最終章 心の海

12-1

 青く光る真白湖の水面を、水鳥が優雅に泳いでいく。彼らが通り過ぎた跡には水面に波紋が広がる。私と瑠伊は真白湖のほとりにある椅子に並んで腰掛けていた。


「瑠伊、昨日と一昨日は病院に行けなくてごめん」


 真っ先に、彼に頭を下げる。一緒に作品づくりを頑張ってくれていた最中なのに、私は自分の責任を放棄した。記憶を失う辛さから逃げて、瑠伊からも逃げた。

 だけど、向井さんに弱い自分を指摘されて、瑠伊が本当は私のことを忘れてはいないと言われて目が覚めたのだ。

 私はもう一度瑠伊と向き合わなくちゃいけないんだって。

 それが、親友を亡くして記憶を失うようになった私がこれからの未来を生きるために必要なことだって。


「いや、こっちこそ、ずっと騙しててごめん。澪からいろいろ聞いたんだよな」


「うん。本当は私のこと忘れてないって教えてくれた。その……どうして嘘をついたのか、理由を聞いてもいい?」


 ここに来るまでの車の中で、どうして瑠伊が嘘をついたのかという理由をずっと考えていた。でも答えは全然出なくて。真白湖の穏やかな水面を見つめながら、彼の言葉に耳を澄ませる。


「夕映に……教えてやりたかったんだ。過去の記憶を忘れても、また新しい記憶をつくり直せばいいって。夕映はさ、記憶を忘れるごとにどんどん不安になるんだろ。その気持ちはすげえよく分かる。いや、完全には理解してあげられないと思うけど、分かる。俺は夕映の不安を、どうにか取り除いてやりたかった」


 凪いでいる湖の水面に小石を投じた時のように、私の心がふるりと揺れる。


「これからも夕映は、一つずつ過去の記憶を失っていくのかもしれない。でも覚えておいてほしいんだ。思い出は何度でもつくれる。未来の可能性は無限に広がってる。だからさ、その無限の未来からひとつの未来を、俺と掴みにいこうよ。未来を進むのは誰だって怖いさ。でも俺は夕映がどんなに過去の記憶を忘れて、たとえ俺との思い出を全部忘れたって、夕映を離したりしない」


「瑠伊……」


 湿り気を帯びつつも、力強い彼の言葉の一つ一つにどんどん心が惹かれていく。瑠伊がどんな気持ちで私に嘘をついたのか、ようやく理解することができた。

 瑠伊はずっと、私のことを考えてくれていたんだ。

 自分だって大変な思いをしたはずなのに、いつだって私のことを一番に思ってくれていた。

 それがこんなにも嬉しくて、切なくて、言葉では言い表すことのできない感情があふれ出してくる。真白湖の水を全部かき集めたって、私のいまの激情のほうがきっとずっと大きい。それぐらい、彼が私を想ってくれるその気持ちが温かで胸にジンと響いた。


「一人なら怖くても、二人ならちょっとましになるだろ。しつこいぐらい夕映のそばにいて、一緒に未来を歩いていきたい……俺は夕映のことが、好きだから」


 最後に彼が口にした一言に、心臓が止まりかけた。

 瑠伊が、私のことを好き……?

 いつか見た、未来の記憶が蘇る。



『瑠伊のことが好き、です』


『ごめん。俺、夕映のことは同志だと思ってたんだ。だからそういう感情は、ないよ』



 真白湖のほとりで彼に告白をした未来の映像。

 勇気を出して想いを伝えたあとに振られる未来を見て、心底悲しかった。

 でも未来は別の方向へと動き出した。

 彼の言う通りだ。

 未来の可能性は無限大。何を選び、どの未来にたどりつくかは私が——私たちが決めることができるんだ。


 切なさと、喜びと、愛しさで胸が締め付けられる。私は、目にいっぱいの涙が溜まっていくのを感じながら瑠伊の揺れるまなざしを見つめた。

 出会った時から変わらない、紺碧色の瞳。

 ブロンズ色の髪の毛がさわさわと夏の風に揺れる。

 もうすぐ遠い地へと飛び立っていく彼を、離したくないと思った。

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