7-3

 向井さんは瑠伊のことが好きだったんだ……。

 中学の頃、瑠伊に告白までして。それほど瑠伊のことが好きなんだ。

 でもその時の切なさや喜びの思い出を共有していたはずの瑠伊から、向井さんの記憶が消えてしまって。彼女が受けた衝撃を思うと、喉を絞めれたみたいに息が苦しくなる。 

 どれだけ辛かっただろう。

 どれだけ悔しかっただろう。

 記憶を失った瑠伊が辛いのはもちろんそうだと思うが、向井さんの心中は計り知れない。

 

「……ごめんなさい」


 何も、言葉が思い浮かんでこなかった。

 謝る必要もないとは分かっているものの、じゃあ他にどんな言葉をかければいいのか、分からない。思考がふわふわとその場で止まってしまって、これ以上向井さんに言い返す気には到底ならなかった。


 私が謝ったことで、ヒートアップしていた彼女の心は若干熱が引いたのか、顔から赤みがすっと抜けていくのが分かった。


「……あんたに言っても仕方ないよね、ごめん」


 意外にも素直に謝ってきた彼女に、私は「いや……」と小さく首を横に振る。


「瑠伊はどうして……記憶を失ってしまったの? それも中学の頃の記憶だけ」


 ずっと気になっていたことだった。瑠伊の口からは、中学の頃に記憶を失ったことしか聞いていない。

 向井さんが知っているかどうかは微妙なところだったけれど、彼女は「聞きたい?」と私に尋ね返した。


「うん、知りたい」


「いいの? 後悔するかもよ」


「……いい。話して」


 純粋な興味はもちろんあった。けれど、瑠伊の記憶障害は私のとは違って一般的な記憶障害だから、原因が分かれば治せるかもしれないと思ったのだ。


「じゃあ話すけど、聞いたこと後悔しないでね?」

 

 意味深な前置きに、私はごくりと生唾をのみこむ。

 それから向井さんが、中学生の頃の瑠伊について、語り始めた。


「瑠伊が記憶を失ったのは、中三の冬に頭を強打したことが原因」


「頭を強打……確か、瑠伊もそんなこと言ってたな……。事故かなにか?」


「そう、事故。でも綿雪さんが想像してるような、交通事故とか不注意で起きた事故じゃない。瑠伊は……クラスメイトにぶたれて、その拍子に教卓の角に頭を強打したの」


「……え?」


 初めて聞く話に、一瞬頭の中が真っ白になった。

 クラスメイトからぶたれて、頭を強打した?

 ……なにそれ。どうしてそんなこと。


「喧嘩したの? そのクラスメイトの子と」


 ごく普通に考えればそれしか考えられない。あの明るくて優しい瑠伊が誰かと喧嘩をしているところは想像できないけれど、でも私だって瑠伊のすべてを知っているわけじゃない。だから彼が同級生と喧嘩をした可能性は十分ありえるし、むしろそれがいちばん考えられる原因だ。

 だけど、私の疑問を聞いた向井さんははっきりと首を横に振った。


「違うよ。あれは喧嘩なんかじゃない。瑠伊が一方的にやられたの。瑠伊はずっと……小学生の頃からずっと、外国人だのハーフだのって差別を受けてきた。いじめられてたの」


「いじめ……?」

 

 瑠伊と、いじめというワードがあまりにもかけ離れていて、頭の中で上手く結びつかない。確かに以前、瑠伊は小学生の頃に友達から母親のことを“ガイコクジン”だとからかわれたと話していた。それがショックだったとも。

 でもまさか、瑠伊自身が差別を受けていたなんて……。


「中三の頃、私も瑠伊と同じクラスだった。いじめは定番のもので、教科書や体操服を盗まれたり、ぐちゃぐちゃに汚されたり。トイレで水をぶっかけられたり、瑠伊の給食だけ極端に少なくされたり。考えつく限りの陰湿な嫌がらせをされてた。でも、暴力を振るわれたのは、記憶喪失のきっかけになったその日が初めてだったと思う」


 淡々と語っているように見えるが、彼女の表情は苦痛に歪んでいた。きっと、いじめの事実を知りながら瑠伊のことを救えなかった悲しみや後悔が彼女の心を分厚い雨雲みたいに覆い尽くしているのだ。


「なんでその日は暴力を振るわれたんだろう……?」


「それは……瑠伊が、有名私立高校のたった一人の推薦枠をもらったことが原因。東京の名門私立高校で、大学附属だからエスカレーター方式で有名大学に入学できるところだったの。瑠伊は成績がよかったから推薦枠を勝ち取った。でもそんな瑠伊に、同じ高校の推薦枠を狙ってた男子が言ったの。『なんで外国人のお前が推薦もらえて、俺が弾かれるんだよ!』って」


「ひどい……言いがかりじゃん」


「そうよ、言いがかり。日頃から瑠伊をいじめてた主犯の男子だった。普段はね、瑠伊も何を言われても平気なフリをしてたんだけど、その時ばかりは頭にきちゃったみたい。まあそうよね。そもそも瑠伊は外国人でもなくてハーフで、国籍だって日本だし。てか国籍が外国だったとしても、ひどい差別だと思う。それで、我慢ができなかった瑠伊が先にその男子のシャツの襟を掴みにかかった。でも瑠伊はやっぱり優しいから。ちょっとの迷いが裏目に出たんだろうね。一瞬ひよった瑠伊の頬を、その男子が殴ったの。その勢いで瑠伊は吹っ飛ばされて、教卓の角に頭をぶつけた。これが真相」


 あまりに衝撃的な瑠伊の過去に、私は思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。向井さんが「後悔するかもよ」と言った言葉の意味がよく分かった。


「瑠伊はそのことを……」


「もちろん、知らない。今の瑠伊は中学の頃の記憶がまるごと抜け落ちてるから。記憶喪失になって、推薦をもらっていた高校には行かずに、浪校に進学したの。私は……瑠伊の後を追いかけて、ここに来たんだ」


 ずっと苦しそうに強張っていた彼女の表情が、そこでふと緩んだ。泣きそうなのは変わらないのだけれど、そのまなざしは瑠伊のことを純粋に心配する親のように慈愛に満ちる。

 きっと向井さんは、記憶を失くしてしまった瑠伊のことが心配だったんだ。

 もちろん、片想いの相手として好きだから追いかけて来たというのもあるのかもしれない。けれど、半分はやっぱり瑠伊をそばで見守っていたかったんだろう。


「さっきはあなたに厳しいこと言っちゃったけど、それは全部、どうにもならないことが苦しくて、辛かったからなの。八つ当たりだって分かってた。だから、ごめん」

 

 しゅんと肩を落として小さくなる向井さんを見てようやく分かった。

 なぜ、彼女が私に執拗に嫌味を言ってきたのか。敵意のあるまなざしで睨みつけてきたのか。瑠伊を想う気持ちが彼女の中で膨らみすぎていたからだ。瑠伊の過去も知らずに、新しく友達になった私が瑠伊と仲良くしているところを見て、面白くないと思うのは当たり前の感情だろう。


「ううん、私のほうこそ、向井さんの気持ちも知らずに傷つけてごめんなさい」


 頭を下げると、彼女は意外そうに眉をぴくりと持ち上げる。


「驚いた。こっちが最低なこと言ったのに、謝るなんて」


「だって、傷つけたのはお互いさまだから……」

 

 私は向井さんとは友達になった記憶はない。でも、もしかしたら彼女と友達なれるのかな?

 気がつけば彼女はふん、と不敵に笑っていた。何がおかしいのか分からないけれど、彼女と話す前より、私を敵対視していないことだけは分かった。


「で、あんたは今日も瑠伊と会うの?」


「今日は……会えない」


 頭のなかで、先ほど見た未来の記憶がフラッシュバックする。瑠伊に想いを伝えて振られてしまう未来。あの映像を見てから、心臓をぎゅっと掴まれたみたいに、瑠伊のことを考えると動悸がして、自分が自分でなくなるような心地がしていた。


「まさか、瑠伊と会うの怖気付いたとか?」


「ち、違うよ。今日はちょっと用事があって……」


「ふーん。まあいいや。とにかく瑠伊のこと、あんまり刺激しないでよね。瑠伊に何かあったら、あんたのこと恨むから」


「……」


 刺々しい口調なのは変わらない。けれど、瑠伊のことを私に話す前よりはちょっとだけ表情が和らいでいるような気がした。

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