7-2
「……さん。綿雪さんってば」
私の名前を呼ぶ声がすることに、しばらくの間気がつかなかった。
ぐらぐらする頭を押さえつつ、目の前に立っている人物に焦点を合わせる。そこにいたのは向井さんだった。なにかと私につっかかってくる彼女だが、今日はいつにも増して刺々しい目つきをしている。また、文句を言いに来たんだろうか……。正直なところ、今はあまり彼女と話したくない。そもそも、前回話した時に彼女は私に「最低」と言ったのだ。それなのにまだ私に何か用があるの?
どうせ消えるなら、向井さんから最低だと罵られた時の記憶が消えたらよかったのに。
無意識にそう思ってしまう自分は、きっとどうしようもないほど情けない。
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
目つきにも負けず劣らず尖った声色だった。途端、私は自然と身体がきゅっと縮こまるのを感じた。
「この前の日曜日、駅であいつと一緒にいたでしょ」
「あいつ……?」
向井さんが誰のことを言っているのか、聞かなくても薄々分かっている。日曜日に私は瑠伊と潮風園芸公園に出かけていた。それに向井さんは瑠伊と小学校から一緒だという。
だけど、まさか見られているとは思ってもみなくて、動揺する心が抑えきれない。
「海藤瑠伊。なんであんたが休みの日にまで瑠伊と一緒に出かけてんのよ」
明らかに、敵を見るような冷徹な熱を孕んだ視線を向けてきた。
彼女が瑠伊に対して何か特別な感情を抱いていることは一目で分かった。いや、分かってしまった。
「なんでって……、彼に誘われて」
事実をありのままに伝えるしかなかった。瑠伊と過ごした記憶もところどころ抜け落ちている私にとって、嘘をついたり取り繕ったりするのはあまりにも難しかった。彼女が怒っていることは目に見えて分かるのだけれど、だからと言って事実を捻じ曲げることはできない。
「……誘われた?」
驚きすぎたからか、一瞬二の句が継げなくなるぐらい大きく口をぽかんと開ける向井さん。
「なんであんたが瑠伊に誘われるの? 第一、教室にも来ない瑠伊がどうしてあんたと休みの日に……」
ブツブツと独り言のようにつぶやく向井さんだったが、彼女の目尻がどんどん湿っていくのを見た。
「瑠伊は、私の……私の、大切な幼馴染で、友達なのに……? なんで、私じゃなくて、あんたなんかと……」
彼女の震える声が、私の耳を、脳を、心臓を、とことん貫いて身動きを取れなくした。
大切な幼馴染で、友達なのに。
彼女の心の叫びがひしひしと伝わってくる。
私が、向井さんのことを傷つけているという自覚はあった。けれど、瑠伊と一緒の時を過ごしたという事実にだけは、嘘をつきたくない。忘れてしまうかもしれない彼との思い出を、今覚えているこの瞬間だけでも、本物だったと証明したい。
「私が、彼と一緒だから。記憶がなくなっていくの。一つ一つ、ランダムに抜け落ちていく。それが怖くて、一人で膝を抱えていた時に出会ったのが瑠伊だった。瑠伊も記憶を一部失っていて……私と同じだった。だから二人で、ひとつのものを作ろうって約束して、遊びに出かけた。私たちが前を向くために必要な、ことなの。向井さんにはいらない努力かもしれない。でも私には、私たちにはきっと必要なの」
自分でも何を言いたいのか途中で分からなくなった。
でもこれだけは言える。私は、中途半端な気持ちで瑠伊と一緒にいるわけではない。瑠伊が私の気持ちに寄り添ってくれたからこそ、彼と友達になりたいと思った。そして今は、友達以上の関係になることを心のどこかで望んでいる。
「記憶がなくなる……? 嘘でしょ。あんた、そんな冗談——」
「冗談じゃないよ。本当なの。記憶がなくなっていく怖さ、向井さんには分からないよね? 簡単に嘘つき呼ばわりしないで」
あふれてくる言葉の一つ一つにやるせなさが滲む。
目の前に立っている彼女に、私や瑠伊の気持ちはきっと分かってもらえない。だからせめてもう、放っておいてほしい。
向井さんの瞳がみるみるうちに大きく見開かれる。目尻に溜まっていた涙がぽろりと滑り落ちた。そして、次の瞬間には彼女の顔がくしゃりと悔しそうに歪む。
「綿雪さんだって、私の気持ち、分からないでしょ。す、好きな人が、記憶を失くして、教室に通えなくなって……。私、中学の時に瑠伊に告白だってしたんだよ。……その時はフラれたけど。でも、瑠伊はその時『澪のこと、もっと見るようにするよ』って言ってくれた。その言葉が嬉しくて嬉しくてたまらなかったっ……。なのに瑠伊は、その時の記憶も失くしちゃったのっ……。そんなの……そんなのって……あんまりじゃない。それでも受験勉強を頑張って瑠伊と同じ高校に進学して、もう一度瑠伊と一から思い出をつくろうって思ってたのに、瑠伊は教室に来なかった。私には挽回のチャンスすら巡ってこない。それなのにどうしてあなたは瑠伊と一緒にいられるの? ねえ、どうして!?」
今にも私につかみにかかってきそうな勢いで、彼女がバンッ、と私の机を叩いた。周りにいたクラスメイトたちがひそひそと友達と囁き合いながらこちらを見つめているのが分かった。
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