鼠釣り
をはち
鼠釣り
築八十年。
朽ちかけたアパートの木造の骨組みは、まるで白骨化した遺体が積み重なり、
過去の記憶を溜め込んだかのような個性を持って組まれている。
時折、湿った軋みを上げるそれは、さながら生き物のようであり、呼吸すら感じさせた。
神崎創真は、絵の具の匂いをまとってその扉をくぐった。
幾年もの間、開くことの無かった扉は、彼の情熱を受け入れるように口を開いた。
彼の足音が響く度に、部屋は、まるで失われた時を呼び覚ますように色めき立った。
空間そのものがアートである。
美術大学の新入生――いや、そうなるはずだった。
神崎はかつて、名門美術大学の入学試験で不合格の烙印を押された。
あの判定が誤りだったと、彼は今も信じて疑わない。
あの無能な審査員たちが、彼の才能を見抜けなかったのだ。
その屈辱が、彼の心に燃え滾る創作への渇望をさらに掻き立てた。
部屋に満ちたほこりの臭いまでも
自らのアートに取り込もうと、今在る瞬間を全身で必死に呑み込んだ。
この空間が脳を刺激して、新しいアートに息吹をもたらす、まだ二十歳そこそこ。
若さゆえの発想だ。
ほこりっぽい部屋にキャンバスを広げながら、彼はここで生まれるであろう作品に胸を高鳴らせていた。
そうして、創作への渇望を胸にこの古びた二階建ての住まいを選んだ。
しかも家賃は安く、静かで、制作に没頭できると信じて――
だが、現実は違った。
始まりの夜にして彼の幻想は砕かれたのだ。
暗闇の中で、素早く、細やかに床板を踏む、無数の小さな足音。
それはテンポ良く繰り広げられ、良く言えば音楽隊の様だ。
爪が木を引っ掻き、鋭く細い音にカリコリカリカリと独特の音が混じる。
鼠だ。
電気を灯せば、鼠たちは瞬時に合奏を止め、暗闇に戻ると、数秒の間を持って再び始まる。
それが癇に障ること甚だしい。
部屋の隅で光る小さな目が、まるで彼を嘲笑うかのように瞬く。
神崎は最初、箒を手に追い払うことに専念した。
だが、鼠は去らない。
張り巡らされた鴨居の隙間を塹壕のように使い鼠たちは縦横無尽に走り回る。
ふと気配の消える瞬間がある。
そんな時は鴨居から、ひょっこり顔を出して、こちらを窺っている。
それが、彼の神経を容赦なく逆撫でした。
こうして神崎と鼠との生活が始まった。
翌日、神崎は薬局で罠を買った。
粘着シート、毒餌、仕掛け罠、鼠とつくだけで、ありとあらゆるモノを買った。
その数の多さに、神崎は安堵感さえ覚えたが、鼠は狡猾だった。
罠を避け、毒を無視し、夜な夜な彼の部屋を闊歩した。
そんな生活が続く中で、神崎は鼠以外にも、微かな何かの気配を感じるようになる――。
住人は、自分ひとりと思い込んでいたが、
アパートにはもう一人、階上の住人が居ると知ったとき、
神崎の心には、不思議な事に奇妙な孤独感が芽生えた。
一人きりだと思っていた時には、感じ得なかった孤独である。
その足音は時折、天井を鈍く響かせるが、顔を合わせることはなかった。
まるでこのアパート自体が、神崎と鼠だけを閉じ込めた迷宮であるかのように。
苛立ちが募る中、神崎の意識は自らの作品へと向かった。
キャンバスに描かれた抽象的な線、彫刻刀で削り出した木片。
それらが、まるで鼠の存在に呼応するように、不穏な形を取り始めた。
鼠のシルエットを串刺しにしたオブジェ。
血のような赤い絵の具で塗りつぶされた鼠の絵。
部屋は次第に、鼠への憎悪と芸術の境界が溶け合う異様な空間へと変貌していった。
ある夜、神崎は奇妙な光景を目撃する。
棚に吊るした煮干しの袋に、鼠が忍び込む。
数秒後、煮干しをくわえた鼠が、袋から飛び出し、闇に消える。
翌夜も、その翌夜も、同じ光景が何度も繰り返された。
警戒心の塊というべき鼠が唯一見せた油断であった。
神崎の目は爛々と輝き始めた。
これは、ただの害獣ではない。
最早、芸術の一部だ。
鼠は創造の要であり、忌むべき敵であり、芸術という狂気の共犯者だった。
暗闇に潜む神崎にとって、鼠の捕獲方法は、鼠が自ら教えてくれた。
袋の外側に細い紐を巻きつけ、鼠が入る瞬間を見計らって引き絞る。
最初の試みは失敗に終わったが、彼の執念は揺るがなかった。
何度も、何度も、紐を握り、暗闇で息を殺して待った。
そしてついに、鼠が袋に飛び込んだ瞬間、紐を力一杯引いた。
袋の中で暴れる小さな命。
神崎の唇に、初めての笑みが浮かんだ。
しかし、それを見下ろす彼の目は恐ろしく冷たかった。
金属製の槍――彼が数日前から作り始めた、鋭く冷ややかなオブジェ――に、その鼠を突き刺すイメージが脳裏に浮かんだ。
神崎は鼠の肉をそぎ落とし、骨を丁寧に磨き上げた。
白く輝く骨は、まるで聖遺物のように彼の部屋に飾られた。
「鼠釣り」と彼は名付けた。
この行為は、単なる駆除ではなく、芸術だった。
捕獲し、解体し、骨を磨き、オブジェとして昇華する。
その一連の行為に、神崎は陶酔した。
部屋は、次第に白い骨のオブジェで埋め尽くされた。
壁に吊るされた骨、床に散らばる骨、槍に刺された骨。
それらは、神崎の心の奥底で蠢く狂気を映し出す鏡だった。
彼の手は血と脂で汚れ、部屋は煮干しの匂いと腐臭が混ざり合った異様な空気に包まれた。
だが、彼にはそれが美だった。
鼠はもはや敵ではなく、創作の素材であり、彼の内なる衝動を形にする聖なる存在だった。
やがて、鼠の数が減った。
アパートは静寂に包まれ、神崎の心に退屈が忍び寄る。
だが、その静寂の中で、彼は新たな音に気づいた。
階上の住人の足音。
床を擦る音、物が動く音。
それらは、鼠の足音と酷似していた。
神崎の頭の中で、奇妙な確信が生まれた。上に住まう住人は、ただの人間ではない。
鼠の親玉――化け鼠だ。
人間の姿を借り、階上で彼を監視しているのだ。
この確信は、神崎の芸術への執着をさらに加速させた。
彼は、化け鼠を捕らえ、最高のオブジェに仕立て上げることを夢見た。
そのために、彼は新たな計画を立てた。
むき出しに組まれた天井の梁を削るのだ。
古びたアパートの梁は脆く、少しずつ削れば、階上の畳が落ちる。
真下には、彼が丹念に作り上げた槍のオブジェを設置する。
化け鼠が落ち、槍に貫かれる瞬間――それこそが、彼の芸術の完成形だった。
毎夜、神崎は天井を削った。
カリカリ、コリコリ。カリコリカリカリ。
木屑が舞い、部屋はさらに混沌とした。
削る音は、彼の心臓の鼓動と共鳴し、狂気と創造の狭間で彼を高揚させた。
彼は笑った。自分は芸術家だ。
この作品は、誰にも理解されないだろう。
だが、それでいい。芸術とは、理解されるためにあるのではない。
存在するためにあるのだ。
そのような狂気の狭間で、創造者としての勘が神崎の手を止めた。
畳がそのまま落ちては、その重みでオブジェが潰れてしまう。
化け鼠だけをオブジェへと導くように落としたい。
神崎は考えた。
畳の下に板を一枚あてがい固定する。
さらに、下から複数の蝶番を取り付ければ、畳は落下せずに扉のようにパタリと開くはずだ。
そうすれば、ただ標的だけが落ちてくる。これこそ、アートだ。
細工を終えた神崎は、昼夜を問わず、日々カリコリカリカリと梁を削った。
切断してはならない。
だから微量に、僅かに、少しずつ――神崎は時間をかけて梁を削っていった…カリコリカリカリ。
しかし、いくら削っても標的は落ちてこない。
ある日、階上の住人が神崎の部屋を訪ねてきた。
神崎にはそれが化け鼠だと、ひと目で分かった――小柄で痩せ細った老婆である。
落ちてこないはずである。これでは削りが足りない。
「鼠の音がうるさい」と、老婆は言った。
「畳を上げて、薬剤を焚きたいの。ちょっと見てくれない?」
神崎は誘われるまま、階上の部屋へと足を踏み入れた。
初めて見る老女の部屋は、意外にも清潔で、どこか懐かしい匂いがした。
だが、彼の目は畳に釘付けだった。自分が削った梁の跡。脆くなった床下。
老女が畳を指差した瞬間、神崎は誤ってその上に足を踏み入れた。
次の瞬間、床が崩れ、彼の身体は宙を舞った。
真下には、彼自身の部屋。
そして、そこに待ち受ける槍のオブジェ。
神崎は体をひねるように落下の軌道を変え、自らをオブジェの真上へと導いた。
鋭い金属が彼の胸を貫いた。血が床に広がり、骨のオブジェたちが静かに彼を見下ろす。
神崎の唇から、かすかな声が漏れた。
「チュウ」と。
それは、鼠の鳴き声だった。
彼の目は、満足げに輝いていた。
自分の身体が、槍に刺され、血と骨が混ざり合うこの瞬間。
それこそが、彼の芸術の完成だった。
部屋は静寂に包まれた。階上の老女は、ただ呆然と穴の向こうを見つめていた。
神崎の部屋は、骨と血と槍で彩られた、狂気の美術館と化した。
誰もその意味を理解することはなかった。
だが、神崎にとっては、それで十分だった。
芸術は、彼の命と引き換えに、永遠にそこに在り続けた。【完】
鼠釣り をはち @kaginoo8
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