第十四章 赦しの名を風に託して

第一節『灰の天蓋の下、風が泣いた』

アビュッソス上空──。


白濁した雲海を割って、黒鉄の船影が超大型魔導帆船ネビュラ・グレイから静かに降下していく。

小型機動船ノクターン

鋭利な矢のような外装に、蛇腹のようにうねる装甲翼。無数の魔導紋が赤黒く脈動し、空気そのものが拒絶反応を起こしているかのようだった。


アビュッソスの淵。その最奥──

《グリーンリザーブ》。


死の領域と呼ばれるこの地において、唯一、命の色を留めた場所。

深緑の苔が、黒岩の裂け目を這い、うねる蔓が天を目指して伸びる。だが、そこに宿る気配は“生”にあらず。

吐く風すら、どこか“沈黙”の気配を孕んでいた。


やがて、その大地に黒き飛行艇ノクターンが降り立った。ゆっくりとハッチが開き、ひとりの男が姿を現す。


ロキ=ヴィス──シャーマンの末裔。かつての戦いを生き延び、数多の命と対峙し、今なお信じていた。“魂を解放する”という己の正義を。


彼の瞳には、過去のすべて──迫害、失われた同志、死していった魂──が映っていた。


そして彼の眼前にあったのは、セラフィム・ノクス。

──いや、それは「かつてセラフィムであったもの」だった。


その姿は、まるで風穴を“塞ぐ”ために捧げられた神像。

横たわる白い身体。だがそれは眠っているのでも、死んでいるのでもない。

魂だけが、ここにない。

だが肉体は、結界の中心核として“生き続けている”。


彼女の胸元に浮かぶのは、三柱封結界の魔導式。

赤、白、そして黒。三色の紋様が絡み合い、まるで“彼女自身が鍵である”かのように、風穴の封印と繋がっていた。


「……ようやく、ここまで来たか」


ロキの声は、驚くほど静かだった。


だがその目には、激情の渦が映っていた。


「皮肉なものだな。世界を救う者を、世界の扉を開くために燃やすとは……」


彼は、黒衣を風に翻しながら、手にしたものを掲げた。


──アルビ=コア。


魔鉱石を多重圧縮し、サフィアの黒魔力を封じた人工の魔導器。


脈動する黒のエネルギーが、不穏な光を放っていた。


ロキは静かに歩みを進める。


そこに、結界とともに閉ざされたセラフィムの肉体がある。


光でも闇でもない、魔素が漂うその空間に、一歩、また一歩と足音を残す。


彼は立ち止まり、膝をつく。


その姿にはかつての傲慢な威厳はない。


あるのは──願いと贖罪だけ。


「……許されなくていい。


だがせめて、君が眠れる場所を。敬意を表して、祈ろう。どうか……安らかに……」


祈りは誰のものでもない。ただ、自らに刻むためのものだ。


だが──その後に、ゆっくりと立ち上がり、


ロキは言う。


「……セラフィム。君は


媒体として──この儀式の門を開く“贄”となる」


風が止み、魔素がわずかに脈打つ。


彼の指先が結界の中枢へ向かって伸びる。


セラフィムを封体としていた魔導結界が、赤く警告音を鳴らした。


男は静かに膝をつくと、地に手を当てた。そして、呟く。


「これより、**Rite of Liberatio(魂の解放の儀)**を開始する」


魔導器の開口部にマナが一点に集まる。


封印の式が軋み、空気が震え始めた。


そのとき──


上空から、白き影が走る。


「第一艦隊、突入態勢へ!」


「座標アビュッソス、グリーンリザーブ上空──制圧開始!」


──白の艦隊、到達。


ラステ卿の声が、全艦に響いた。

「進路、そのまま!ガルマ・フォン・ウェイン、突入地点に移送!」


飛行艇セレスティアが音を置き去りにして上空を滑空し、背後に十数機の白き艦が続く。


その中に、彼らはいた。


──リュカ・アルヴェイン


──エレネア・フィオフェレス


──サフィア・ルフェリエル


──ティアナ・ルフェリエル


──レオン・ヴァルハルト


──ガルマ=フォン=ウェイン


風を裂き、光をまとい、希望を掲げる者たちが迫っていた。


そして――


地へと跳躍するひとつの影。


ロキは、それに気づき、ゆっくりと顔を上げた。


黒の瞳が、あの時と同じ影を捉える。


ガルマ=フォン=ウェイン。


「……また君か、ガルマ。


君はいつだって……僕の“最後の一手”を止めに来るな」


その瞳には、怒りよりも、諦めに似た寂しさが宿っていた。


何よりも静かに、何よりも確かに、世界が牙を剥く音がした。


第二節『静寂の終わり、そして幕開け』

彼はこの日、戦場に戻った。


過去の親友、そして失った者の意志を抱いて──


何度も何度も、その重みに沈みかけながら、ここまで来た。


結界を見つめ、そこに眠るかつての友に目を落とし、


その向こうで、なおも儀式を進めようとするロキを見た。


そして、誰に聞かせるわけでもなく。


ただ、心からこぼれ落ちたように、呟いた。


「……強く……そして脆いな」


その言葉は、ロキに向けられたのか。


セラフィムか。


それとも、ガルマ自身か──


わからなかった。


だが、それは確かに、アビュッソスに堕ちていく言葉だった。


大地がわずかに震えた。


魔素が、ざわめく。


世界が、最深の対話を始めようとしていた。


セラフィムの封体に、静かに歩み寄る黒衣の男。


ロキ=ヴィス。

その足取りはゆっくりと、だが確かな意思を宿していた。


彼の右手には、アルビ=コア。

かつてサフィアの魔力を封じるために造られた、異形の魔導器。


それを掲げようとした――


その時。


「それ以上、近づくな」


鋼の声が、空気を切った。


ガルマ=フォン=ウェインが、剣を抜いてロキの前に立ちはだかる。


二人の間に風が流れる。

それはただの風ではない。かつて、共に剣を振るった日々の残響だった。


「お前もまだ……分かっていないのか。

 それが、どれだけの重さを背負わせる行為か」


ロキの足が止まる。


だが目は逸らさない。

彼の声は静かだが、張り詰めた弦のようだった。


「わかっているさ。ガルマ……誰よりも、理解している」


「なら、なぜその手を止めない?」


「……私には、もうこの道しか残っていない。

 “彼女”の願いすら、結果的に踏みにじることになると分かっていても……

 それでも、この世界の底を穿つしかないんだ」


「お前が穿つのは、世界の底じゃない。

 お前自身の、埋められなかった過去だ」


ロキのまぶたがわずかに揺れた。


その沈黙の先に、決意がある。


「……行かせてもらう」


ロキは一歩、踏み出す。

魔導器を掲げた。


結界が軋み、警告音が唸る。

空気がピンと張り詰めた刃のように震える。


──だが。


何かが、上手くいかない。

魔導器に集まった魔素が、周囲に弾かれるように揺れ戻る。


セラフィムの肉体が、微かに震えた。


長い眠りから、何かを訴えるように。

その震えは、世界そのものからの拒絶のようで――

それでいて、どこか温かい何かに似ていた。


ロキの表情が、わずかに歪む。


そして――心の中に、語りかける声が、確かにあった。


《……まだ、あなたに……赦す心が残っているのなら……》


その声は、風の中に溶けていた。


「……なぜ、赦す……?

 私たちは、世界に、置き去りにされたはずだろう……

 私は……それでもお前たちを救いたかっただけなのに……!」


世界が、最深の対話を始めようとしていた。


セラフィムの封体に到達したロキは、アルビ=コアをかざす。


黒と赤の光が結界を穿ち、魔素が反応を示す。


それは、“痛み”でも“怒り”でもなく──赦しだった。


ロキの表情が、わずかに歪む。


そこへ、ガルマが降り立つ。


ロキの姿を見据え、静かに剣を構える。


「だからこそ、止める。


それは……救いじゃない、ロキ」


第三節 風は赦しを知っていた

空が、涙を流す。

雲の切れ間から、白光が差し込む。


アビュッソスの縁。

深淵が不穏にざわめき、魔素の風が吹きすさぶ。


赦されながらも、それでもなお。


ロキは、再び歩み出す。


「……セラフィム。

 赦しは、優しさじゃない。

 赦しは……背を向けることだ。

 ならば私は、赦されるべきではない」


魔導器を、強く握る。

その手は震えていた。後悔か、憎悪か、あるいは――執念か。


「もう一度……試す」


ガルマが止めようとする前に、ロキは叫んだ。


「風よ、魂よ、時の狭間にある咎よ──聞け!」

「これより再び、《魂の解放の儀》を始動する!!」


風がうねる。


空間が震える。


アルビ=コアから流れ出す膨大な魔素が、大気を螺旋状に撹乱していた。


結界が歪む。セラフィムの身体が、微かに浮かびあがる。


「……始まる……!」


ロキが手をかざす。


儀式が、動き出したのだ。


その時──


「……このままじゃ、セラフィムが!」


ティアナの叫びとともに、白の艦隊からリュカとレオンが飛び降りた。


そして、グリーンリザーブの縁へと駆け込む。


見上げる空に、ひときわ白い光が降りてくる。


舞い降りる影──エレネア・フィオフェレス。


その顔に、迷いはなかった。

だが、ほんの一瞬、胸元を押さえるようにして目を閉じた。


恐怖がなかったわけではない。

死の気配を、命が燃える痛みを、感じていないわけではなかった。


だが、それすらも受け入れる。


この命が、誰かを守るために生まれたのなら──

彼女は、喜んでその意味を受け入れよう。


「……これが、私の役目なら……

 ルシアナさんが守ったこの命を、

 ちゃんと使わなきゃいけない……」


そのつぶやきが、風に乗って降ってくる。


大地に立つガルマが、ふとその方向を見た。


表情が、変わる。


苦しみ、そして……祈るような想いを込めて、口を開く。


「……お前は、こんな時でも……前を向いているのか……」


かすれた声だった。


ガルマは、誰よりも知っていた。

この場に降り立つ覚悟が、どれほどの重さを持つかを。


彼の目に、少女の姿が“光”に見えた。


彼女は、全てを受け入れていた。


自身が《器》であることを。


そのために、ルシアナが命を賭けて守ったのだと、今は理解していた。


アルビ=コアの魔素が彼女に注がれる。


「……私は、怖くない」


小さく、けれど確かに微笑んだその表情に、神々しさすらあった。


宙に舞うその姿に、羽のような光が差す。


その時だった。


「エレネア……!やめてよ……もう、もういいから!!」


サフィアが泣き叫ぶ。膝をつき、必死に手を伸ばした。


「ぼくは、もう……わかってるんだ。ママを殺したのはエレネアじゃない。


 全部、全部……誰にもぶつけられないぼくの感情を、エレネアに……っ!」


その身体を、ティアナがそっと抱きしめた。


「サフィ、目を逸らさないで。見て──彼女の選んだ在り方を。


 それは、あなたに向けた最大の赦しよ」


涙が止まらなかった。


そして──その時。


風が止む。


エレネアの器に流れ込む魔素が、次第に結界の中心に集約されていく。

その中に──“彼女”の気配があった。


セラフィム・ノクス。


かつて、ふたりの師であり、世界を護った存在。


その一瞬。

リュカとレオン、ふたりの視線が交錯する。


だが、そのまなざしに宿る光は、まるで違っていた。


リュカは、息を呑み、目を見開く。


「……今なら、できるかもしれない……蘇らせられる……!」


その声は、希望にも、祈りにも、執念にも聞こえた。


レオンは、剣の柄を握りしめながら、静かに言葉を発する。


「……還すべきだ。“彼女”の魂を、本来あるべきところへ」


その一言が、地雷だった。


リュカの目が鋭くなる。

レオンの声も張りつめていく。


「……お前は……!」


「忘れたのか、五年前のことを!!」


言葉が、重く空気を裂いた。


周囲の空気が、緊張に満ちていく。


ティアナが目を見開き、サフィアが息を止める。


──五年前。


三傑がロキを阻止した、その裏で。


リュカとレオンのふたりは、密かにセラフィムの後を追って、アビュッソスへ向かっていた。


ふたりの師が、何を為そうとしていたのか。

どうして誰にも告げず、ただひとりで向かったのか。


その答えを、求めて。


そして──


ふたりは見てしまったのだ。


封印となるために、結界の核へと入っていくセラフィムの姿を。


レオンは、動けなかった。


それが彼女の意志であることを、痛いほど理解してしまったから。


一方で、リュカは叫び、走り、結界に飛び込もうとした。


「やめろ!そんなの、救いじゃない!!」


だが間に合わなかった。結界は閉じられ、師の魂は風穴と融合し、肉体だけがこの世界に残った。


──リュカの行動が原因とは言い切れない。


だが、その出来事がふたりの間に、消えない距離を生んだ。


レオンは、あの時を悔いていた。

けれど、それでも「師の選択」を否定することはできなかった。


リュカは、後悔していた。

だが、「助けられたはずだ」と、今もなお自分を責め続けていた。


いま、再びその場に立たされている。


そして皮肉にも、今また──

別の誰かの自己犠牲によって、セラフィムの魂と向き合わねばならなくなっていた。


「……あの時、お前が止めてくれていれば……!

 師匠は、こんな形で囚われずに済んだかもしれない!」


「違う。お前があの時、足を踏み込まなければ……!

 師の魂は、封印の向こうへ“行けていた”んだ!」


「ふざけるな……っ!」


「自分の想いしか見ていないお前が、また彼女を縛るのか!」


激突する視線。

怒号と共に、互いの剣が半歩抜かれかけたその瞬間──


宙に浮かぶエレネアの表情が、やわらかく揺れた。


静かに、確かに微笑んでいた。


それは、自分が“器”であることを受け入れ、

“終わり”を知りながら、それでも他者のために立つ者の顔だった。


ガルマが、その姿に気づいた。


「……ああ……お前もか……

 やはり、お前も“あの人”に似ている……」


その言葉に、リュカとレオンの剣が止まる。


ティアナが、静かに一歩前に出た。


「……ふたりとも。まだ間に合うわ」


目を閉じ、手を掲げる。


展開される白の魔法陣。


「《リターナス・メモリア》──白の祈り」


魔素から魂の記憶を紡ぎ、残された想念を映し出す、弔いの術。


祈りの声が、空気を満たしていく。


魔法陣の中心から、やさしい風が吹いた。


そして──


《リュカ、レオン──》


風の中から、確かな声が届く。


懐かしく、温かく、でももう触れられない“あの人”の声が。


《ありがとう。ふたりとも、あの時……あの選択で、よかったのよ》


レオンの目から、涙がひとすじ落ちた。


リュカは、唇を噛み締め、目を閉じた。


声が、続いた。


《生きて。あなたたちの手で、未来を繋いで……》


その言葉に、ふたりはついに同じ方向を見た。


剣を収め、背を合わせる。


「……俺の背中は、お前に任せるよ、レオン」


「……リュカ。過去を断て。師の言葉と共に」


かつて割れた心が、いま一つになった瞬間だった。


その瞬間、リュカの剣が震える。


彼は、剣を──彼女の気配に、下ろした。


セラフィムを、本当の意味で送ったのだ。


そして──


エレネアが、最後の魔素をその身に抱え──深淵へと解き放った。


器は、完全に機能した。


それは、セラフィムの意思と、エレネアの覚悟がひとつになった瞬間だった。


結界が、静かにその力を終える。

だが、アビュッソスは、静まりはしなかった。


その時──


アビュッソスの最奥から、ざわめくような風が吹いた。


それは、怒りでも悲しみでもない。

どこか、懐かしい音だった。誰かが語りかけているような──


“声”だった。


それを受けて、ガルマ=フォン=ウェインが静かに目を閉じた。


ゆっくりと、深く、地に手を当てる。


そして、ぽつりと呟いた。


「……ザルよ……聞こえるか。俺たちの声が……」


風が返す。


その一音が、大地を、空を、アビュッソスそのものを震わせた。


──ザル=ヴァドル


かつて、三傑のひとりとして名を連ねながら、

最後まで名が語られなかった男。


彼は、シャーマンであった。


それも、“大霊帯者”。

魂の器となり、霊と魔素を媒介なしで通すことのできる者。


その力は、本来ならば禁忌。

だがザルは、それを純粋な祈りの力として使った。


五年前。


セラフィムが風穴の封体となることを決意したあの日。


彼は理解していた。


それが、後戻りのできない、命を焼き尽くす行為であることを。


そして、その決断を、弟子たち──リュカとレオンが受け止められず、封印が“未完成”に終わるかもしれないことも。


彼は、迷わなかった。


仲間の想いが、犠牲に終わってはならない。

その意志を、世界の“最奥”で、誰かが紡がなければならない。


だからこそ、ザルは決断したのだ。


──自らが、魂の記憶を受け継ぎ、アビュッソスそのものと融合することを。


風の声。


魔素のざわめき。


結界の震え。


それら全ては、ザルの“祈り”だったのだ。


セラフィムの魂が傷つかぬように。

世界が、彼女の選択を無意味にしないように。


彼は、五年間もの間、この深淵で静かに声を送り続けていた。


ひとことも語らず、名を叫ばず、ただ──風となって。


エレネアの器が結界を終えたとき。


彼の使命もまた、幕を閉じる。


ガルマの目に、薄く光がにじむ。


彼は、知っていた。

五年前、封印が完了したはずの場所で、確かに“誰かの手”が、彼らを弾き返していたことを。


あれは、魔導ではなかった。

結界でもなかった。


あれは、祈りだったのだ。


「……ザル、お前がいたから、俺たちはここまで来れた」


風が応えるように、静かに吹き抜ける。


そして──


結界の中心から、淡い光が立ち上る。


その中に、一瞬だけ浮かび上がる、黒衣の男の影。


――整えられた髪。しなやかな体躯。穏やかな微笑み。


そして、両手を合わせる祈りの所作。


それは、間違いなく、ザル=ヴァドルの姿だった。


見ていた者たちの胸が、ぎゅっと締め付けられた。


涙が止まらない者もいた。


その姿は、次第に薄れていく。


だが、最後に──彼の唇が、確かに動いた。


《……ありがとう、ガルマ。未来を……頼む》


その言葉を、確かに聞いた。


そして、静かに消えた。


第四節 風は赦しを知っていた

アビュッソスの“声”が止まった。


それは、ザルという魂が、役目を終え、

風として、世界に還っていった瞬間だった。


ガルマは、しばらく動けなかった。


だがやがて、地に頭を垂れ、呟く。


「……本当に、お前って奴は……最後まで、気づかせてくれるな」


空を見上げたその瞳に、何ひとつ迷いはなかった。


「ありがとう、友よ……」


その言葉とともに、アビュッソスの風が、最後の祈りのように、吹き抜けていった。


その時──


器が全ての魔素を抱え──深淵に向かって解き放たれたその瞬間。


風穴の脈動が止まり、

世界を包んでいた魔素の暴走が、静かに収束していく。


空が、深く呼吸するように震え、

アビュッソスの奥から、ただ一筋の“風”が昇っていった。


だが──


その終わりに、エレネアは静かに膝を折った。


ぐらりと揺れる身体。

目の焦点が定まらず、呼吸も浅くなる。


「エレネア!」


真っ先に走ったのは、サフィアだった。


黒衣をなびかせ、何よりも速く、彼女に手を伸ばす。


その小さな体で、懸命に彼女を受け止め、抱きしめた。


「だめだよ、まだいなくならないで……!」


震える声で、何度も名を呼ぶ。


だが──エレネアの身体は、完全に崩壊せず、そこに“在った”。


魔素の干渉が収まった今、本来ならば器は崩壊し、消滅するはずだった。

それが魔導の理。彼女自身も、覚悟していた。


けれど、その姿はまだ、この世界に存在している。


──なぜ?


答えは、すぐにサフィアが見抜いた。


抱きしめたその身体から、わずかに伝わる“残響”。


それは、魔素の伝導──いや、**《魂承の環(アニムス・アンフィクティオ)》**と呼ばれる、最上位シャーマン術式の名残だった。


サフィアの目が大きく見開かれる。


「……まさか……ザル……あなたが……」


この術式は、魂の輪廻すら断ち切り、自らを媒介にして、他者の存在を“世界に繋ぎ止める”術。


だがその代償は、あまりにも大きい。


──施術者の“全て”の喪失。


ザルは、自らを代価に、エレネアという器に**“帰る場所”を与えた**のだ。


彼の魂は、もはやどこにもない。

輪廻もされず、名も記憶も、すべてを持っていかれてしまう。


ただ──その祈りだけが、ここに残った。


そして、セラフィム。


彼女の肉体も、今──完全に光へと還っていく。


それはもう、魂の残滓すらない、純粋な結界素材としての“役目”を終えた証。


彼女は、この世から完全に消えた。


静かに、穏やかに。


エレネアは、涙を流さなかった。


ただ、微かに口元をゆるめ、囁く。


「……ありがとう……セラフィムさん……ザルさん……」


彼女は、確かに生きていた。


サフィアの腕の中で、もう一度、ゆっくりと目を閉じる。


少女ふたりの姿が、アビュッソスの縁にただ静かに在った。


この瞬間こそ、赦しの時間だった。


だが──


そのときだった。


風が逆流した。


大気が、再び脈動を始める。


世界が、終わりかけた静寂の中で──再び“牙を剥く”。


「……まだだ」


その声は、低く、乾いていた。


その場にいた全員が振り向いた。


立っていたのは──ロキ=ヴィス。


その身体は傷つき、膝をついていた。

だが、その瞳だけは、狂気とも悲願ともつかぬ光を宿していた。


「……まだ、終わってなどいない……」


誰もが、もはや戦う理由を失い、剣を下ろしていた。


だが彼は、なお掲げていた。


──アルビ=コア。


全ての魔素が流れ込み、もはや不安定な臨界を超えていたその魔導器。


ロキは、ふらつく体を起こし、それを高く掲げた。


「セラフィムは……消えた。

 だが、その魔素は残っている。

 ならば、“媒体”としての条件は、まだ満たされている……!」


それは、もはや祈りではない。


ただの執念だった。


「もう一度だ……もう一度、俺が……“魂を解放する”!」


その瞬間、地が唸った。


空が悲鳴をあげる。


まるで、先ほどとは逆流するように、世界が黒く染まり始めた。


誰かが叫んだ。


「やめろ、ロキ!!」


リュカか、ティアナか、それとも誰かの声だったか。


ロキの身体が、すでに限界に近いと、誰もがわかっていた。


──けれど、止まらなかった。


狂信の果てに立つ男が、それでもまだ届くと信じていた世界。


それが、どれほど歪んでいても──


彼だけは、最後まで、諦めなかった。


激しく揺れる空の下、

崩れかけた魔素の螺旋の中に、ロキがいた。


その姿を、誰もが見つめていた。


その時──


「……まったく……」


誰かの声が、震える空気を断ち切った。


重い足音が、静かに響く。


ローブの裾が、砂煙をなびかせて歩いてくる。


大剣を背に、堂々と。


ガルマ=フォン=ウェイン。


その姿に、エレネアが目を見開いた。


「ガルマおじいちゃん……?」


サフィアの腕に抱かれながら、か細く、名前を呼ぶ。


だが、彼はすぐには答えない。


その瞳に宿るのは、優しさでも怒りでもなく──

深い、深い、理解。


彼は、ゆっくりと歩み寄る。


エレネアの前で、静かに膝をついた。


そして、彼女の頭を、そっと大きな手で撫でる。


「……よく、頑張ったな」


それだけだった。


ただ、それだけの言葉に、エレネアの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。


何も言えない。


何も言う必要がなかった。


この一言が、どれだけの全てを包んでいたか──彼女には、わかっていた。


ガルマは立ち上がり、サフィアにも目を向ける。


「……これでようやく、お前たちは自分の時間を生きられる」


その言葉に、サフィアもまた、顔を歪めて泣き出した。


「……やめてよ……ガルマ将軍……」


だが、彼は笑った。


苦しみでも、怒りでもない。


ただ、あたたかい笑顔だった。


「ロキを……憎むな。

 あいつは、ただ……“迷っていた”だけだ。

 俺たちと同じように……」


その背に、かつての三傑の誇りと、父親代わりとしての願いと、

村で過ごした穏やかな日々があった。


──エレネアが、不器用な手つきで作ってくれたシチュー。


味は薄かったけど、心が温まった。村のみなと、エレネアと過ごした豊穣祭の夜。朝靄の中鳥たちのさえずりを背に歩いた湖のほとり。


そんな日々が、どれだけ幸せだったか。


思い出す。胸に刻む。


そして──


「……俺は、お前らが……これからも笑って生きられるように、道を切り拓く。

 未来を託された者として……な」


振り向かずに、歩く。


ロキのもとへ。狂気の中心へ。


その背は、誰よりも大きく、頼もしく。


けれど、どこか寂しさも漂わせていた。


誰も、追いかけることはできなかった。


ただ、彼のその背中を──


誰もが、涙を浮かべながら見送った。


最終節『灰の果て、風が還る』

──静かだった。


誰もが息を呑み、ただその背を見つめていた。


ガルマ=フォン=ウェインが、歩き出す。

彼の顔には、穏やかな微笑があった。


すべてを赦し、すべてを背負う者の、それだった。


かつて育てた少女を、あたたかく見つめた後。

その背に声をかける者は、誰ひとりいなかった。


だが、彼らは知っていた。

この背中が、最後の「盾」となることを。


足音が、深淵へと続く岩盤を鳴らす。


魔素がうねり、黒く渦巻くその向こう。

彼が向かう先にいたのは――ロキ=ヴィス。


白髪が風に流れ、黒衣が翻る。

その手に、封印された魔導器アルビ=コアがある。


だが、その手は震えていた。


ロキの目が、ガルマを捉える。


「……また、君か」


声は静かだった。


怒りも、憎しみもない。

ただ、疲れたような、乾いた声。


「いつも、そうだな。本当に何度でも、君は……僕の“最後の一手”を、止めに来る」


「そういう役回りらしい」


ガルマは、構えることなく歩を止めた。


「ロキ……もういいだろう」


ロキは笑う。

それは痛々しい、悲しげな笑みだった。


「“もういい”と、言えるほど……僕たちは、赦されてきたのか?」


「赦しなんて、望んでない。俺たちは……ただ、進むだけだ」


「進んだ先に、何がある? 魂を弄ばれ、殺され、踏み躙られた同胞の残響が、君にも聞こえただろう? 風穴が、世界が……何を孕んでいるか……わかっていたはずだ!」


ロキの声が、一瞬だけ鋭くなる。


だが、すぐに沈黙が戻る。


「僕は……シャーマンとして、正しかった。あの時も、今も、ずっと……」


「違う。正しかった“かもしれない”だけだ」


ガルマの目は、揺れなかった。


「セラフィムを見ろ。ザルを……見たか?」


その名に、ロキの表情が一瞬だけ歪む。


「……見た」


「彼らは、“赦した”んだ、ロキ。自分を、君を、世界を。

 あんなに強いシャーマンが……消えることを選んでまで、次に託した。

 お前には、それができなかったのか?」


「……できなかったさ」


ロキは口を引き結んだ。

その瞳には、かつての少年の影があった。


「……セラフィムを救いたかった。

 君だってわかるだろう? 彼女が、どれだけ僕たちの希望だったか。

 けど、彼女は“選んだ”。自らを捧げるという道を」


「そして、君はその選択を、どうした?」


「……受け入れられなかった。

 ただ、それだけの話だよ、ガルマ。

 僕は、ずっと間違え続けた。

 魂を救うなんて言いながら……自分の執着すら断ち切れなかった」


彼の指先が、《アルビ=コア》をわずかに強く握る。


「でもね、ガルマ。

 僕は……“諦めが悪い”んだ」


「知ってるさ」


静かに、ガルマが歩を進める。


「だから、俺が来たんだろうが」


ロキの瞳が、わずかに揺れた。


「止める気か? 僕を……また」


「……ああ」


ガルマは、彼の目前で足を止めた。


「……俺はお前を、憎んじゃいない。

 だけど、お前を“止める”必要がある。

 それは、俺の役目だ。

 だって――お前は、俺の友だからだ」


ロキの目に、何かが溢れた。

それは涙ではなかった。


「あの頃……ミノル村で、僕が泣いてた時……君が言ったよな。

 “泣いてもいい。でも、立て。立って進め”って」


「言ったな」


「今の君は……それを、僕に言ってるのか」


「違う」


ガルマは、肩の力を抜いて、静かに言った。


「今は……“休め”って言ってやりたい。

 もう、全部、お前が抱える必要はない」


ロキの瞳が、大きく見開かれた。


その瞬間。


《アルビ=コア》が、ガルマの手によって、静かに取り落とされる。


魔素の暴走は、止まっていた。


「……ありがとう」


ロキが呟いた。


「でも、僕はきっと……また、間違えるよ」


「その時は、また俺が止めに来る」


ガルマが微笑む。


「……それだけは、約束してやる」


風が、ふたりの間を吹き抜ける。


重なった影は、もう過去に縛られていなかった。


だが。


「ロキ。……お前も、次に行け」


そう言って、ガルマはそっと彼の肩に手を置いた。


「俺も……行くよ」


そう言って、ガルマは《アルビ=コア》を抱えたまま――ロキを抱きしめ、魔素の渦の中心へ身を投じた。


その光は、穏やかだった。


まるで、過去すべてが“赦された”かのように。


──光が、アビュッソスを満たした。


白と黒と、そして風の色が、空を染めていた。


──静寂が、アビュッソスを覆っていた。

風もなく、音もなく、空すら呼吸を止めたようだった。


からん……ころん。


小さな音が、静寂の中に響いた。

誰もがふと、振り返る。

その音は、黒岩の割れ目から転がり落ちてきた銀のペンダントによるものだった。


ラステ卿がそれを拾い上げ、手のひらでそっと転がした。


「……これは──」


彼の声に、ティアナが目を細める。

そして、そっと裏面を撫でるようにして見た。


そこに刻まれていたのは、月の護符。

煉の月──ミノル村の子どもたちが身に着ける、お守りの印。


ティアナの瞳が、ゆっくりと揺れた。


「……ロキは……」

「かつて、ミノル村にいたのかもしれない……」


それ以上、誰も何も言わなかった。


けれど――

言葉より確かに、風が語っていた。

誰も知らなかったあの男のもう一つの側面を。

静かに、ただ静かに、風が語っていた。


その風に、サフィアは身を寄せるように、泣きながらエレネアのそばに立っていた。


エレネアの胸に、その風はそっと触れた。


きっと、彼は…最初から救いたかったんだ。

誰かを。どこかで。自分を含めて。


涙はもう、流れていなかった。


それでも、胸の奥に、あたたかくて、痛いものが残っていた。


そして、セレスティア号。


ロキの母、クロエ・ヴィスは、静かに詠唱を始めていた。


──白の弔いの詠。


声が、涙が、魂を包み込むように。


彼女には、確かに聞こえた。


《母上……お許しください……そして、愛していました……》


その声が、風に溶けて消えていった──


【終章】風の名を継ぐ者たち

アビュッソス、グリーンリザーブ。


今もなお、深淵の縁でただ一ヶ所だけ草木が芽吹き、生命の色を残している場所。


その一角に──三つの墓標が並んでいた。


ガルマ=フォン=ウェイン


セラフィム・ノクス


ザル=ヴァドル


そして、少し離れたところに、ひっそりと積まれた小さな塚がある。


名は──ロキ=ヴィス


粗末だが、清らかで、どこか人の温もりが残るような塚だった。


この場所に、あの《ユタの危機》──


世界が風穴を前にして崩壊の瀬戸際にあった一連の出来事を共に越えた者たちが、静かに集っていた。


リュカ、レオン、ティアナ、サフィア、エレネア。


そして、ラステ卿、王都からの使節、魔導局の高官、はるか遠くから訪れた者たち──


誰もが、言葉を持たなかった。


吹き抜ける風が、風穴の奥から“唸る”。


だが、誰も怯えはしなかった。


ここに眠る者たちが、“それ”を越えてくれたと信じているからだ。


風に乗せ、ひとりがつぶやく。


「──本当に、ありがとう。あなたたちのおかげで……」


その言葉は誰に向けたものでもなく、だが誰の胸にも染み渡っていた。


時は過ぎる。


──場面は変わる。


グリーンパレス、王立魔導学院 地下最深書庫マルグリットの喉奥(スロート)


王国において、最も秘匿された魔導記録が眠る、王族すら立ち入りを制限される区画。


その最奥に、王ジェイドの姿があった。


彼の手にあるのは、一冊の古びた書物──**《アビュッソス外典》**。


開かれたそのページに、赤褐色のインクで記された幾つもの符号と記述。


王は一度、静かに読み、口元に笑みとも読めぬ表情を浮かべ、ペンを走らせる。


──ある一文を、追記した。


そして次のページをめくる。


そこで、彼は立ち止まった。


沈黙。


一拍ののち──


「……要らぬな」


王はその一枚を破り取り、ゆっくりと懐へと仕舞った。


その動作は、どこまでも冷静で、計画的だった。


再びページを閉じる。


部屋に音はない。いや、音すら拒まれているようだった。


《スロート》の壁の向こうで、風穴が低く、長く、深く──唸った。


まるで、すべての言葉を飲み込んだかのように、静寂が世界を支配していた。


その静けさの中で、誰かがつぶやいた。


「……君は、信じる者を間違えたんだよ」


──fin──

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《風穴(アビュッソス)に堕ちた言葉》――正しさと正しさの狭間で―― 著路 @fiboark21

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