第五章 吹き始めた夏の風
5-1
テスト最終日の放課後の中庭はほとんど
和風庭園になっている中庭の真ん中にあるベンチに、瑠伊と並んで腰掛ける。目の前には小さな池があり、口をぱくぱくと開閉する錦鯉が私たちを見上げていた。
「ごめんな、何もないんだ」
お腹を空かせている鯉に話しかける瑠伊は、学校の外で会う彼とまったく違わない。そりゃそうだ。同じ人間なのだから。でも、校内で彼と顔をつきあわせていることに違和感は拭えなかった。
「何から話そうかな」
鯉のことは一度視界の片隅へと押しやって、瑠伊が私に視線を向けた。
「瑠伊も浪校の生徒だったんだね。知らなかった」
気まずい空気を打ち破るようにして、率直に思っていたことを伝えた。
「ああ……言ってなかったからな。素直に謝る。ごめん」
しおらしく頭を下げる瑠伊を見ていると、なんだかこちらが悪いことをしたような気分にさせられる。慌てて首を横に振った。
「違うよ、べつに謝ることじゃないって。私が、浪校ってことは知ってたんだよね?」
「うん。制服見たら一目瞭然だから」
そう。私は瑠伊と会うとき、学校の帰りに会っていたので制服のままだった。瑠伊も、同じように学校の帰りであったはずなのに、いつも制服ではなく私服を着ていた。だから、彼がどの高校に通っているのか知らなかったし、聞けずにいたのだ。そもそも出会いのきっかけがSNSだったこともある。互いのパーソナリティについてどこまでつっこんだことを聞いて良いのかも分からなかった。
「だよね。その、聞いてもいい? 瑠伊がどうして私に学校のこと話してくれなかったのか」
きっとのっぴきらない事情があるのだということは薄々察していた。
先ほど彼が出てきたのは保健室だ。養護教諭に親しげに挨拶をする彼を見るに、保健室から直接下校するのが常習だということはすぐに分かった。
「……隠してたわけじゃないんだけど、なんとなく、夕映には言いづらかった」
ぽつり、と降り始めた雨のように言葉を紡ぎ出す。今までに見たことのない、彼の一面をひとつも見逃すまいと、全身で彼の話に耳を傾ける。
「俺、高校入ってからずっと保健室登校してるんだ。行き帰りも母親に車で送迎してもらってる。理由は、なんとなく察してもらえると思うけど」
「……記憶がないから?」
彼が抱えているいちばんの悩みを口にする。私と共有した、二人の秘密とも言うべきもの。彼が周りのみんなに秘密にしているのか分からないけれど、保健室登校をしているということは、みんなはほとんど彼の事情を知らないだろう。
瑠伊はこっくりと頷いた。
「浪校には同じ中学出身のやつがちらほらいるんだ。でも俺、中学の時の記憶がないからさ、そいつらとどう接したら良いか分かんねえ。それに、勉強も完全にじゃないけど忘れてるところも多くて。だから保健室でずっと中学の復習しながら通ってる。テストも、保健室で受けてるんだ」
知らなかった。瑠伊が、私と同じ高校の保健室にずっと通っていたなんて。それに、テスト勉強の際、私は彼に数学を教えてもらっていた。でも中学の頃の勉強の記憶がないのなら、なんであんなふうにスラスラと私に数学を教えられたのだろう。
気になったので彼に尋ねた。すると瑠伊は、「ああそれは」と答えを教えてくれる。
「前にも言ったけど、趣味で数学やってるから。数学だけめちゃくちゃ解いてるんだ。だから数学はもう普通に中学の範囲から高校の今習ってるところまでちゃんと解けるよ。他の教科もほとんど履修済み」
「そっか……すごく努力したんだね」
どれぐらい長い時間勉強したかなんて、聞かなくても分かる。
瑠伊はあの狭い保健室の中で、孤独に勉強と向き合っていたんだろう。
普段は飄々としていて明るい彼だけれど、その裏で底知れない努力をしていたのだ。
「ちなみに、聞いてもいい? 瑠伊と中学で一緒だった子って誰?」
「えっと……夕映は、三組だっけ? 三組で
向井さんの名前が出てきて、頭の中が困惑した。
向井さん、瑠伊のこと知ってたんだ……。
もしかして、だから私がSNSで「ルイ」とやりとりしてるのを見て、ルイのことをいろいろ聞いてきたのかな。もしかしたらルイは瑠伊じゃないかって、感づいたんじゃないだろうか。
「向井さんか。ちょっと苦手な子だ」
彼女から「最低」と言われたことを思い出し、胸がひしひしと痛んだ。
さすがに、そんなことまでは瑠伊に話せないけれど。彼女の名前を聞いて顔にぎゅっと力が入っていたのが分かったので、瑠伊も心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「あいつ、素直じゃないとこあるからな……」
彼のつぶやいた言葉に、ふと違和感を覚える。
「瑠伊、向井さんのこと覚えてるの? 中学の頃の人間関係の記憶もないって言ってなかった?」
「ああ、そうだ。でも向井は小学校から一緒だから、忘れてない」
「小学校から……」
それってつまり、幼馴染ってことかな。
口に出しては聞けなかった。私が瑠伊と出会って過ごしてきた時間よりも、向井さんが瑠伊と過ごした時間のほうがはるかに長いことが分かって、胸の中でばっと青色の炎が燃え上がるみたいにひりついた。
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