第14話 伊奈瀬針羅が選ぶ場所

 決勝の切符をもぎ取ったはいいものの、直江部長のチームには序盤で点差をつけられて以降、肉薄することなく逃げ切られてしまったらしい。優勝は白亜三年①チームに決まり、交流戦は幕を閉じた。一年生たちは交流会で仲良くなった生徒と連絡先を交換しに行くと言い、神坂はおそらく仕事の電話で建物の陰に消えた。どうせ帰りのバス停で落ち合うことになるので、残った伊奈瀬、畠、染倉の三人で先にバス停まで向かうことにした。


「……悪かったな、伊奈瀬」


 染倉が唐突に言った。蚊の鳴くような声すぎて、本当に虫が飛んだだけかと勘違いするところだった。山の上は緑が多いが虫も多い。


「え? 何が?」


 一瞬、「今までの非礼全部?」とでも言ってやろうかと思ったが、冗談が通じなさそうなのでやめた。


「だから……無理やり付き合わせたことだよ。今日の試合」

「ああ、それね」


 わかっていながら伊奈瀬は頷く。


「まあ、どうせアレでしょ? 人が足りないとか言ってたのは嘘で、ほんとはオレ以外誘うつもりなかった〜、みたいな」

「ああ、やっぱり気づいてたんだね、伊奈瀬君」


 畠が感心したように嘆息し、顔の前で手を合わせる。


「じゃあ、余計ごめんなさいだ。気を遣ってもらっちゃったよね」

「畠は何も悪いことなんかしていない。全部俺の私怨だ。伊奈瀬、恨むなら俺を恨めよ」


 途端に染倉が伊奈瀬の前にしゃしゃり出てくるので、伊奈瀬は大仰なため息をついた。


「……あのさあ。庇い合いとかされるとオレが悪の大魔王みたいじゃん。染倉はもっと堂々とオレにイヤ〜なこと言って突っ掛かって来てればいいの。別にそんな気にしてねぇし、ライバルなんだからさ」


 染倉の表情が止まった。


「……ライ、バル」

「染倉だってそのつもりだったんじゃないの? 定期テストじゃ未だにオレの不正疑惑あるし、言っちゃアレだけど問題の入手とかヤマ張るのが全くできないわけじゃないじゃん? その点クイズは問題量も膨大だし、テストと違って出題範囲とかないしさ。なんならヤマ張るのでさえ駆け引きの一種みたいなとこあるし。純粋な知力の勝負であり、クイズというフィールドにいかに短期間で順応できるかの努力の勝負でもある──カンニングの技術だけあってもクイズでは勝てない。オレの実力見るにはちょうどいい競技ってわけ」

「高校生クイズなんか、『知の総合格闘技』って呼ばれることもあるぐらいだよ」


 畠が頷いた。


「いっそのことクイズで勝負したらって言い出したの、実は僕なんだ。殴り合ったらスッキリするかもしれないって」

「……意外とアグレッシブなのね、畠君」


 伊奈瀬は思わず苦笑した。神坂と気が合いそうな考え方だ。


「でも……敵わなかったな」


 その時、染倉がしみじみと呟いた。


「強かったよ、伊奈瀬。俺の負けだ」

「強かったねぇ」


 伊奈瀬は返答に困った。場の明るさを保つために「どうだすごいだろう」と胸を張って見せるには、相手が少し真剣すぎた。伊奈瀬はそういう社交で自分のすごさを自ら落として──ある種自分を貶めて周りの人と馴染んできたけれど、今の染倉にその手法は通用しないだろう。染倉は社交を社交と受け取らない。それが真面目な彼の「らしさ」であり、余裕のなさの表れであるとも思う。二人の間には確かに勝敗が、優劣がついたのだ。このたった数日の間で。


 伊奈瀬はこの居心地の悪さを幼い頃から知っていた。友達と集まってゲームをするのもボールを蹴るのも、遠足や修学旅行のトランプだって伊奈瀬は次第に呼ばれなくなるのだ。だって、呼んだら誰が勝つかわかっちゃうから。常勝の馬は儲かるから歓迎されるが、金銭を賭けた麻雀には交ぜたくない。嫌な例えだが、要はそういうことだろう。伊奈瀬針羅は素でチート野郎かつ禁止カードなのだ。だから勝負事に呼ぶのは敬遠されるし、みんなと一緒にいるためには自らハンデを背負うしかない。伊奈瀬が目を輝かせて全力を振るうことは、一人でいることを選ぶということだ。久々にそれを思い出した。


 伊奈瀬は曖昧に笑い、黙って歩いた。


 そうこうしているうちに山の下り坂が終わり、バス停が見えてくる。一列に並んで部員やバスを待っていると、ふと染倉が口を開いた。


「伊奈瀬は……正式にうちの部員になる気はないか」


 伊奈瀬は目を見開いた。遠慮がちにそちらを見ると、染倉もむず痒そうな顔をしていた。


「君が入ってくれたら部としていい結果を出せる……そういう理由ももちろん、ないわけじゃない。でも、それ以上に君の戦いぶりを間近で見ていて確信したんだ。……君は、君も楽しんでいたはずだ。この数日間、クイズという競技そのものを。無理やり付き合わせたのは俺だけど、君が嫌々続けていたわけじゃないのは知っている。だから、部員として本格的に、続けてみないか」

「はは……本気?」


 まさか染倉が──あの染倉が自分を引き留めるような真似をするなんて。自分は努力家の大半にとって嫌われ者で、もう誰かに遠慮して自分を隠すようなことはしないと決めたその日から、これからもそうあり続けるのだと思っていた。


「俺が君に嘘をついたことがあったか?」

「あるだろ、普通に。部員足りなくて困ってるっつってたのシンプルに嘘じゃん」

「それは、確かに」

 簡単な反論で染倉はたじろぐ。

「……でも、俺の嘘は下手だっただろ。君に簡単に見破られる程度には」


 相手が悪かっただけだって、それは──いつかの夜に言ったのと似たような言葉を咄嗟に思い浮かべ、伊奈瀬は、意識的にそれを喉奥に引っ込めた。


「まー、それはそうね。下手だよ、染倉はそういうの」


 それから伊奈瀬は、自分たちが歩いてきたばかりの道を緩慢に振り向いた。やたらに長い車も首の曲がった死体も綺麗さっぱり消え失せた、ごくごく普通のアスファルト。血の痕跡ははなからないにしても、発砲の跡や火薬の臭いだって残っていない。


 あの場で起こった出来事は、もう「ない」ものなのだ。今後事件の存在が知られることはなく、立ち会った者だけが知っている。そして彼らもまた、その存在を黙り続ける。


 二度と掘り起こされない深い暗闇の中に、それらはある。


「ありがたい話だけど、その勧誘は受けられないかな」


 その返答は、存外あっさりと口から出てきた。自分でももう少し葛藤があり、言葉や理由を慎重に準備するのだと思っていた。


「……理由は、訊いてもいいやつか?」

「部活に入ったら、遊べる時間が減るから」


 なんて怠惰な言い分だろう。口にした当人でさえそう思う。だが、これ以上に誠実で切実な回答はないのだ。

 部活に打ち込めるのは高校生の特権だ。けれど、一番大切な友人と一緒の時間を過ごせるのも、伊奈瀬にとっては高校生でいられる間だけの特権だった。離れたらきっと、二度と掘り起こせない。偶然を願う以外に伊奈瀬にできることはない。だから、今やり切るしかないのだ。


 未練のないよう。後悔のないよう。


「まだやりたいこといっぱいあんのよ。放課後に友達とファミレスとかで駄弁ったり買い物したり、まあその程度のことなんだけどさ。この際ケーキバイキングってのも悪くないな。カラオケは……あんま想像つかないか。どうせ上手いんだろうけど」

「なあ、何だったら神坂と一緒でも……」

「なんでそこで個人名出しちゃうかね」

 伊奈瀬は噴き出しながら苦笑した。

「粋ってやつがわかってないんだよなー。そういうとこだよ、オレとお前の気が合わないのは」


 一息置いて、「とにかく、無理だ」と伊奈瀬は続けた。


「こう見えてオレってあんま、『また遊ぼうね』とか言われたことないタチだからさ。誘ってくれたこと自体は嬉しいしありがたいんだけど、どうしても目的が違う。オレが見たいのは部活の頂点とか栄光とか、そういうのじゃないんだよな」


 じゃあ何が見たいのかと問われれば、それはそれで難しい。友人の笑顔? 隠された真実? そう言われればそうだけど、どれもすっきり的を射ているわけではない。もっと漠然としたあらゆるものを、伊奈瀬は暴いて共有したい。


 こうして改めて言語化を試みてみると、伊奈瀬も大概悪趣味で野蛮だ。だからこそ波長が合うのかもしれない。真面目を地で行く染倉でも、何だかんだで調和の取れたクイズ研究部でもなく、一筋縄ではいかないあの友人の隣が。


「──わかった。なら、次の勝負は期末だな」


 染倉が頷いて言った。そんな風に表情を緩めた染倉の顔を、伊奈瀬は初めて見たような気がする。すぐそこに手が差し出されていた。


「次は負けない。必ず一位の座を取り戻して、君が遊んでばかりいたことを後悔させる」

「はっ、いいじゃん。軽く捻ってやるよ」


 そう言って、お世辞にも友好的とは言えない握手を交わす。すると坂の上からささやかな笑い声が聞こえてきて、どちらからともなくその手を解いた。談笑する声が徐々にこちらへと近づいてくるうち、「神坂先輩もうちの部活入ったらいいのに」とはっきり聞き取れてしまい、三人で顔を見合わせて笑った。

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