2-2

 四時間目の授業がなんとか終わり、昼休み。

 今日は本当に失敗した。

 席でひとり、孤独にお弁当を食べながら先ほどの授業の反省で心が埋め尽くされている。みんなからの注目を浴びている間、このまま消えてしまいたいと思った。昨日数学を習った記憶がないのは間違いなく、あの症状のせいだ。

 ぱちんと視界が弾けて、知らない光景が流れ込んでくる。

 向井さんが、私を「バーカ!」と罵っている光景だ。これもこれから起こりうる未来の記憶……? なんだかもう、心がぐちゃぐちゃで疲れちゃったよ。

 無意識のうちにスマホをまさぐり、例のSNSを開いた。


【学校でとんでもない失敗をした。昨日習ったことを忘れちゃってた。先生の質問に答えられなくて、本当に恥ずかしかった。もう消えてしまいたい】


 誰からも返信なんてないと思っていた。けれど、数分後すぐにバイブが鳴って、返信が来たことが分かる。学校でこうしてつぶやいたのは初めてだったので、その返信の早さに心臓が飛び跳ねた。

 視線を再びスマホに落とすと、返信は紛れもなく「ルイ」からだった。


【ゆえ、大丈夫か?】


 たった一言、それだけだった。

 けれどその些細な気遣いに、心に溜まっていたものがぶわりと溢れ出すように、視界が滲んだ。


「大丈夫じゃ……ないよ」


 こぼれ落ちた言葉は、心の底から本音だった。

 大丈夫なんかじゃない。大丈夫なわけがない。記憶がなくなって学校でも生きづらくなって、平気なはずがない。それなのに、平気なふりをしなくちゃいけない。ただのド忘れを装わなければ、“普通”でいられない。だから周りのみんなには記憶のこと、気づかれないように頑張ってきたのに。

 いざ、顔の見えない相手から優しい言葉をかけられると、抑え込んでいた気持ちが、濁流のように溢れ出した。



【助けて】



 以前もこんなふうに、「誰か助けて」とつぶやいた。その時もルイが返事をくれて、心救われた。何度もこんなふうにつぶやいて、気持ち悪いと思われはしないだろうか。身の保身を考えつつも本音が止まらない自分に呆れるしかない。


「綿雪さん、何見てるの?」

 

 ふと頭上から声が降ってきて顔を上げる。そこに立っていたのは向井さんだ。彼女は、鋭い目つきで私の手元のスマホを見下ろしている。隠そうと思ったけれど、遅かった。じろじろと意地悪そうな目つきで画面を睨みつけていた。


「そのルイって人、知り合い? リアルな友達?」


「え?」


 彼女が気になったのは、私のつぶやいた言葉ではなく、ルイのことらしい。


「……リアルな知り合いとかじゃないよ。SNS上で繋がってるだけ」


 ぼそっとつぶやく。

 彼女がどういうつもりでそんな質問をしてきたのか判然としない。

 私の答えを聞いて、向井さんは「ふうん」と訝しげに鼻を鳴らした。


「その人と結構話するの?」


「え、う、うん。他愛もないことだけど……」


 本当は他愛もない話以上に、私の悩みを聞いてもらっているのだけれど、そこまで詳しくは話せなかった。


「どんなふうに話すの? “ルイ”って、明るい? 暗い?」


 なんだろう。どうしてそこまでルイのことを執拗に聞いてくるのかやっぱり分からない。

 向井さんは、どんどん前のめりになって私に質問の答えを迫ってくる。


「えっと……暗くはない、と思う。いや、普通に明るいかな。いろいろとアドバイスをくれたりもするし」


 いろいろ、というところはぼかすしかなかったけれど、それでも向井さんは私の返事を聞いて「そうなんだ」と目を丸くしていた。

 それよりも、彼女とこうして普通に会話をしていること自体に驚きを隠せない。気が強くて苦手だと思っていたけれど、話したら案外——。


「やめときなよ、ネッ友なんて。リアルでも友達いないくせに、うまくいくはずないって」


 胸にズンと鋭利な刃を突き立てられたような心地がして、背筋がひゅっと凍りついた。


「ネッ友とか、私はそういう——」


「前から思ってたんだけど、綿雪さんってなんでそんなに暗いの? あんまりずっとそんな感じだとうちのクラス全体が暗くなるから、やめてくれない? 邪魔だから」


「——っ!」


 声にならない悲鳴が口から漏れた。捨て台詞を吐き捨てた向井さんは、踵を返して仲間のところへと歩いていく。二、三人の束になって教室から出ていった後、何人かが気まずそうに——いや、憐れむようにこちらを見ているのが恥ずかしかった。


「もうやだ……」


 つぶやいた声は、誰にも届くこともなく、机の上で霧散する。

 私だって、好きでこんなふうになってわけじゃないのに。

 昔は……それこそ中学生までは、「夕映はいつも明るいね」って言われていたし、友達だってそれなりにたくさんいた。だけど、あの大地震が起きて……大切な友達が目の前からいなくなって、私の幸せな日々は突如として切り落とされてしまった。

 進むべき道に、これから歩いていくはずの道に、ぱっくりと大きな亀裂が入り、切り裂かれた。崖の前で立ち尽くすしかない私は、これまで幸せに過ごしてきた日々のことを一つずつ忘れていく。目の前に横たわるのは、茫漠とした未来だけ。不確定な未来への不安が心を攫い続ける。

 

 消えてしまいたい。

 いっそのこと、楽しかった思い出とともに、全部、なかったことになればいいのに。

 クリーンな心で生まれ変わったら、今度こそ私は——。


 手のひらの中で、ブルッとスマホが振動した。

 同時に、私の肩もぴくんと揺れる。

 眠っていた身体を無理やり起こされた時のような感覚で、四角い機器に視線を落とした。



【大丈夫じゃないな。俺が助けに行く】



「え……?」


 画面に表示されたルイからの返信は【助けて】という私の投稿に返ってきたものだった。


「助けに行くってどうやって」


 意味が分からない。けれど、彼の言葉は嘘じゃなくて、本当に私の前に来てくれるような気がして、脈がどんどん速くなった。

 再びSNSに通知が届く。今度はリプではなくて、DMだった。ルイからだ。恐る恐るDMの画面を開く。そこには一言、こう書かれていた。



【今日、学校が終わったら真白湖に来て】



「真白湖……?」


 一体どういうことだろう。

 どうしてルイは、私が真白湖の近くに住んでるって分かったんだろう。

 それにルイも真白湖の近くに住んでるってこと?


 もしかして私のことストーカーしてたりして……。怖い人だったらどうしよう。


 と、不安に思わないことはない。もしかしたら私は騙されているのかもしれない。ネット上の付き合いだから、彼がどんな人なのか分からない。けれど、今まで彼が私にくれた言葉を思い出して、胸が灼けるように熱くなっていた。


 騙されているとして、もしルイが怖い人だったなら、もう諦めるしかない。

 そこまでだったと思おう。

 そもそも消えてしまいたいと思っているのだから。

 正直もうどうにでもなれ、という気持ちだった。

 ただ、一ミリでも、この不穏な日常から救い出してくれる可能性があるのだとしたら、縋ってみたいと思ってしまった。

 ルイが私のことを助けてくれるかどうか、信じたわけじゃない。ルイが仮に良い人だったとしても、ルイに会ったからと言って記憶障害が治るわけでもない。

 だけど、この時の私は、どうしようもなくルイという人間の言葉を求めていた。

 だから、DMで【分かりました】と返事を打つ。

 


【おーけー。放課後、すぐに向かう】



 すぐに返信が来て、胸がドキリと鳴った。

 私、本当にルイとこれから会うんだ……。

 頭の中で、ふと優奈の顔が思い浮かんで切なさに胸が震え出す。

 ルイと私、友達になるのかな。

 SNS上では「俺」と言っているけれど、そもそも男性か女性かも分からない。歳はなんとなく近いような気はしているけれど、実際のところはどうなんだろう。

 何もかも分からない。放課後までずっと、頭の中はルイのことだけになっていた。


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