第二章 孤独じゃない叫び
2-1
その日から、私の毎日は少しずつ色を変えていった。
日が経つにつれて、記憶障害の症状は顕著になっていく。その度に、不確定な未来の映像が頭に中に流れ込んできた。
母と父が悲しそうな表情で私を見つめている映像。
優奈の家に訪問して彼女の遺影の前で手を合わせている映像。
真白湖でまた、あの少年と会話をしている映像。
本当に訪れるのか分からない未来。
未来の記憶が一つ増えるたびに、SNSで不安な気持ちを吐露した。
【記憶が消えるって、こんなに怖いことだったんだ……。知らなかった。夜寝るのが怖いよ】
【分かります。俺も、明日なんか来なければいいって思う】
私が不安をつぶやくたびに、「ルイ」が何かしらの返信をくれる。共感だったらり励ましだったり、色々あるけれど、ルイの言葉はどんなものでもすっと胸に溶け込んでいく。
そんなルイのSNSの投稿は、意外にも明るいものばかりだった。
【今日、デコが俺の部屋でうんちしやがった(笑)可愛いから粗相も許しちゃう親バカさ】
【久しぶりにサッカーボールを前にしたら自然と身体が動いた。こういうのは身体が覚えてて、記憶障害も太刀打ちできないみたいだ。というか自分がサッカー少年だって知ったのもついこの間なんだけどね。楽しみ一つ増えた。ラッキー!】
【絵を描くのも同じみたいだな。調べたら手続き記憶っていうらしい。なんか格好良いな、手続き記憶って(笑)】
デコ、というのはルイが飼っている愛犬らしい。名前の由来を聞いたら、おでこが広いからだって。そんな理由? と思わずベッドの上で笑い転げた。ルイと記憶の話以外にも、日常のくだらない話なんかをして盛り上がるうちに、私の生活に、彼の存在はなくてはならないものになっていた。
六月上旬、私の住むこの地域も無事に梅雨入りを果たした。
カッパを着て自転車に乗り登校する毎日にも、三日も過ぎれば早くも辟易してきた。
真白湖の水面に小さな波紋をつくる雨を見ながら以前会ったあのブロンズ髪の少年を探してみる。
「さすがにこの時期はいないよね」
あの日から一度も彼の姿は目にしていないのだけれど、どういうわけか、彼のことが気になって仕方がなかった。
また会えたとして、私は何を話そうとしているんだろう。
友達はつくらないと誓ったのに、彼と話したいと思っているのだろうか。
自分で自分の気持ちがよく分からない。もやもやとした気持ちを抱えたまま、学校までの道を急いだ。
無事に学校にたどり着くと、今日もクラスメイトたちが自分の噂をしているんじゃないかという妄想に、心が絡め取られそうになる。できるだけ周囲の視線や声をシャットダウンするように、小さく縮こまって本を読んだ。
何事もなく一日を過ごしたい。
早く学校なんて終わってほしい。
そう祈ることしかできない。学校という場は、私を社会からとことん弾き出す。だからどうか、無難な一日を過ごせますようにと願うほかなかった。
けれど、そんな私の思いも虚しく、事件は四時間目に起こった。
授業は数学だった。担当の先生が“場合の数”についての授業を始める。今日は二回目の授業だ。……ん、二回目?
「それじゃあ昨日の復習からな。この問題、綿雪、解いてみろ」
先生が私を指名した。“この問題”のところで、黒板に書かれた問題を指差す先生。先生の気軽な口ぶりからしてそれほど難しい問題ではなさそうだ。が、私の頭は瞬時にフリーズした。
「えっと……」
当てられて席を立ち上がったものの、その場で固まってしまう。
……分からない。
答えが分からないという以前に、解き方も、問題文の意味も、何もかも分からないのだ。
なかなか答えを言わない私に、先生の表情が少しずつ曇っていく。周りのみんなが心の中で「早くしてよ」と毒づいているような気がしていたたまれなかった。
「わ、分かりません。習った覚えが、ないです」
震えながら絞りだした声に、ざわざわとさざめく教室。
「ん、習ってない? おかしいな」
私の言葉を信じた先生が、胸ポケットから手帳を取り出してパラパラとページを捲る。おそらく、その手帳にはどのクラスでいつどこまで教えたかをメモしているのだろう。先生が手帳を見ている間、クラスメイトたちがひそひそと囁き合う声が聞こえた。やがてそれは、キィンという耳鳴りに変わっていく。
そのとき、教室の真ん中の席に座っている女の子が手を挙げた。
「せんせーい、私たち昨日、ちゃんと教えてもらってますよ。綿雪さんが授業聞いてなかったんじゃないですか?」
どこか毒を孕んだような、意地悪な黒い声だった。はっとその人を見ると、向井さんが口元を歪めてほくそ笑んでいる。みんな、向井さんの言葉に同調するように、「習ったよね」と近くの人と確認し合っていた。
「そうだよな。先生も、記憶違いかと思って焦ったよ。綿雪、昨日ちゃんと復習したのか?」
先生に問われて我が身を振り返る。そうだ。昨日家に帰ってから、私はちゃんと復習をした……じゃないか。その日習ったことの復習は毎日のルーティン。だから当然したはずなのに、
「……すみません、忘れてました」
問題を解けないということは、復習をしていないということを立証するのに他ならない。これ以上どんな言い訳をしても無駄だと気づいた私は、素直に謝るしかなかった。
はあ、と先生が呆れてため息を漏らす。
「簡単な問題だからって復習を蔑ろにしたらだめだぞ。みんなも気をつけるように」
授業の始まりに先生の気持ちを萎えさせてしまった私は、朝よりもより一層小さくなって席に座っていた。
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