2-1

 ルシャに促されるまま、イトは砂鯨との出会いを語り始める。

 イトはここから遥か東、砂漠に侵食されかかった農村で生まれた。上に五人の兄姉と、下に二人の弟がいた。祖父の代までは農業で生計を立てられていたが、年々進む砂漠化は村をじわじわと蝕み、イトの物心がつく頃には、父や兄姉は畑に向かうよりも、遠くの街に出稼ぎに行くことの方が多くなっていた。そのため、家の仕事は残った母やイトを含めた幼い子供たちが担うことになっていた。そのような事情はどこの家族でも同じことだったので、水汲みや炊事に洗濯、乳飲み子の世話など一通りのことは、この農村で生まれ育った者ならばできて当然のことだった。

 家事に追われて代わり映えのしない毎日をやり過ごすなかでの楽しみは、たまに帰郷する父や兄姉が語る出稼ぎ先での出来事である。もっとも、彼らが語ることの大半は、いかに仕事が大変でつまらなくて、苦労に見合う対価が得られないものであるか――つまり愚痴であるのだが、その語りの合間に異国の風が吹くことがある。そのとき、イトは父や兄姉に「もっと詳しく聞かせて」と食いついては鬱陶しがられていたが、イトの輝く目に根負けして、彼らは渋々語り始める。

 たとえば父が砂鯨宿の建築現場で肉体労働に勤しんでいると、遥か遠くの北国からやってきた高貴な人々の一団とすれ違うことがあった。砂鯨の背の上、白絹のヴェールを三重に重ねた天蓋の輿に乗っていたのは一団の中で最も位の高い人であろう。父はすれ違いざまにその人の横顔を一瞬見ただけであったが、その様子はとても印象に残るものだったという。曰く、その人は白く痩せこけていて病人のようであり、幼くも年老いているようにも見えて不思議だった。しかし真に父の印象に残っていたのは、天蓋の薄闇の中で紅い瞳が光を帯びて輝いていたことだった。すれ違いざまの一瞬のことだったので、もう一度確かめる機会はなかったという。

 あるいは、姉が奉公する大商人の屋敷には、砂漠を超えた遠く西方の国から持ち込まれたものが数多く収蔵されていたという。姉の足りない語彙力では微細を描写するには不足であったが、かえってその曖昧さがイトの想像力を刺激した。たとえば彼女が見たある本は、小指の爪よりも小さいのに百頁以上もある本であったという。とても本としての機能を有しているとは思えないのに、蜘蛛の糸くらい細い金糸の刺繍で装丁されているというのだから、ますます本としての目的がわからない。姉は「お金持ちって本当に暇よね、わけがわからない」と理解を投げ出すが、イトはそうではない。その本には何が書かれているのか、誰が何のために作ったのか、そういうところに気が向いてしまう。

 こういった話を聞くたびに、イトはいつか自分が出稼ぎに出る日のことを夢見た。もちろん出稼ぎであるのだから、家族のために一生懸命働かなければならないのだが、見知らぬ土地で見知らぬ人や物に出会えることに変わりはない。父や兄姉が体験したように、いつか自分もふとした拍子に未知なるものに出会い、世界の広さと可能性を、その目で、その耳で、その手で、鼻で、舌で、全身で感じる日が来るのだ。イトはその日を心待ちにしていたのだった。

 それからいくつかの年月が流れ、イトが十二歳になった年の冬、ついにイトは父に連れられて初めての出稼ぎに出た。父の紹介で瓦焼き職人の手伝いをすることになったのだ。仕事柄、熱風渦巻く窯のそばを行ったり来たりするため、真夏の炎天下に立っていたときよりも汗をかくような仕事だったが、イトは懸命に取り組んだ。いつか父や兄姉が語ったような出来事がイト自身の身に起こると期待して、日々親方の理不尽な叱責にも耐えた。しかし、その時がついに訪れることなく、季節は春になり、迎えにきた父に連れられて、何枚かの銀貨を懐にイトは帰郷した。銀貨は一枚残らず母に取り上げられた。

 次に行った倉庫での荷運びの仕事でも、その次に行った教会の建築の仕事でも、さらにその次に行った街道整備の仕事でも、何も起こらなかった。日々理由もなく叱責されながら小銭を稼ぎ、一銭残らず家に納めるだけの帰郷。腹立たしいことに、帰った次の日には早く出稼ぎに行ってこいと責め立てられるのだ。

 十四歳になると、父からは「仕事はもう自分で探せ」と突き放されるようになった。イトはその場しのぎのような仕事を転々として過ごすようになった。しかしそれでは自分の食い扶持を維持するのに精いっぱいで、故郷には手ぶらで帰らざるを得ない。事情を母に説明するが、母はあからさまに残念がった。その横っ面をぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られつつも、しかしイトは寸前のところで堪えた。そんなことがあって、イトの心は家族と故郷から離れていった。出稼ぎと称して向かった交易の要衝となる大きな街では、同じような年ごろと境遇の少年たちと不満を燻ぶらせあう日々を過ごすようになるのだった。

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