3
昼間には風が吹いて砂が舞い上がることもあったが、夜になってからはすっかり凪いで穏やかものである。しかし砂漠の地とは目に見えなくとも生物や自然が息づくものであり、その痕跡はたとえば砂紋として砂上に残されていた。四方を見渡せばいくつかある足跡以外はすべてが砂紋である。砂紋は星々の光を受けて淡い陰影を地表に作り出すことでその凹凸を示していた。
ルシャが歩く度に手首の鈴がシャンと鳴る。小さな足跡が砂紋の上に新たに刻まれる。その背中は小さく、広大すぎる砂漠に紛れて消えてしまいそうにも見えるが、白銀の腕輪が僅かな星の光を眩く照り返し、三日月のように鋭く夜闇に傷をつけているおかげで、イトはその背中を見失わずに済んでいる。
ルシャは十分に開けた場所まで歩み出ると、跪き、合掌した。口早に祈りの言葉を囁く。凪いでいた風が南から北へ、脈打つように柔らかく吹いた。
ルシャが立ち上がる。空を見上げる。無数の星々を目で追い、今この場に相応しいものを探し出す。小さい星は力不足だが、あまり大きすぎる星は他の光を掻き消してしまう。青い星は静かであるが同時に冷たく、赤い星は温かいが同時に騒がしくもある。調和を保つことは大事であるが、しかしそれだけでは取るに足らないものに留まってしまう。調和を破壊しながら再構築し、より大きな唄に育てていかなければならない。
息を吸う。凍てつくような空気がルシャの肺を満たし、手足の先まで冷えていく。心を澄み渡らせ、意識を手放す。これより先において、身体はルシャ自身のものではなく、空と大地とそして宇宙の一部である。たとえば天体の運行が自然の法則に従ってなされるように、ルシャの身振りや振舞いもまたより大きな意思に委ねて従わせるのだ。全ては在るがままに、為すがままに。心臓の鼓動のリズムは大気の鳴動と同期し、ルシャは無限の星空を見上げつつ同時に空から己自身を俯瞰する。手足の指先までくまなく霊気が行き渡ったとき、ついに唄が喉から溢れ出る。指先は空を撫で、つま先が弧を描き、鈴の音が脈打つように鳴り響く。
いくつかの星々から地表に向けて光が降り始めた。最初は一つ、二つ、次第に雨のように降り注ぎ、細く垂れた光の糸々は砂紋と結びつき、円い印を残す。印は元の星々の赤、青、白、黄それぞれの色を反映させ、淡くゆったりと明滅する。そんな印が地表のあらゆる場所に刻まれ、砂漠は星空を映す鏡となった。天地の区別はもはやなく、先ほどまで地平線だった場所も天地の星々が混ざり合って境界を失う。
それらの光景を、イトは息を呑んで見つめていた。地表に投影された星の光たちは無秩序にちりばめられているように見えたが、そこに意味があると気付くのに多くの時間は要さなかった。すなわち、譜である。ルシャの喉から溢れる音楽の音程や拍が、砂紋に落ちた星の光と同期していた。地表の光の全てが過去から未来に至る全ての音楽を記述していた。
シャン、シャン、とルシャが舞う度に鈴が鳴る。すらりと伸びた手足が宙を舞い、音楽が風に乗って砂漠中に響き渡っている。その響きはイトの鼓膜を心地よく揺らし、時間の感覚を麻痺させる。天地は反転し、時の流れも一様ではないため、もうずっと長い間、幻想の星海の中を漂っているような錯覚に陥っていることに気付くが、しかしどれくらい前からここにいるのかもわからなくなる。始まりと終わりは解け、永遠に今この瞬間が続くならば、それはつまり時空間の超越にも至るものであり――不意に舞うルシャとイトの目が合い、彼女は目で訴える。
(お別れの言葉)
はっと我に返ったイトは心に言葉を浮かべる。昼間にマユワとルシャに言われた通り考えたものもあったが、それは直観的に今この瞬間は相応しいものではないと感じた。ありがとうも、さようならも、違う。もっと他に言うべきことが、砂鯨に届けるべき言葉があるはずだ。そしてそれは、本能的にイトは知っている。既に存在する正しい言葉はイトに自覚されるのを待っている。
天の星々と地の星々の狭間でイトは立ち尽くす。ルシャの音楽が終わる時が葬儀の終わる時であり、その瞬間、砂鯨の魂は冥界の門をくぐることだろう。今ならまだ砂鯨の魂はこの幻想の星海を漂っていて、イトの言葉も届くかもしれない。一縷の望みが今ならまだあるかもしれなくて、しかしその可能性が途絶えるまでもう間もない。地表に落ちた星の印は徐々に輝きを失いつつあるからだ。地平線と重なり合ったところにある印は既に光を失った。もはや迷っている暇もない。束の間見た永遠は所詮ただの錯覚だった。
イトの半端に空いた口が言うべき言葉を探している。言うべき言葉は既にそこにある。後はそれに相応しい音を当ててやるだけだ。天の星々、地の星々、四方を取り巻く地平線、彼方には砂船、舞い唄うルシャ、耳に響くは星の歌声、そして目に留まった砂鯨の死骸。小山のような体は八年前に砂鯨商人の檻で会った時と変わらない。走馬灯のように駆け巡る八年間の思い出。砂鯨は唯一無二の家族だった。いや。家族という形容では不十分なほどに浅からぬ仲であり、イトと砂鯨は二人で一つだった。お互い欠けた魂を補い合っていた。人はそれを愛と呼ぶのだろう。砂鯨がとっくの昔に自覚し、イトが今初めて自覚したものだった。
動悸は激しく、息は吸うほどに苦しく、見開いた眼は瞬きすることを忘れていた。醒めゆく夢の終わりに掠れた声でイトはついに言葉に出会う。それは「ごめん」の一言だった。
お前が死んだとき、悲しむよりも先にほっとしてしまってごめん、と。
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