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文鳥

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「やばいっ……遅刻するっ」

 叫び声が数メートル後ろに置き去りにされる。自転車のギアはとっくに最大。緩やかな上り坂を立ちこぎで上っていく。今朝は起きた時点でまさかの八時五分。枕元に転がっていた目覚まし時計は、『役目は果たした。気づかなかったお前が悪い』とでもいうように、うんともすんとも言わなかった。汗で首筋に張り付く髪が鬱陶しい。括っている暇などなかったし、ヘアゴムも家に置いてきてしまった。勢いを緩めないまま校門を通り抜けて、駐輪場の隅に自転車を止める。全速力で中庭を突っ切り、昇降口で下駄箱から上履きを掴み出して、代わりにローファーを押し込む。履き替える時間さえも惜しくて、上履きを持ったまま廊下を走った。そのまま教室に駆け込み、席に着くと同時に始業を告げるチャイムが鳴った。




「お前ら―教科書の五十六頁。問六と七解いてみろー」

 先生の声を合図に頁を手繰り、ノートにシャーペンを走らせる……が、私の手はほどなくして止まってしまった。わからない、完全に行き詰った。そもそもなんだ動く点Pって。動くなよ、止まっててくれよ。顔を上げると、既にペンを置いている人や周りと相談している人の中にちらほらと、頭を抱えていたり、机に突っ伏していたりする人もいる。諦めて、窓が全開になった教室の中、頬杖をつきながらぼんやりと外を眺める。窓際で、しかも一番後ろの席の特権だ。風に乗って聞こえてくる、たった七日間の存在証明。黒板にチョークでコツコツと解説が書かれ、それをカリカリとシャーペンが追う。音がないわけじゃない、それなのに、とても静かだ。ぽつりぽつりと先生の声が教室に降って、蝉の声が、チョークとシャーペンの音が、その隙間にある静寂を浮き彫りにする。


 増えていく黒と白の文字に皆、精魂を傾けている。私も慌てて板書を始めた。けれど、誰かが蒔いた種から芽が出るみたいに、空想がじわじわと脳を支配していく。そして蕾が花開いた瞬間。まるで、幽体離脱でもして視ているかのように鮮明な映像が浮かんで、数式はどこかへとはじき出された。

 もし今私が消えたとして、きっと誰も気づかない。白いカーテンが大きくはためいて戻るより先に、私の姿は空気に溶けてしまって、カランと机に落ちたシャーペンの音は蝉の声に紛れてしまう。増えた空白は最初からそこにあったみたいに、夏の温度が私の形をして場所を埋める。

 そんな、ありもしない夢を見た。




 放課を告げるチャイムが鳴った。鞄に荷物を詰めながら、どうしようかと思案する。いつも一緒に帰る友人は、今日は部活があるらしい。とりあえず外に出ようと思い立ち、教室を出て、朝と違い時間には余裕があるので廊下を歩き、のんびりと靴を履きかえて昇降口を出る。予定もないので、気まぐれに中庭のベンチに腰かけた。周囲に人の姿はなかった。仮に誰かがいたとしても、わざわざこの小さな箱庭を覗きはしないだろう。眩しい光に目を細める。木々の若葉を湿気を孕んだ風が撫でた。数学の時間の思いつきはまだ頭に引っかかっていて、思わず空に手をかざす。指先からじわじわと色が失われていって、空が透けて見える……なんてことは当然ながら無く。少し日に焼けた手の甲が依然として視界にあった。こんなにも明るい季節だというのに、らしくもなく感傷的な気分になるのは指の隙間から見える青のせいだろうか。いくつになっても空の高さを知るのは冬で、青さを実感するのは夏だった。だから、空がぼやけるのは、純度の高い青が目に沁みたからに違いない。

 きっと、全部夏のせいだ。

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blue 文鳥 @ayatori5101

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