終章:ゼロ・リセット

 一年後。


 私はウェブメディア「TOKYO BUZZ」を退社した。

 そして今はフリーのノンフィクションライターとして活動を始めている。


 私の書く記事は以前のような派手さもアクセス数もない。だがそこには人間の心の機微に深く寄り添う確かな温かみがあると信じている。


『彼女のいた部屋』は多くの反響を呼んだ。特殊清掃業界の実情を知らせると同時に現代社会の孤独の問題を深く掘り下げた記事として高く評価された。


 その後私は同様のテーマで取材を続け「現代の孤独」をテーマにした連載記事を複数の雑誌に執筆している。


 私はあのきらびやかなタワーマンションを引き払い、今は静真が暮らす下町の古いアパートの隣の部屋に引っ越してきていた。


 私たちは恋人同士になっていた。


 それはゲームのようなスリリングな駆け引きのある関係ではない。

 ただ隣にいて一緒にご飯を食べて他愛のない話をして笑う。

 そんな穏やかで温かい時間。

 私が生まれて初めて手に入れた宝物。


 ある休日の午後。


 私たちは私のまだガランとした新しい部屋を一緒にペンキで塗り替えていた。それは静真が提案してくれたことだった。


「……この部屋を響子さんが一番落ち着ける色にしましょう」


 ペンキまみれになって笑い合う。その何でもない一瞬がたまらなく愛おしい。


 死の匂いがしたいくつもの空っぽの部屋。その記憶を乗り越えて私たちは今、自分たちの手で新しい生命力に満ちた部屋を作り始めている。


「ねえ、静真」


「ん?」


「……この部屋、どんな物語が生まれるかな」


「……さあ。でもきっと温かい物語になりますよ。……だって、響子さんがここにいるから」


 私たちは顔を見合わせて微笑んだ。


 私の人生はゼロにリセットされた。


 でもそこは空っぽの無機質なゼロではない。温かい光に満ちた全ての始まりのゼロだった。


 壁に塗られた真っ白なペンキのように純粋で、そしてこれからどんな色にでも染まっていける可能性に満ちたゼロ。


 私は静真の手を握った。彼の手は特殊清掃の仕事で少し荒れているけれど、とても温かい。仕事をする、大きな手だ。


 死と向き合い続けてきた彼の手だからこそ、生の温もりがこんなにも愛おしく感じられるのかもしれない。


「ありがとう」


 私は彼に言った。


「え? 何が?」


「私をゼロから始めさせてくれて」


 静真は優しく微笑んだ。


「俺の方こそ。俺も響子さんのおかげで新しく始められる」


 窓の外では下町の夕日が古いアパートの屋根を染めている。きらびやかなタワーマンションから見た夜景とは比べ物にならないささやかな景色。でも今の私にはこれが世界で一番美しい風景に見えた。


 私たちの物語はここから始まる。


 死の部屋で出会った、二人の新しい生の物語が。


(了)


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【特殊清掃恋愛短編小説】あなたのいない部屋で恋が始まる ~死を掃除する男と、愛を知らない女~(約11,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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