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砂鯨は砂漠を旅するうえで欠かせない生き物だ。移動を楽にしてくれるだけでなく、背に乗れば地面から遠ざかるので、照り返しの熱で体力を奪われることもなくなるからだ。加えて性格も大人しく従順な個体が多いため、旅の相棒としてこれほど優れた生き物は他にない。一般的には、砂鯨はそのような生き物であるとされているが、何事にも例外はつきものだ。
砂鯨の市場では様々な砂鯨が売買されている。出自は問われない。人工的に交配して養殖した砂鯨も、自然で生きていたところを密猟者が攫った砂鯨も、あるいは誰かが誰かから盗んだ砂鯨も、押し並べて等しく檻に閉じ込めて売買されている。どんな過去を持っていようが、砂鯨は大人しく従順なので、一度躾をしてしまえば、たちまち快適な乗り物に早変わりする。故に砂鯨の買い手はその砂鯨の出自を気にしないし、砂鯨商人も商品が売れるならば出自は気にしない。たまに砂鯨の一頭を指して「これは盗まれた私の砂鯨だから返してほしい」と訴える者もいるが、それは詐欺の常套句なので相手にしてはいけない。
イトもいつか自分の砂鯨を持ちたいと考えていたが、砂鯨とは決して安い買い物ではなく、十代の少年ならば二年間は必死に貯蓄に勤しんでようやく手が届くかどうかというものだ。
しかし、その『訳ありの砂鯨』は、市場の隅の、暗く目立たない場所で売られていた。イトが砂鯨商人にその訳を訊ねると、砂鯨商人は投げやり気味にこう吐き捨てた。
「こいつは飼い主を殺したのさ。こう、ぶちっとね」
両の手のひらを重ね合わせて、ぎゅっと擦り潰す仕草をする。
「砂鯨の事故なんて珍しくないだろう?」
「事故じゃない、殺人だ。こいつはこいつの意思で飼い主を殺したんだ」
「へえ……」
「とんでもないじゃじゃ馬さ。おかげで誰も買おうとしない。このまま売り手がつかないんじゃ、いっそ家畜として解体しちまった方がまだ元が取れるってもんだ。どうだい少年、お前くらいの年の子供なら、多少訳ありくらいの方が手を出しやすいんじゃないか?」
大人しさと従順さ故に人に飼われてきた砂鯨が飼い主を殺す状況がどのようなものか、イトには想像がつかなかった。よほど性格に難のある砂鯨だったか、よほど飼い主が砂鯨の恨みを買ったか、はたまたその両方か。いずれにせよ、砂鯨――あの巨躯で砂漠と悠然と泳ぐだけのでかぶつに、人間じみた喜怒哀楽の感情が存在すると仮定しなければ成り立たない話だ。
イトは件の砂鯨に目を向ける。檻の中で死んだように横たわるそれは、ただの岩のようであり、他の檻にいる砂鯨との違いは見出せない。時折尾びれを震わせるが、その動きも緩慢で、世の恨みや辛みとは無縁であるように見える。
「しばらくはここに置いておいてやるよ。少年、そいつに興味が湧いたんだろう」
「いや、別に」
そう返事しようとした矢先、砂鯨商人は別の客に声を掛けられ、そちらへ向かっていってしまった。
取り残されたイトは少しだけ迷った後に、檻の奥側に回り込み、訳あり砂鯨の前にしゃがみ込んだ。イトに気付いていないのか、砂鯨は目を閉じたまま動かない。
じっと耳を傾けていると、砂鯨が呼吸する音が聞こえる。吐息で地面の砂粒がかすかに震える。そのリズムはイトが呼吸するときよりもずっとゆっくりで、深呼吸をして溜息をするようにも見える。
「お前、飼い主を殺したんだってな。よほど嫌な奴だったんだろうな」
想像の中の『ご主人様』は、ちびで、でぶで、禿げ頭の、中年の男だった。甲高い声で砂鯨を罵り、手にした鞭や棒で砂鯨を叩く様子を想像した。砂鯨からすればそんなものはきっと痛くも痒くもないのだろう。刃物で切ったり刺したりでもしないと、砂鯨が痛がることはないのだろう。それほどに砂鯨は巨大で、人間は小さいものだ。
改めて砂鯨の巨体を眺めてイトは思う。逆に、何をしたら砂鯨に殺されるなんてことがあるんだ、と。生来、イトは想像もつかないことに対して好奇心を抱く性質であっる。知らないこと、わからないことの先には新しい世界が広がっているものである。
「お前のことに興味が出てきたよ。何があったんだろうな」
砂鯨は黙して答えず、イトの好奇心など知るはずもない。
小一時間をそんな風に過ごした後、イトは立ち上がり、砂鯨商人に一声掛けて去っていった。
それから何度となくイトは訳あり砂鯨のもとに通った。砂鯨は常に檻の隅でほとんど死んだように横たわっていた。他の砂鯨たちは所在なさげに檻の中をうろうろしたり、道行く客に視線を投げかけたりしていたりしたが、訳あり砂鯨だけはその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子は何かにじっと耐えているようにも見えた。一体何に? 飼い主を殺した件と関わりがあるかどうかはイトにはわからないが、この砂鯨自身の事情に関することなのだろうと想像する。
砂鯨の鼻息が砂埃を震わせるのを見ながら、イトは故郷でよく見かけた野良犬のことを思い出していた。その野良犬は家々を回っては残飯をせびっていた。もっともどの家も貧しく、野良犬に食わせるような残飯はなかったのだが、たまに近所の老夫婦が気まぐれで残飯を与えていた。そのせいで野良犬は惨めな鳴き声を出していれば飯にありつけることもあることを学習してしまった。当時はうるさく迷惑にしか感じていなかったが、今にして思えば野良犬にとっては媚び諂うように鳴き声を出し続けることが生きるための唯一の手段だったのだろう。あの痩せ細って虚ろな目をした野良犬は、自分なりに生きるための手段を考え実行していたのだ。野良犬ですらそうなのだから、砂鯨が同じように自分なりの哲学を持っていたとしても、もしかするとそれはおかしなことではないのかもしれない。
そう考えたとき、イトは自分でも気付かず砂鯨に手を伸ばしていた。表皮は冷たく、柔らかく、そして滑らかだった。そのとき初めて砂鯨は瞼を開いた。闇夜よりも暗いのに透き通った硝子のような瞳だった。
イトが件の砂鯨を買うと決意するのにそう多くの時間はかからなかった。一度決意してしまえばやるべきことは限られていたので、以後イトが悩んだり考えたりすることはほとんど何もなかった。立ち上がり、その足で砂鯨商人のもとへ向かう。
「あの砂鯨を買いたい」
と砂鯨商人に宣言すると、「三ヶ月までなら待ってやろう」と言質を得ることができた。路地裏で同年代の少年たちと愚痴を言い合っていた時間はすべて仕事に充てた。朝から晩まで働き、その合間に市場へ通って砂鯨に会いに行った。砂鯨は変わらず岩のようにじっと動かずにいたが、イトの砂を踏む音が聞こえると、尾びれをそっと波打たせるのだった。
砂鯨を買うための資金が溜まったのはちょうど約束の三ヶ月目だった。銀貨を数え終えた砂鯨商人は「頑張ったな」と口端を持ち上げた。
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