2-3

「……そんなことがあって、あいつと旅立ったのが八年前のことだ。それからも、まあ色々あったが、特に大した出来事も事件もないな。季節や世相に合わせて西や東を行ったり来たりだ」

 これで終わりとばかりにイトは両手を挙げた。

「旅立ってから故郷には戻られたのですか?」

「いや、戻ってない。戻る理由がない」

「彼女が元の主を殺してしまった理由とは何だったのでしょう?」

「さあ、知らないね。ぶっ殺したくなるくらい嫌な奴だったってことなんだろう」

「そうですか……」

「他には何かあるか? なければ、もういいだろう。そんな風に俺たちは出会い、旅をして、あいつは昨晩死んで、そして今に至る。特に面白くも何ともない、平凡な過去だ」

「でもあなたにとっては」

「そう、特別。唯一無二。しかしそれは俺にとっては、の話だ。そして、今日会ったばかりのあんたには分かられたくない話だ。もうはっきり言うけどな、心に土足で立ち入られるのはさ、辛いんだよ」

 それきりイトは口を閉ざしてしまった。その口が開くことはもうないのだろうと、ルシャは見切りをつけた。間をつなぐために、焚火に木炭を足す。黒色の奥で赤が明滅する。細く立ち上る煙は星空に溶けて消えていく。

 ルシャがイトに対して個人的に言いたいことや言えることは山ほどあるが、それを口に出すことは間違いなく今は適切ではない。優しく触れられることにすら心が傷つくならば、そっとしておく他にない。思い出も、痛みも、悲しみも、全てイト自身のものである以上、今しがたイト自身が言った通り、赤の他人が無闇に触れるべきものではないのだ。

 おそらく――ルシャは思案する――おそらく、予想が正しければ、彼は砂鯨が元の主を殺してしまった理由を知っているのだろう。そして、その理由が彼と砂鯨の仲を更に特別なものにしたのだ。だから、彼は急に言い淀み、話を切り上げた。人の心とは、喩えて言うならば、繭のようで、幾重にも層が重なり形成されている。心の外側は人に晒すことができても、深層に近づけば近づくほど、心は秘匿されていく。彼に関して言えば、家族との確執や未知と旅への憧れは他人に話して差支えのないものだが、砂鯨との絆は差支えのあるものだった。だけど――。

 ルシャは首を横に振る。深呼吸をして、自分の役割と、為すべきことの優先順位を確認する。すなわち、第一は深く傷ついたイトの心が立ち直るきっかけを作ることであり、彼と砂鯨の間に何があるのかを知ることは今この瞬間の自分の役割ではない。そして、立ち直れるかどうかは、究極的にはイト自身の問題だ。本人自身に立ち直る気がなければ、ルシャたちがどれだけ手を尽くそうがいつまでも悲嘆に暮れ続けることだろう。

 時の流れが過去へ遡ることはない。それを可能にするいかなる手段もない。死者が蘇る奇跡もない。一度生じた事象が覆ることはなく、ただ事実を事実として受け止め適応していくしかない。それがどんなに辛く苦しく受け入れ難いことだったとしても、万人に等しく明日は訪れてしまう。そしてあらゆるものが過去となっていく。時の流れる速度で現在は過去と隔てられていく。

 しかしそれでも、魔法は存在する。時を戻すことはできないが、幻と夢を見せて心を騙し、幻想のなかで癒すことはできる。その上で、イトが何を信じるか。要は選択の問題だ。

「そろそろ、始めましょうか」

 雲も月もない夜空には無数の星が瞬いている。魔法を使うのにこれほど相応しい夜も珍しいものだ。

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