第十三章:迫る闇、空を裂くもの
第一節 崩落の前奏曲(プレリュード)
ヴァッヘの身体が地に沈んだ。
魔導鎧が焼け焦げ、その下の皮膚が炭化していた。が、それでもなお彼は笑っていた。
「……ロキ様の、言葉……あなたたち……気づかないとは……哀れですね……」
最後の言葉が口からこぼれると、静寂が訪れた。
サフィアは息を殺し、拳を握ったまま動かない。
ティアナは、その姿を横目で見ながら、短く「……ごめん」とだけ言った。
エレネアは目を伏せた。唇を噛んでいた。リュカが小さく肩に手を置いたが、返ってきたのは無言だけだった。
レオンが遠くを見た。
「……煙?」
風の向こう、空が裂けるような轟音がした。
黒い影が、空を舞っていた。漆黒の飛行艇。無数の魔力を吸い上げながら、一直線に――第三魔導塔の方角へと向かっている。
「やばい、やつら……魔導塔を狙ってる!」
「飛行艇に魔導兵器を搭載してるのか!?」リュカが歯噛みする。
「追いかけよう」エレネアが顔を上げた。
その表情には、もう迷いはなかった。サフィアも言った。
「……このまま逃げるなんて無理だよ。あいつらを止めなきゃ」
ティアナが、ヴァッヘの死体の隣に落ちていた金属ケースを拾った。
中には暗号化された魔導端末と、何枚かの内部設計図のコピーが入っていた。
「証拠になる。持って帰ろう」
レオンが頷いた。「飛行艇はまだ射程外……塔まで先回りできるかもしれない」
リュカは刀の鞘に手をかけながら、一歩踏み出した。
「行くぞ。守らなきゃならないものがある。絶対に間に合わせる」
風が、彼らの背を押した。
夜明け前の空に、漆黒の影が吸い込まれていく。
第三魔導塔――白霧の森の北端、霊脈が乱れ集う不穏な地に築かれた石造りの塔。
塔の頂上では、幾重もの結界が張り巡らされ、魔導騎士と白装束の魔導士たちが迎撃準備に追われていた。
「魔素濃度、上昇中! 空間震動も観測! 目標、接近中!」
「第一、第二結界、展開完了! 地対空砲、起動!」
塔の指令室は魔力と焦燥に包まれていた。
青年指揮官が眉を吊り上げ、叫ぶ。
「連絡は!? 援軍は!? ラステ卿は何をしている!」
「将軍――ガルマ=フォン=ウェイン将軍は、第二塔に到着目前とのこと!」
「間に合うかっ!」
そのとき、空が――軋んだ。
「――来るッ!」
結界を貫いて、黒い雷のような閃光が走った。
魔導塔の上空に、漆黒の飛行艇が姿を現す。
鋭利な刃のような外装、魔鉱石の脈動、そして禍々しい砲口。
同時刻――
漆黒の飛行艇〈ネビュラ・グレイ〉、指令室。
ロキは無音の空間に立っていた。
赤と黒の魔導紋様が脈動する主制御の玉座。
目の前には、魔鉱砲の制御盤が静かに煌めいていた。
「照準、完了。魔鉱圧縮率、安定域に到達」
幹部の一人が囁くように報告する。
ロキは、まるで指揮者がタクトを構えるように、
その長い指先を空中へすっと伸ばした。
「――撃て」
静かに。
凪のように。
だがそれは、全てを壊す命令だった。
■ ■ ■
砲口が開く。
魔鉱石が脈動し、濁流のような魔素が集束してゆく。
そして、ひときわ鋭く輝いたその瞬間――
――砲撃。
魔鉱砲が、大地の結界を穿った。
■ ■ ■
その光景を、ロキはモニタ越しに目を見開いて見つめた。
無音の爆裂、石の断裂、結界の崩壊。
魔導塔が砕けていく。
ゆっくりと、笑った。
「……ふふ、ああ……」
嗤いは笑いに、笑いは嗚咽に変わる。
「ああ……あああああああッ……ッは、はっ、ッハハハハハッ!!」
両腕を広げ、首を仰け反らせて、歓喜に身を委ねた。
「これが……これが正しさだ! ルシアナ……お前を、私は、正しかったと証明している……! 証明できる! できた!!」
涙が流れていた。
けれどそれは哀しみのものではなかった。
歓喜と滾りの発露、そのものだった。
「滾る……滾る……滾るッ、滾る滾る滾る滾る滾る滾る滾る滾る滾る……!」
もはや言葉ではない。
快楽とも恍惚ともつかない呻きと震えが、彼の体を支配していた。
部屋にいた他の幹部たちが一歩、二歩と後退する。
誰もロキに言葉をかけない。かけられない。
彼はもう――天啓を得た預言者のように、狂っていた。
ただひとつ。
ロキの中で、確信だけが燃え続けていた。
「次は……第二塔だ。すべてを、終わらせよう。あの日、誤魔化されていた世界を――正義の手で」
■ ■ ■
瞬間。
轟音とともに、全空間が割れた。
「第一結界、消失!」
「第二結界、臨界……だめだ、もう持たない!」
次の瞬間――
砲撃が塔の中腹を直撃した。
振動。爆風。悲鳴。崩壊する石壁と階層。
空中に砕けた魔導構造が、霧の森へと降り注いでいく。
「総員、退避っ……うわあああッ!」
魔導塔は、たったの一撃で致命傷を受けた。
それはまさに、戦線の崩壊。
守るべき礎の喪失だった。
◇◇◇
その空を、リュカたちは見ていた。
飛行艇を追い、森を抜ける中で。
エレネアが唇を噛んだ。「……間に合わなかった」
サフィアが、拳を握る。「でも、まだ終わってない」
ティアナが見上げた。「まだ……あいつら、上にいる。もう一発撃つ気よ」
リュカが抜刀した。「止めるぞ。まだ、守れる」
◇◇◇
そして――第二魔導塔。
重々しい足音とともに、黒ずくめの騎士が現れる。
「遅かったか……!」
ガルマ=フォン=ウェインの目が、遠くの空に砕けた塔を捉えた。
「すべての部隊に通達。これより、全魔導塔の防衛体制を再構築する」
風が、彼のマントをはためかせた。
それはまるで、死地へと歩みを進める者に吹く風――覚悟の風だった。
第三魔導塔が爆煙の中、ゆっくりと、しかし抗えぬ重力に従って崩れ落ちていく。大地が震え、空が叫ぶ。砕けた石材と魔力の残滓が周囲に降り注ぎ、塔の周辺にいた部隊はその衝撃で地に伏せられた。
地上では、ガルマ=フォン=ウェイン将軍が断崖の上からその光景を見つめていた。
「……間に合わなかったか」
その声は悔恨を帯びながらも、揺るぎなかった。背後には、彼と共に配置された王国軍と学院の混成部隊が控えている。副官が駆け寄る。
「ガルマ将軍、敵飛行艇が西方へ向けて飛行を開始しました! おそらく、次の標的は……」
「第二塔か、あるいは第一塔だろう。だが——」
ガルマは剣の柄に手を添える。その目には、一分の迷いもない覚悟が宿っていた。
「ここから先は、我々が止める。全責任はこの命で背負おう」
その時、山風が断崖を吹き抜け、彼の外套を大きくはためかせた。まるで何かに促されるように。風が、彼を再び前線へと引き戻したのだった。
—
一方、上空の飛行艇を視認したリュカたちは、即座に判断を下していた。ヴァッヘとの戦いの直後、傷は浅くなかったが、彼らの表情には諦めはなかった。
「奴ら、魔導塔を次々と狙うつもりだ。……追うぞ!」
「でも、今は飛行艇だよ!? どうやって……」とエレネアが言いかけた瞬間、レオンがヴァッヘとの戦闘後に見つけた地図と機材を見ながら声を上げる。
「グレイ・ヴァイパーの研究施設で見つけた転送術式の座標……あれ、まだ使えるかもしれない。奴らの飛行経路上に出る可能性がある」
リュカが頷く。「証拠もある。手ぶらで帰るわけにはいかない」
サフィアは短く「行こう」とだけ言い、すでに魔力の集中を始めていた。その後ろで、エレネアが崩れた塔を見上げる。その表情には複雑な影が差していた。
「……絶対に、止めなきゃ」
飛行艇の残光を追う彼らの足元で、魔導陣が淡く輝き始めた。次なる舞台へ。戦いの火は、まだ消えていない。
第二節 宿命と運命の交錯
第二魔導塔・上層階
崩落寸前の構造体の中、骨を削るような乾いた風が吹き抜けていた。
古き結界陣が散り、霧のような魔素が空間に渦巻く。
中央に立つ一人の男の黒衣が、冷たくはためいた。
「……ああ、まったく。これほどに美しいものが、“封印”などと呼ばれているとはな」
ロキ=ヴィスは、いまだ半ば光を帯びる結界核に手をかざした。
その掌には、**古の
かつての魔術院においても“禁絶”とされた異形の呪印だ。
核を包む幾何学の構造が、音もなく砕けてゆく。
「……第二塔、封鎖解除完了。結界、破断まであと十秒」
背後の使い魔が、魔力カウントを告げる。
ロキはかすかに微笑み、指を弾いた。
「セラフィム……君が護りたがったこの“秩序”とやらは、こうして終わるのだよ。
……いや、始まる、と言うべきか」
揺らぐ空間、脈動する魔力。
空間が裏返り、風穴の“声”が、脳髄にじかに囁く。
「おかえり……おかえり……我らが鍵を……」
ロキは目を閉じた。
口元には、かすかに苦笑が浮かぶ。
「……ガルマ。君の“恐れ”が正しかったのか、
今ここで、確かめてみようじゃないか。」
刻まれた封印紋が一斉に閃光を放ち、赤熱を伴って焼き切れる。
振動。
構造体の軸が軋みを上げ、塔そのものが“悲鳴”を上げた。
地鳴り。崩壊。
空間が逆流し、魔力の奔流が塔を包む。
その中心で、ロキ=ヴィスはひとり、静かに呟いた。
「さあ、神話の続きを書こう。
ここから先は、私たち“愚か者”の番だ。」
地上──第二魔導塔跡地・爆煙の中
崩れた石柱と赤く燻る大地。魔力に焼かれ、あたり一面が戦場の様相を呈している。
塔の残骸はなお熱を持ち、煙と灰の風が兵士たちの顔を焼いた。
そんななか、上空を裂く“唸り”とともに、一隻の小型艇が降下してくる。
それは、まるで舞踏会の主役のように優雅に、だが、あまりにも不気味に。
──漆黒の外殻。光を呑むような無音の艶。
ガルマが剣を抜いた。
レオンとリュカも構えるが、サフィアだけが、視線を逸らさない。
見ている。降りてくる者の姿を。
舟が着地する前に、そこからふわりと黒衣の男が飛び降りた。
「……お久しぶりですね、将軍。
あなたとこの距離で言葉を交わすのは、何年ぶりだったか」
ロキ=ヴィス。
白い肌、痩せた頬、そして蒼白の光を帯びる瞳。
まるで死の精霊のような気配をまとう男が、地に降り立った。
「魔導塔を壊したおまえに、言葉など……」
と、ガルマが一歩踏み出そうとする。
だがその袖を、誰かが掴んだ。
サフィアだった。
「将軍……ガルマ将軍!!」
その声は今までの彼女のそれではなかった。
甘えでもなく、惚けでもなく、恐れでもない。
剣のように鋭く、涙のように脆い。
「教えて!! 今ここで、どうしても聞きたいんだ……
エレネアは……どこから来たの!!」
場が静止した。
エレネアが、まるで音をなくしたように、振り返る。
ティアナが震え、リュカが動けない。
ガルマの眉が僅かに動き、口を開きかけた──その瞬間だった。
「エレネア……? ああ、E-113被験体のことか」
それはロキの声。
おだやかに、だが確実に、その場の空気を“壊した”。
「ふふ、ふは、ふはは……鍵よ、サフィア。
もうこれ以上、私を笑わせ……否!!滾らせないでくれよ!!」
その叫びと共に、圧倒的な黒雷の魔法陣が空に浮かぶ。
直後、爆音とともに、リュカ、レオン、ガルマを襲う黒雷の奔流。
リュカとレオンは咄嗟の防御に入ったが、半ば吹き飛ばされる。
防ぎきったのはガルマのみ。
剣を地に突き立て、片膝をつきながらも、ぎりぎりの防御。
ティアナはリュカとレオンのもとへ走り寄る。
エレネアは、動けなかった。
ロキが自分を見ていないことに、ただ震えていた。
ロキの口から語られた名──「E-113被験体」。
それは、まるで世界の音を止める呪詛だった。
エレネアはただ、言葉の意味を理解しきれずに凍りついていた。
だが、サフィアだけが違った。
何かが彼女の中でゆっくりと、確実に崩れ始めていた。
(E……113……?)
脳裏に浮かぶ、失われた母の後ろ姿。
学院に向かったきり帰ってこなかった、ルシアナ・ルフェリエル。
彼女の死の背景にある“研究”、
封印、魔導塔、魔導生体、そして今──エレネアのローブに刻まれた煉月の印。
(ママが……研究していたもの。
その一部が、今ここに、生きて、私の目の前に……)
一筋の震えが肩を伝い、
サフィアの表情から、いつもの柔らかな“仮面”が剥がれ落ちていく。
瞳に宿るのは、怒りでも、悲しみでもない。
それは──認識と、決断。
「……まさか、まさか、まさか、
そんなこと……そんなのって……!!」
声が震える。
足が動く。
地面を踏みしめるたび、彼女の体から漏れ出すマナが周囲を焦がす。
「嘘……嘘でしょ……!?
だって……そんなの、だって、それじゃあ──
エレネアが……ママを…」
世界が、弾けた。
「あああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
空が揺れ、地が叫ぶ。魂から絞り出すような、サフィアの声が空間を裂いた。
そして、次の瞬間——。
サフィアの魔力が暴発する。
それはただの“魔法”ではなかった。
愛と絶望と、怒りと喪失、すべてが引き金を引いた“存在否定の魔力爆発”。
エレネアが口を開く前に、その爆風が彼女を包もうとしていた。
その光景を目の当たりにしたロキの目が、見開かれる。
口からは、震えるような笑い声が漏れた。
「う……うわあああああああああああああああああああっっっ!!!!!」
ロキは部下の襟首を掴み、顔を歪めた。
「出せ!!あれを出すんだよ!!!今すぐだッ!!!」
「もたもたしてんじゃねえぞ!見ろ、見ろよ、これが鍵だぞ!!ほら……ほらああああああああああ!!!」」
部下を掴み、**人工の
全身を裂くような衝撃に、部下は数名、蒸発するように倒れた。
だが、ロキは白目を剥いたまま、そのすべてを“歓喜”で塗り潰す。
無音。
辺りが、真っ白に包まれる。
音が、消える。
すべての感覚が、一瞬だけ失われる。
蝶が、空間に舞った。
どこからともなく、誰かの声が響いた。
「…がとう。ありがとう……」
静寂が、破られる。
「ありがとう、これで……これで……
開けるぞおおおおおぉぉぉぉ!!!
滾るんだ、滾ってしまうんだよ、滾ちまってごめんなぁぁぁぁぁぁ!!」
アルビ=コアは鈍く、赤く光り、まるで無尽蔵に全てを食う生き物のように、サフィアから発生したマナを吸収し終えていた。
崩壊する第二魔導塔の大地に、風が哭いていた。
サフィアの魔力暴発の余韻がまだ空間を震わせている。だが、その中心で、ガルマ・フォン・ウェインは立てなかった。彼は動けず、息をすることさえ苦しげだった。
心が、折れていた。
サフィアにも、エレネアにも、そして自分自身にも、何も告げてこなかった。護るべきものを護れなかった後悔が、全身を鉛のように縛り付けている。
──風は知っていた。だが、その流れを変えられなかった。
そのときだった。
「ロキィィィィーーーー!!!
貴様、よくも、よくも!!!」
咆哮とともに、リュカとレオンが立ち上がる。
リュカはセラフィムの
レオンは
怒りが、悲しみが、燃え上がる。
サフィアとエレネアを踏みにじり、恩師セラフィムを生きたまま殺したロキを許すことはできない。
──戦闘再開。
ロキはなおも冷静だった。
「ふむ、まだ動ける者がいたか……だが、今の私は忙しいのだよ」
そして、確実にその場の有効戦力を削るため、動けぬガルマに確実な一撃を加える。
言い換えれば、リュカとレオンの戦力は、今の覚醒したロキにとっては脅威ではなかったのかもしれない。
重く、鋭く、魔力を帯びた破砕が、将軍の肩を砕く。
「ガルマ将軍!!」
リュカとレオンが吼えながら斬りかかる。
激突する剣気と黒炎。
ティアナはサフィアを抱きかかえ、呆然とするエレネアをかばう。
リュカとレオンは何とか喰らいつくが、徐々に押されていく。
ロキは、あまりにも強い。
そのとき、ロキがちらりと視線を飛ばした。
上空を旋回していた漆黒の飛行艇から、小型艇が離脱。
人工の
ロキはそれを確認すると、満足げに微笑む。
「……ありがとう、私の時間稼ぎに付き合ってくれて。
君たちはとても、愚かで、愛おしい」
そのまま、最後の斬撃でリュカとレオンを吹き飛ばすと、
ロキは背を向け、漆黒の飛行艇に戻っていった。
──場面は変わる。
【王都・魔剣局 参謀執務室】
かすかな震動。王都の高塔にある執務室の窓硝子が、微かに音を立てて揺れる。
硝子越しに見えるのは、王都上空を覆う結界の“たわみ”。
「……来たか」
木製の大扉が、乱暴に開け放たれた。
息を切らせた兵士が、胸の装甲を叩くようにして報告する。
「報告ッ! 第二魔導塔が――陥落いたしました! 結界陣、破断確認!」
魔導学院査問部の筆頭にして、王国が誇る最強の参謀のラステ・カロン卿。白の私兵団を率いる男。
男は筆を止めた。
整然と並んでいた戦術図の一枚に、赤いインクで×印を引く。
「魔力偏差計の予測と、誤差ゼロ……。やはり、今夜だったか」
「……カロン卿」
静かに声をかけたのは、玉座の間から移ってきた王、ジェイド・アルヴェイン。
その背後には、漆黒の正装を纏ったジゼル=クロエ=ヴィス オルタス帝国王妃がいる。
王は言った。
「……我らは、もう“選ぶ側”ではいられない。“立つ”しかないのだろう?」
「ええ。第一魔導塔が破られれば、アビュッソスの蓋は開く。残された手は、わずかです」
ラステ卿は、椅子から立ち上がる。
机上の地図には、複雑な立体式の魔導塔防衛網、飛行艇の航路、帝国側の予測行動――
すべてが、まるで今すでに終わった戦のように記されていた。
「第三塔陥落は計算内。第二塔半壊も、彼の美学だろう。だが――」
「第一塔は、落とさせぬというわけだな」
ジゼル妃が唇を噛む。息を呑むようなその表情の裏には、家族を思う女の影がある。
「……ラステよ。我らが動けば、それは《戦の開戦》を意味する。お前の読みを信じよう。
その代わり、勝て。どんな手を使っても」
ラステ卿は、軽く膝を折って頭を垂れる。
その口元に、珍しく短い笑みが浮かんだ。
「滾るなどとは言いませんよ。
ですが、こちらにも――“預けられた未来”がありますので」
ジゼルもまた、静かに口を開く。
「私の子が道を外したのなら……それでも、止めるのは私の責任です」
ラステ卿は目を閉じ、立ち上がる。
「承知。白の飛行艇、出撃準備。
第一魔導塔へ、即時急行する」
手元の水晶盤に魔力を流し込む。
空中に浮かび上がるのは、**《白の飛行艦隊》**発進命令。
「
我らが守るべきは、塔ではなく、“塔の向こうのもの”だ」
「塔の向こう、か」
王がぽつりと呟いたその目に、遠い日の誓いがよぎる。
「……セラフィム、ザル、見ているか。あの時の選択が、無駄ではなかったことを」
そして、ジゼルは目を伏せ、誰にも届かぬ祈りを呟いた。
「ロキ……お願い。これ以上は……」
その声は誰にも聞こえなかった。
白き旗が翻る。
その瞬間、世界の命運を賭けた、最後の戦いが幕を開けた。
白の飛行艦隊が静かに夜空を裂いて進む。
王都の上空を覆う雲を抜けたその先、闇を切り裂くように、セレスティア号を筆頭とした艦隊が飛行を続けていた。
艦隊の艦橋では、ラステ・カロン卿が沈着な表情で報告を受け取っていた。
「第二魔導塔の崩壊、確認。ロキ・ヴィスの乗艦、第一塔方面へ進行中と推測されます」
「やはり、ここを分水嶺と読むか……」
ラステ卿は顎に手を添え、薄く目を閉じた。
「急げ。セレスティア号は最前線、護衛艦は各ポイントの防衛に。リュカ殿たちと合流した後、ただちに第一塔へ」
その時、艦外の通信魔導具が点滅する。
『こちらリュカ=アルヴェイン。第二塔の外縁部で待機中。負傷者あり。合流を希望する』
「リュカ殿……よくぞ持ちこたえた」
艦首に向かって命令が飛ぶ。
「即時回収だ。着艦準備!」
やがて、風の中に浮かぶ黒点――
それが地上から打ち上げられた小型救難信号であることを確認すると、セレスティア号は一気に高度を落とす。
白の艦隊がリュカたちの元に降下し、光の梯子が展開された。
リュカとレオン、ティアナ、サフィア、エレネア、そしてガルマが次々と乗り込む。
静まり返った艦内。緊張の空気が支配するブリッジの甲板に、重厚な足音が響く。
ガルマ=フォン=ウェイン将軍は、ゆっくりと船首へと歩み出た。
白い
その背に、兵士たち、魔導師たち、騎士たち――それぞれの戦いを背負ってきた者たちの視線が集まっていた。
風が吹いた。
それは、始まりの合図。
ガルマは一呼吸置き、振り返る。
そして、語り始めた。
「……私は、王都にいた。王の右腕と呼ばれ、剣を携えて民を守る立場にいた。だが――」
拳を握る。
「だが、私は……守れなかった。ある少女の母を、ある村の命を。そして、魔導塔が崩れ落ちた今日、またひとつ、我々は失った」
兵たちの表情が動く。
それは、先ほどまで命を懸けて戦ってきた彼ら自身の記憶と重なっていた。
「この中には、恐れている者もいるだろう。自分が明日、生きて帰れるか分からないと怯えている者もいるはずだ」
間を置き、鋭い眼差しで全員を見渡す。
「……だが、だからこそ、聞いてほしい」
声を強める。
「お前たちが、何を背負ってきたかを、私は知っている!
仲間を、家族を、恋人を、師を、そして、自らの名誉を守るために、ここに立っているんだろう?!」
ざわめきが広がる。誰かが目頭を押さえる。
「剣を取る理由は、正しさなんかじゃなくていい。ただ、隣にいる仲間が、明日も笑っていてほしいと願う――その気持ちがあれば、それだけで充分だ!」
一歩前へ出る。
「この艦に乗っている誰もが、今日、運命を背負うことになる。
私たちは――世界が終わるかもしれない、その瞬間に立ち会うことになるんだ!」
静寂の中、彼の声だけが響く。
「私は、誓う。今度こそ、守ると。かつての過ちを繰り返さず、誰一人置いていかないと。だから共に行こう! この空の果てへ!!!」
兵たちの間に、激しい鼓動が走る。
誰かが剣を掲げ、誰かが拳を握り締めた。
静かに、しかし確かに、全員の心が一つに重なっていく。
ガルマはゆっくりと天を仰ぐ。
「……この戦いが終わったら、みんなで食事を囲もう。剣を置き、酒を酌み交わし、笑い合おう。戦いの意味は、そんな日常を取り戻すことにある」
そして最後に、彼は一つ呟いた。
「もう、誰も……失いたくない」
その声に応えるように、艦内の全員が咆哮を上げる。
《セレスティア号》、出撃準備完了。
白の艦隊は、第一魔導塔へ向けて加速を始めた。
これより、世界の命運を懸けた決戦が幕を開ける。
【第一魔導塔上空】
――雲海を割き、白の艦隊が第一魔導塔を包囲する。
戦端が開かれるその瞬間までの静寂。だが、空気は緊張と魔力で、もう爆発寸前だった。
艦隊内、後方治療区画。
サフィアはまだ気を失っていた。
顔には掠れた血痕、指先は力なく垂れ落ち、微かに熱の残る胸元が、かろうじて彼女が生きている証となっている。
ティアナは彼女を抱きしめたまま、ただ黙っていた。エレネアを、そして戦場を見つめている。
このとき、誰もが口をつぐむ。
ガルマは何も語らず、ただ拳を握りしめていた。あの問い――
「将軍! ガルマ将軍! エレネアは! エレネアは、どこから来たの!!」
――その叫びが、彼の心臓を今なお貫いていた。
【第一魔導塔 頂上階・結界封印区画】
風が止まり、空が静まる。
そこには、立っていた。
ロキ=ヴィス
「……来たか。君だけは、来ると思っていたよ、E-113」
静かに睨み返す少女が一人。
紅のローブに身を包み、紅い瞳を燃やす。
エレネア・フィオフェレス
彼女は静かに一歩を踏み出す。
「私の名前は、エレネア。……ミノル村に生まれた、ただの人間の子。
“E-113”じゃない。あなたの記号の中に、私はもういない」
ロキの目が揺れる。
「ミノル村……ああ、懐かしい響きだ。君の母親は、最後まで美しい瞳をしていたな。
その瞳が、君にも受け継がれている」
エレネアは一瞬だけ唇を噛み、しかし表情を崩さず、まっすぐ見返す。
「知ってる。ガルマおじいちゃんが……すべて話してくれた。
私は“守人”の血を継ぐ存在。アビュッソスの封印に、最も強く関われる……存在」
その言葉に、ロキが確かに頷いた。
「その通りだ。君が“調和”そのもの。煉の月印に示された、三色の交点……
それが“守人”だ。赤、黒、白――それらが調和すれば、風穴のすべてが解き明かされる」
「それでも、私は……あなたの計画に手を貸さない。
私は“母の仇”に、背を向けて歩くほど、器用じゃないの」
ロキは静かに瞼を伏せた。言葉のない沈黙。だが、それは彼にとっての“悼み”ではなかった。
「……ならば、力で語るしかないというわけか」
「私たちは、好きで戦っているわけじゃない。でも、今のあなたの行いは、ただの“破壊”よ。
開けたいのではなく、壊したいだけ。そんなやり方、私は許せない」
エレネアが杖を構える。
ロキが一歩、進み出る。
そのとき――
【セレスティア号 後方治療室】
「あっ……!」
呻き声と共に、サフィアが目を覚ました。全身に激痛が走る。
「サフィ……!」
ティアナが駆け寄り、手を伸ばそうとする。
だが――
「ティア姉……大丈夫。ぼくは、だいじょうぶだから……」
その瞳は、どこか遠くを見るようで、でも確かに目の前の光景を見ようとしていた。
第一魔導塔で、今まさに始まろうとしている“戦い”を。
その中心にいるのは――エレネア
「……そっか。……エレネアが、ママを……」
違う。
いや、感づいてはいた。手記で読んでいた。でも、確かめたかっただけ。
ティアナはそれを、サフィアが言わなかった言葉から痛いほど理解していた。
サフィアの目はもう、彼女を責めていなかった。
ただ、どこにもぶつけようのない想いを、胸の奥に沈めようとしているようだった。
「……エレネア……どうして、そんな顔で、立ってるの……」
サフィアはゆっくりと立ち上がる。
痛む足を引きずりながら、それでも視線は逸らさなかった。
エレネアの姿を。ロキの姿を。自分の“全て”を背負う、その戦場を――
【第一魔導塔・結界封印区画】
突如、塔の空間がひしゃげるように歪んだ。
エレネアが杖を振ると、紅い魔紋が空に刻まれる。
ロキも一閃、黒の咒を繰り出す。
「君のような存在が、まだ人間でいられるとは……面白いな!」
「あなたが奪ったのは、命だけじゃない。
未来も、誇りも、そして――人を信じる心も!」
二つの魔力がぶつかり合う。
炸裂音とともに、空間が焼け、塔の上層が崩落していく。
だが、エレネアは怯まない。紅の魔力が呼吸のように体を包み、
そのたびに、彼女の“覚悟”が滲み出る。
「あなたが何を思おうと、私は“守人”としてここにいる。
母を殺したあなたを――私は赦さない!」
「赦しなど求めていない!」
ロキは一喝すると、虚空を手刀で裂き、無数の黒鎖を呼び出した。
それはエレネアに絡みつこうと迫るが、彼女は寸前で飛び退き、
空中で魔術を展開する。
「……《ラ=ヴィ=マティア》!」
結界破壊級の紅魔法が、ロキの目前で炸裂。
爆風が塔の空間ごと吹き飛ばす――
【第一魔導塔 外縁・空中戦区域】
サフィアは、塔の上層で戦う二人を見上げていた。
足元では、グレイ・ヴァイパーの強襲部隊が飛行ユニットで襲来し、激戦が続いている。
「……このタイミングで……!」
目の前に現れた仮面のヴァイパー兵。
サフィアは杖を構え、瞬時に詠唱に入った。
「魔素時空変換――《アイオーン=バレット》!」
一斉に飛来する黒刃を相殺するように、時限魔弾を撃ち返す。
ティアナが背後からサポートに回る。
「下がって! まだ治療が――」
「……今、誰かを守れなきゃ、意味がないんだよ!!」
声が震えていた。怒りか、悲しみか、それとも――祈りか。
【第一魔導塔 頂上・崩壊寸前の封印核】
ロキの表情に、はじめて“焦り”が浮かんだ。
エレネアの攻撃は、すでに彼の読める限界を越えていた。
「……これは、予測以上だ……」
《アルビ=コア》を回収させた飛行艇は、すでに第一塔の上空を旋回している。
ロキはそれをちらりと見上げる。
(今、ここでエレネアを無理に回収すれば……失う。すべてを)
「“あれ”に賭けるか……」
静かに呟いた。
【回想・ロキの脳裏】
(風穴の封印核――それをいま、塞いでいるのはセラフィム)
(だが彼女は“鍵”ではない。器でもない。ただ……“塞いで”いるだけだ)
(鍵がなければ、封印は開かない。だが、器がなければ、開けた先にある“力”は暴走する)
(ならば――)
「セラフィム。君を、器として使う」
ロキの表情は、どこまでも穏やかだった。
それは、世界を敵に回す覚悟を決めた者の、清らかな“あきらめ”に近い。
(帝国は私を切り捨てるだろう。私はただの“トカゲの尻尾”になる。
――だが、それでいい。世界の理が、あの日から狂っていたことを、誰かが証明しなければならない)
「皮肉だな……。私が正しさを求めて、誰かを処刑したその時と……全く同じ構図じゃないか」
【第一魔導塔 頂上・戦場に戻る】
ロキは一歩、後退する。
エレネアの追撃を受けることなく、結界外へ転移を図った。
直後、黒い羽根のような魔素の残滓が、空に散る。
「――逃げた……!」
エレネアは悔しげに呟く。だが、確かに“勝っていた”。
ロキはこの場の作戦を**“捨てた”**のだ。
だが――
サフィアが、ふと、空を見上げた。
その目が見据えているのは、遥か遠く、風穴の方角。
「……いや。まだ終わってないよ。あれは、全部“途中”だよ」
その声に、皆が顔を向ける。
風が変わった。
第一魔導塔を境に、運命の針が、また一つ、大きく回り始めた。
第三節 渺茫たる衷情
【アビュッソス・地底結界最深層】
そこは世界の理から外れた空間だった。
光も音も届かぬ地の底。
静寂と虚無が渦巻くその場所に、ただ一人、微かな呼吸を繰り返す存在がいた。
セラフィム・ノクス。
その肉体は透明な結界に包まれ、まるで永い眠りについた人形のように微動だにしない。
だが、周囲を漂う魔力の密度は異常だった。
彼女の体から零れ出る「何か」は、周囲の空間を侵しながらも、寸前で現在は唯一残った《第一魔導塔》により、封じ込められていた。
けれど、その結界は──限界を迎えつつあった。
【第一魔導塔 頂上】
ロキの撤退を確認し、一時的に落ち着きを取り戻し、各々が状況の把握と魔導塔の結界状況の確認に追われていた。
そのとき、サフィアには体中がきしむような痛みが走り、目の前が暗くなったかと思うと脱力。
小さな少女の体は、とうに限界を超えようとしていた。当然だった。マナの放出に連戦の疲労。精神の痛み。
ほんの少しか、それともだいぶ長い時間か、感覚を失ってどれくらいの時間が経っただろう。
――ぽたり、と。冷たい何かが頬を打った。
音のない空間に、どこか遠くで誰かが泣いているような感覚が重なった。
「……ぁ……」
サフィアはゆっくりと瞼を開けた。
焦点の合わぬ視界の中で、最初に目に映ったのは、倒れかけた結界柱と、崩れかけた天井の断片。
次に、傍らで自分を支える腕の温もり。
すぐにわかった、姉のマナが自分に流れている。感覚が戻ってきている。まるで森の静謐とした湖の水のように澄んだ感覚が。
「ティ……ア姉?」
ティアナは微笑みかけた。
疲弊しきった瞳で、それでも優しく。
「よかった……気がついた」
その声に、サフィアの胸がきゅっと締めつけられる。
母の手記のこと。自分が知っていたのに、黙っていたということ。
ティアナの中でその思いが交錯していたのは、今やもう確かだった。
サフィアの視線が、ティアナの手元へと落ちる。
手には、あの手記の一頁が握られていた。
「それ……」
ティアナが頷く。
「……母さんは、知っていたの。エレネアのこと。ロキのこと。そして、あの村のことも……。
けれど、あなたがその真実に壊されるのが怖くて、私……何も言えなかった」
震える声。
後悔と、覚悟と、愛しさと。
サフィアの胸に、黒い靄のような感情が渦巻いた。
愛している。だから、守りたかった。だから、嘘をついた。
「――ティア姉」
サフィアは静かに言った。
ティアナの手が、彼女の頬に触れようとする。
「大丈夫、ぼくはだいじょうぶだから」
その手を、そっと避ける。
言葉に刺はない。けれど、その距離は明らかだった。
その瞬間、塔の魔力柱に異変が走った。
ぐぐぐ……ッ、と音を立てて《抑圧制御柱》が赤黒く軋む。
サフィアの身体から漏れ出た魔力──“黒”が、柱の魔導制御系と共鳴を始めていた。
「……サフィア……?」
「うそ……止まらないよ……っ、これって……っ」
吐息の中で、サフィアの肩が震え始める。
怒りじゃない。悲しみでもない。
抑え込もうとした“魔力”が、感情の奔流に揺さぶられて暴れだしていた。
黒の魔力、《劫雷》と《転界》が混じり合い、空間を歪める。
その波動が、塔全体に広がっていく。
「制御柱の干渉率が限界値を突破! 魔力干渉レベル、特級警戒――!」
「結界が……反応しています!《白結界》が反作用を……!!」
警告が飛び交った瞬間だった。
――ドォン……!
轟音。
光が反転し、魔力の奔流が《白》と《黒》の衝突を引き起こす。
塔全体に異常な“圧”が走り、天井が軋み、結界が一部崩れ始めた。
「塔の支柱に魔力の歪み! 三柱封結界のひとつが崩れます!!」
「ダメです、支えきれませんッ!」
ティアナが咄嗟に結界強化の術式を発動するが――
「っ……くぅ……!!」
その身が魔力の波に吹き飛ばされる。
「サフィア……止めて! このままだと……!」
「ぼく、じゃない……ぼくの中の、何かが……!!」
サフィアの背中から黒い光が噴き出すように立ち昇る。
塔全体が唸りを上げるなか、外の空が割れ、異常な魔力の空圧が世界を歪めていた。
それは、“結界の崩壊”の前兆だった。
塔の中央柱がきしみを上げる。
天井の魔導文字が一部剥がれ、魔力制御回路が閃光を放ち始める。
サフィアの身体は浮いていた。
その身から噴き出す“黒”は、周囲の空間すら歪めていた。
「やめろ、サフィア! このままだと塔が――!」
レオンの怒声が響く。
彼はすぐさま詠唱に入った。抑制系の封魔結界――。
魔導監査局で訓練された精鋭だけが扱える即効式の制圧術。
だが、それは“個”の制御を前提としたもの。
今のサフィアは、明らかに《鍵の力》の暴走状態。力をぶつけても無意味――どころか、逆効果。
「止まれ……! サフィア、そのままでは……!」
レオンが封術を発動した瞬間だった。
サフィアの黒い魔力が、彼の術式を弾き返すように閃いた。
――バッッ!
眩い衝撃波が走り、レオンの体が後方へ吹き飛ぶ。
「くっ……! なんだこの魔力は……っ!」
重く地を打つ音。だがすぐに彼は立ち上がる。
その目は、敵を見るそれではない。
「制御すべき危険因子」として、冷静にサフィアを見ていた。
それを、リュカが制した。
「……もういい、レオン」
リュカがサフィアの正面へと歩を進めた。
その足取りは穏やかだ。けれど、一歩ごとに“意志”の強さが伝わる。
「やめろ! 今の彼女は正気じゃない!」
「わかってる。でも、俺たちの声は届く。届かせるんだよ」
リュカは言った。まるで祈るように、サフィアの名を呼ぶ。
「――サフィア」
黒い光の中、彼女の顔は苦悶に歪んでいた。
目は見開かれ、涙とも汗ともつかぬ雫が頬を伝っている。
リュカは手を伸ばす。
「もう無理に抑えなくていい。全部、君の中にあっていい。
怒りも、悲しみも、憎しみも、迷いも、何もかも――俺は、全部君だって信じてる」
その声は、確かに届いた。
「……リュカ……?」
「サフィア、君は……間違ってなんかない。
その力を持っていることも、制御できないことも、何も悪くなんかない。
君がそれでも前を向いてきたこと、俺は知ってるから」
リュカの掌が、サフィアの手に重なった。
激しく渦巻いていた魔力の奔流が、一瞬だけ、揺らぎを見せる。
――がっ、と。
塔の床が大きく割れる。
最後の柱が崩れ始めた。結界の中枢が完全に機能停止。
「リュカ! サフィアを!」
「わかってる!」
彼はサフィアの身体を抱き寄せ、そのまま魔力制御の核を越えて飛び退く。
轟音。閃光。
塔の中心が崩落し始め、外の空にまで黒い魔力の雲が広がる。
そして――
「……サフィア……?」
「……ごめん……っ、ぼく、また……」
「謝るな。今は、それで十分だ」
リュカの腕の中で、サフィアは小さく嗚咽をもらした。
【グレイ・ヴァイパー
崩れ落ちる第一魔導塔を、曇りのない瞳で見下ろしていた。
操舵室の窓から、黒煙と光の奔流が空を裂く様を映している。
ロキ=ヴィスは、誰の言葉も要さず、一人その場を離れた。
薄暗い操舵室の中心へ。
すべての命令系統が集まる静謐な空間。
彼にとって、それは“神殿”だった。
祈るわけでも、祈らせるわけでもない。
ただ、自らの選んだ破壊の道を、世界に告げるための聖域。
彼は操縦席の前で静かに立ち止まり、深く息を吐いた。
その表情に、感情はない。ただ、瞼の奥に微かに、熱の名残だけが揺れていた。
「……皮肉なものだな」
指先で、塔の崩壊に合わせて振動するコンソールを撫でる。
その表面の冷たさは、感情を静かに沈める鉄のようだった。
「世界を救う者を、世界の扉を開くために燃やすとは……」
沈黙が、数秒。
「……セラフィム」
低く、呟くように。だが、確かに彼の心の奥から搾り出された名だった。
「君は“鍵”だったはずだ。だが、違った。“使える”――まだ可能性はある」
その目は、すでにアビュッソスの先を見ている。
かつてルシアナを処刑台に送った日、
誰にも見せなかった“選択”の重みが、再びその背にのしかかっていた。
ロキは席に腰を下ろし、指を動かす。
滑らかに操縦系統が動き、艦首が旋回する。
行き先は――アビュッソス。
この日、運命は決壊した。
そして、ひとつの狂気が、神話を再構築しようとしていた。
【王都グリーンパレス上空】
空が、音を立てて裂けた。
白く広がる雲を突き抜け、黒い影が姿を現す。
その巨体が王都グリーンパレスの中心上空をゆっくりと横切っていく。
その異様な威容に、王城の鐘が鳴り響く。
広場に集まる兵士、民衆が一斉に空を見上げ、悲鳴と混乱の奔流が巻き起こった。
やがて、艦の下部ハッチが開き、空に魔導式の音声拡声魔法が放たれる。
空中に響く、その声は――ロキのものだった。
「王都の諸君。目を見開き、耳を澄ませろ。これが貴様らが守ってきた秩序の行きつく果てだ」
その声は、怒りでも嘲笑でもなかった。
むしろ、陶酔と歓喜に満ちた、危うい熱を帯びていた。
「風穴は、開く。かつて我らが閉じ込められた忌まわしき“冥き奈落(アビュッソス)”――
今度は貴様らの時代が、そこに封じられる番だ」
王宮の尖塔に配置された対空砲台が、次々に照準を合わせる。
だが、ロキは一顧だにしない。
彼の声はなおも、空中に響き渡る。
「何を恐れている? 過去か? 裁きか? それとも――変革か?」
「ならば、答えを見せてやろう。世界は“静かに腐る”ことを望まなかった。
私はその選択肢を、力で断ち切る」
空中の魔素濃度が異様に高まり、艦全体がわずかに輝き始める。
それは、ロキ自身が発する魔力の波――共振であった。
「我は“歪みの器”。我が意志こそ、世界の再構築だ。
死せる神の封印を穿ち、沈め、すべてを――還元する」
艦内の魔導兵士たちが、それに呼応するかのように拳を掲げ、叫ぶ。
「我らに栄光を!! ロキ様に栄光を!!」
それは、歪な宗教にも似た狂信だった。
ロキは最後に、こう言い放つ。
「見届けろ。
君たちが“正義”と呼んできたものの、終焉を――」
《ネビュラ・グレイ》は速度を上げ、黒き尾を引いて王都上空を飛び去った。
その進路の先――アビュッソスへ。
世界が、今、音を立てて崩れ落ちていく。
【王都・魔導局・迎撃司令室】
ロキの
魔導局の迎撃塔内では、震えるような沈黙が支配していた。
「……ただの示威行為じゃない。あれは宣戦布告だ」
ジェイド王が静かに呟く。背後では、ジゼル=クロエが緊迫した表情を浮かべていた。
「今までは“火種”だった。だが、これはもはや――戦争」
ジゼルの声には、微かな怒りと悔しさが滲んでいた。
「アビュッソスが狙われる……いや、セラフィムが」
ジェイド王が唇を噛む。
「急がねばならぬ。我らは、あまりにも長く沈黙していた」
白の艦隊
ラステ卿が前を見据える。
その瞳には、かつて冷徹とも呼ばれた軍略家としての光が戻っていた。目標、アビュッソス上空。
「ただちにガルマ=フォン=ウェインの艦と合流する」
その号令に、魔導通信塔が一斉に起動し、空を裂くように《セレスティア号》を中心とした白の艦隊が空へ――。
【セレスティア号・艦橋】
轟音を上げながら、雲を抜ける白の艦隊。
アビュッソスの位置へ針路を向けるなか、艦橋では緊張が張り詰めていた。
リュカ、レオン、ティアナ、サフィア、エレネア――
かつて散り散りだった者たちが、今、同じ目的のもとに集い、ただ一つの地を目指していた。
その中で、ガルマがゆっくりと立ち上がる。
戦士としての、かつての風を纏いながら。
「……来るぞ」
短く呟いたその声に、全員の視線が向く。
ガルマは、前を向いたまま、かつての戦友の名を心に浮かべる。
セラフィム――
彼女はかつて、優しさと強さを併せ持った魔導士だった。
そして今、アビュッソスの封体として、眠り続けている。
その命を、封体として。
その魂を、世界の歪みに繋がれたまま。
その事実を前に、ガルマは深く息を吸い、言った。
「……我々は、決断しなくてはならない」
声が、艦内に響く。張り詰めた空気が、さらに引き締まった。
「セラフィムを――還そう」
その言葉は、まるで世界そのものを揺るがすような響きをもって、乗組員たちの胸に刻まれた。
エレネアが俯きながらも拳を握り、ティアナが震える手で祈るように胸元のペンダントを握る。
サフィアは、祈り、目を伏せたままだが、拳をぎゅっと握っていた。
そしてリュカとレオンが、無言のまま剣の柄に手を添える。
それぞれの想いが、いま一つに――
【アビュッソス・結界の縁】
そして、その遥か先。
霧が渦巻く巨大な渓谷――アビュッソスの最深部。
そこには、結界の中心にただ一人、
眠るように佇む聖女の姿があった。
透き通るような白銀の髪、静かに閉じられた瞼。
封体――セラフィム。
その身体の周囲に、ゆっくりと亀裂が走り始めていた。
(封印が、応えている……?)
魔力の奔流が、まるで生き物のように蠢き始める。
その刹那――
空が鳴った。
《ネビュラ・グレイ》がついに、アビュッソスの上空に到達する。
ロキの顔に、狂気すれすれの笑みが浮かぶ。
「ここからが本番だ。始めよう。風穴の開封式を」
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