現在の二年生が大学受験を終えるまで。……今の段階で柳と連絡が取れなくなったら、依頼人はどうすると思う?」
伊奈瀬の喉がひくついた。
「新しい殺し屋を見つけて同じ依頼をする……か」
「ご明察。だが、飛鳥井家側は千梅さんを守る依頼しか出していない。依頼人もろとも敵対者を殺せとは、うちの会社には今後も依頼しないだろう」
「じゃあ──」
オレはこれからも狙われ続けるってこと? そう言おうとした伊奈瀬の口を、神坂は手のひらを突き出して止める。いつもの、形のいい微笑。
「これはお前には知りようのない情報だが、あの柳の偽物は、俺の会社の同僚だ」
「……は?」
「うちの会社じゃ『裏引き』なんて呼ばれてるが、まあ要は会社に所属していながら、会社を通さずに依頼を受けて仕事をこなそうとした。そうしたほうが会社側から仲介料を天引きされずに済むから、単純に儲かる。無論、重大な裏切り行為だ。会社のネームバリューと支援あってこそ個人の名前が売れていると解釈すべきなのに、その恩義を無視して個人の利益を追求するんだからな。……そして、これはお前もさっき知った情報だろうが、うちの会社は福利厚生が充実してる。大きな成果を上げた者、会社に利益をもたらした者には相応の褒美がプラスされるわけだ。産休育休寿退社はともかく、そうだな、例を挙げるなら──死体の処理、隠蔽工作等の会社のサービスを、何も訊かずに格安あるいは無料で提供してくれる──とか」
話を聞きながら、伊奈瀬は徐々に目を見開いた。脳の回路がバチバチと音と火花をたて、高速で何かを処理しようとしているのを頭のどこかで感じていた。
「神坂、ちょっと待──」
伊奈瀬が手を伸ばすより一瞬早く、神坂の手が動いていた。なめらかで上品、焦りなど全く感じさせない美しい動作でポケットからスマホを取り出し、耳に当てる。──その携帯の機種は、伊奈瀬が登録している番号のものとも会社のものともまた違った。
バスが背にした遠い後方で、何か大きな音がしたような気がした。花火のような、工事のような──突き詰めればそれは爆発と瓦礫の崩れる音だ。伊奈瀬は思わず息を呑む。だが、当然のようにバスは止まらない。窓の外の景色が、陽が傾き始めた青い空と一緒に流れていく。小鳥の長閑な鳴き声が電線の上から聞こえ、離れる。
「もう大丈夫」
親指で画面をタップして発信をやめ、神坂は言った。スマホがゆっくりと耳から離れ、再びポケットへと吸い込まれていく。伊奈瀬はしばらく言葉を失った。
神坂優人は人を殺す。人殺しに慣れている。けれど、神坂優人は仕事人間だ。人を殺す手腕に誇りを持ち、同時に自分と同じ人殺しを、殺人を、犯罪を──正しく憎む職業倫理を持っている。
であるならば、今のは一体何だった? 仕事人間である神坂優人が仕事以外でその手腕を振るう時、そこに付随する意味や感情は、一体何になるのだろう。アクセサリー職人が仕事以外でアクセサリーを作り、パティシエや料理人が仕事以外で他人に料理を振る舞う時のことを、伊奈瀬はつい考えてしまう。消防隊員が出先で偶然火を消し、人を救助すること。医者が飛行機内の呼びかけに手を挙げること。それらと一体何が違うだろうかとも思うし、それとこれとは全然違うだろとも思う。だって人が死んでるし。まあそうでなければ伊奈瀬が死んでいたかもしれないわけだけど。
「お前は好きに飛べばいい。誰かに遠慮して自分の力を隠すようなことを、もうお前はしなくていいんだ」
神坂のその言葉は、なんだか遺言じみて伊奈瀬には聞こえた。別に死ぬわけではないだろうに、今後二度と会えないかのようなことを彼は言う。そして彼は全てが終わったとばかりに背もたれに自分の体重を預けて、ゆったりと目を閉じた。
「なあ伊奈瀬。今日はいい日だな。こんなに天気もいいし、二人もこの手で
そう言って神坂は、力を抜いて傾けた頭を伊奈瀬のいる方向に寄せた。まるで居眠りでもするみたいに無遠慮に、神坂の頭が伊奈瀬の肩の上に乗る。相手の体温と重みを感じながら、伊奈瀬はその横顔を一瞬だけ盗み見る。
きっと神坂は伊奈瀬に対して、自分から離れてほしいと今でも本気で思っているのだろう。彼がその顔を近すぎるほどに近づける時は、いつも他者を怖がらせようとする時だ。神坂は自分の顔の造形が人よりも際立って美しいことを知っている。美しいものに接近され、パーソナルスペースを踏み荒らされることが人にとって時に大きなストレスになることも知っている。その相手が途方もない暴力性と野蛮さを内に秘めているならなおのこと。
けれど、彼は人生で初めて友達ができて、結構本気で浮かれてもいるのだろうと伊奈瀬は思う。結局のところ神坂は、今日の交流試合中に死ぬつもりなんて微塵もなかったのだ。あそこで死んでいたらバスの中のネタばらしなんて永遠にできなかったし、伊奈瀬もいずれは殺されていた。だったらあの弁当ってただ作りたいから作っただけじゃんか。事の背景を全て知った今、伊奈瀬に「走れ」と言われるまで伊奈瀬の元を離れられなかった神坂のことを、伊奈瀬はいじらしいとさえ感じてしまう。おれのために戸惑って、離れがたさに二の足まで踏んでしまう神坂優人。伊奈瀬がこの重圧に耐えかねて、恐怖や侮蔑の目を向けて逃げ出していくのを、今の彼は切実に祈っている。
「──神坂。また週末、どっか遊びに行こ。今度は二人だけで」
だから伊奈瀬は言った。自分にもたれかかった相手の身体に、同じように身を委ねて。
「ケーキバイキングとかどうよ。神坂行ったことある? おまえだったら余裕で元取れると思うんだよな〜。栄養バランスとか気になるんだったら普通に服とか雑貨とか見て回るのでもいいしさ。何なら映画とかカラオケでも……」
「うるさい奴だな、全く」
伊奈瀬の言葉を遮るようにして、神坂が笑った。呆れたと言わんばかりにゆっくりと首を横に振るその表情が、一瞬だけ胸を
この人と一緒にいられる時間なんて長ければ長いほどいいに決まっているけれど、伊奈瀬はこの関係に終わりがあることを始まった時から知っている。それどころか、今日のことで神坂は会社に借りを作っただろう。これから断れない仕事が増えるかもしれないし、無茶な依頼を多く回されることになるのかもしれない。伊奈瀬は裏社会における福利厚生を全く信用していない。
本当だったら自分がそこから外の世界に連れ出してやりたい。けれど今の伊奈瀬にその力はないし、神坂は神坂で、昼の世界にいたのでは退屈で死んでしまうのだろう。伊奈瀬だって大好きな人が徐々に日なたで弱っていくところを見たいわけではない。今の自分にできるのは、終わりの時を待つことだけだ。
でも、だからこそ、許されたこの時間だけは自分の手で彩らせてほしい。好きな人と一緒に過ごして、楽しいことも苦いことも同じ記憶で共有したい。たまに争い、勝敗の数を記録していくのも悪くないだろう。そうしていくうちに彼にとっても昼の世界が忘れがたいものになって、たまに昼の空気が恋しくなればいいと思う。そうしたら伊奈瀬は昼の底まで潜って行って、夜との狭間で再会の時を演出してやるのだ。その頃には伊奈瀬も無力じゃなくなって、傷の一つや二つ簡単に縫い合わせてやれるようになっている。……だから、その時までは隣に。
「いいよ、行こう」
その時、神坂が言った。傾いた身体は、既に適切な角度と距離に戻っていた。伊奈瀬は顔を上げて神坂のことを見返す。
「どうせ短い学生生活なんだ、遊び慣れたお前に案内されておけば、間違いはないし効率もいいだろ。殺し屋には必要ないかもしれないが、詐欺師には一般常識も必要なんだよ。あとエピソード力もな。そういうわけで、行き先はお前に任せる」
そう言ったきり、神坂は本当に疲れたという感じの顔をして目を閉じた。何が特殊な訓練だよ、と思うけれど、この半年ほどで初めて友達を持った神坂からしてみれば、一番慣れないのは友情の崩壊を綱渡りで乗り越えるこの緊張感なのかもしれない。存外に世間知らずの箱入り息子だ。教えてやりたいことが山ほどあるな、と伊奈瀬はスマホを取り出しながら思う。
「やったね。じゃ、気になるとこ全部行っちゃお〜」
「言っておくけど、仕事が優先だからな。週一週二で行ける前提で予定組むなよ」
「わかってるわかってる」
半分上の空で返しながら、伊奈瀬は真っ先にスイーツの店を検索にかける。こことかどう? と画面を見せるついでに居心地のいい肩にもたれ直し、拒絶されない今にひとまずの充足を感じた。
──せいぜい、いい思い出になってやる。
神坂優人の隠しごと 蓼川藍 @AItadekawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます