人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人

春風秋雄

社長の玲奈さんは、勝気で負けず嫌いな女性だった

平林社長にさんざん怒鳴られ、営業部の笹本課長はスゴスゴと社長室を出て行った。社長とはいえ、年下の女性から怒鳴られた課長は屈辱と怒りに肩を震わせていた。笹本課長の背中を見送ってから俺は社長の平林玲奈さんに言った。

「社員には、もう少し言い方を考えてあげないと、モチベーションが下がりますよ」

「遠野さん、あなた、社長の私に意見するつもり?いくら父の紹介でうちの会社に入ったからといっても、まだ何も成果を出していない人にあれこれ言われたくないわ。私に意見するなら、それなりの成果をだしてからにして」

取り付く島もない。この会社に入って3か月になるが、だんだんこの社長のことがわかってきた。これは大変だと思わずにはいられなかった。


俺の名前は遠野吾郎。43歳の独身だ。5年前までは小さいながらも自分の会社を経営していて、一国一城の主だったのだが、訳あってその会社は倒産させた。しばらく職を転々としながら暮らしていたが、このファーフラット株式会社の前社長である平林雄三氏から「うちの娘を助けてやってほしい」と言われ、3か月前にこの会社に入社した。雄三さんとは古い付き合いだ。俺の会社を倒産させたのも、雄三さんと関係がある。娘さんの平林玲奈さんがファーフラット社の社長に就任したのは2年前だ。雄三さんが腎臓を悪くし、透析が必要となったため、社長職を退くことに決め、他の会社で働いていた玲奈さんが「私が会社を継ぐ」といって社長に就任したというわけだ。玲奈さんは35歳の独身で、まったく畑違いの会社でOLをしていた。ファーフラット株式会社は工業用機械製造の会社だが、勝ち気で負けず嫌いの玲奈さんは短期間で会社の概要を把握し、製品についても猛勉強して会社に入って半年くらいすると、ベテラン社員と対等に仕事の話ができるまでになったということだ。ただ、その勝気な性格が災いして、社員がついて来られなくなったらしい。ただでさえ2年前に入社した新人で、しかも年下の女性ということで、古参の幹部たちは新社長を気持ちの上では受け入れていなかった。そんな状況の中、ちょっとしたミスでも叱り飛ばすし、到底無理だと思われる目標数値を課し、それが未達成に終わると、会議で容赦なく追求する。そんなことが繰り返され、とうとう半年前に、長年会社に貢献してきた専務が「社長の方針についていけない」と言って、あと2年で定年だというのに退職した。それに呼応するように、取締役や部長クラスの何人かが次々に退職したということだった。このままでは会社が崩壊すると思った雄三さんが、玲奈さんを一人前の経営者に教育してほしいと俺に頼んできたというわけだ。雄三さんとは長い付き合いだが、玲奈さんとは会ったことはなかった。ファーフラット社に入るにあたって、雄三さんに頼んで、玲奈さんには先入観を持たせないよう、俺の素性に関しては玲奈さんに伝えず、雄三さんの信頼するビジネスパートナーだった人物とだけ伝えるようにしてもらった。入社部署は経営企画室ということにして、実質は社長秘書のような立場にしてもらった。秘書のような立場であれば、四六時中社長についていられ、社長の考え方や方針が手に取るようにわかるからだ。


定例の幹部会が終わったあと、俺と二人きりになったところで社長の玲奈さんがボソリとこぼした。

「どうして皆無能な社員ばかりなのよ。これじゃあ、今期は赤字に転落するじゃない」

「無能な社員は全員辞めさせますか?でも次に入ってくる社員が有能な社員とは限りませんよ。それに、社長が言う無能な社員ばかりで前期まではずっと黒字だったんです。社員は替わっていないのに、赤字に転落するのはおかしいでしょ?赤字に転落するのは社員のせいではなく、他に原因があると考えるべきです」

俺がそう言うと、玲奈さんは唇をかみしめて黙り込んだ。

「社長、たまには息抜きに飲みにいきませんか?」

玲奈さんが不思議そうな目で俺を見た。

「私とでは嫌ですか?」

「いいわ。行きましょう」

社長が連れて行ってくれたのは、個室のある鰻屋だった。

「ごめんね。私はあまり飲めないから、鰻にしちゃった」

「鰻は大好きですから、大丈夫ですよ」

鰻重ができるまで、う巻をつつきながら、俺はビールを飲んだ。

「社長、うちは上場もしていない中堅企業です。毎年の新卒募集だって大会社のように一流大学を出た人がわんさか来るわけではありません。そんな会社に来てくれた社員には感謝するべきなのです。ないものをねだっても、経営は成り立ちませんよ。今いる社員でどうやって結果を出すのかが経営なんです」

「そんなことわかっているわよ。私が言っているのは、目標に対して何も工夫をしていないということを言っているの。現状では私が課した目標には遠く及ばないじゃない」

「社長が課した目標は、どういう根拠であの数字になったのですか?私から見ると最初から無理な数字に見えますけど」

「できる数字を提示しても、それ以上の数字はできないでしょ?それじゃあ進歩がないじゃない」

「社長は、全力疾走で100メートル走れますか?」

「100メートル?若い頃ならいざしらず、この年になって100メートルなんて走れないわよ」

「じゃあ、何メートルなら走れますか?」

「せいぜい50メートルじゃないかな」

「じゃあ、その10倍の500メートルを全力疾走で走らないといけないと言われたらどうしますか?」

「ムリムリ、走れるわけないわよ」

「最初から無理だと思ったとき、50メートルまでは全力疾走で走って、そのあとは力が出る限り走りますか?それとも、最初からあきらめて、スタートからゆっくり走りますか?」

俺がそう言うと、玲奈さんは黙り込んだ。

「じゃあ、60メートルならどうでしょう?何とか走れないかとチャレンジするのではないですか?もっと言えば55メートルなら?」

玲奈さんが真剣な目で俺を見た。

「目標設定というのは、今の状況でこの数字を達成するのは難しいかもしれないけど、頑張ればできるかもしれないという数字にするのが一番良いのですよ」

「遠野さん、あなたは、以前はどういう仕事をしていたのですか?」

「一応、小さいけど会社を経営していました」

「どういう業種?」

「うちと同じ工業用機械製造販売の会社です」

「その会社はどうなったのですか?」

「事情があって倒産させました」

「それは経営がうまくいかなかったということですか?」

「まあ、それはいいじゃないですか」

俺がそういったところで鰻重が運ばれてきた。


社長の玲奈さんが、工場の視察に行くと言い出した。俺について来いと言う。俺は他に用事があるからと言って断ったが、こっちを優先しなさいと言われて、仕方なく俺は付き合わされることになった。

工場に入って、俺は目立たないように社長の後ろをついて歩いていたのだが、あるラインのそばを通ったときに工員から声をかけられた。

「社長、お久しぶりです!」

その声を聞いて玲奈さんが振り返りその工員を見た。しかし工員は玲奈さんではなく俺の方を見ている。仕方なく俺はその工員に声をかけた。

「鈴木君、頑張っているかい?」

「はい。社長がこの会社に来られたと聞いて、いつかは会えると思っていました。会えて嬉しいです」

「その社長と言うのはやめてくれ、俺はもう社長ではないのだから。社長はここにいる平林玲奈さんだから」

「あ、すみません。つい癖で」

「それよりどうだい?変わったことはないかい?」

「はい。社長が、あ、いえ遠野さんが作られたこのFX7は順調に売れているようで、製造が間に合わないくらいです」

「おい!その話はダメだよ」

俺はそう言って人差し指を唇に当て、シーっというジェスチャーをした。鈴木くんは「しまった」という顔をした。

しばらくして玲奈さんが聞いてきた。

「さっきの社員は、遠野さんの会社にいらっしゃった方?」

「ええ、私の会社を閉めるときに、前社長の雄三氏に頼んでうちにいた社員のほとんどを引き取ってもらったのです」

「それより、FX7を遠野さんが作ったって、どういうこと?あの商品はうちの主力商品でしょ?たしか6年くらい前にうちが特許をとっていたはずだけど」

「まあ、そのことは折をみて話しますよ」

俺は逃げるようにその場を離れた。


それから1週間くらいしてから、玲奈さんに誘われて食事に行った。今日は鰻ではなく寿司だった。玲奈さんは、お酒は飲まず、いきなり握ってもらっていた。

「この前のFX7の件、ちゃんと教えてくれないかしら。父に聞いたら遠野さんに直接聞けと言われたの」

仕方ない。そろそろ話してもいいかと思い、俺は口を開いた。

「ファーフラットという社名の由来は知っていますか?」

玲奈さんが首を振った。

「遠野の遠いという字と、平林の平という字をとって、それを英語にしたのがファーフラットという意味なんです。この会社は私の祖父と玲奈さんのお祖父さんが共同で始めた会社なんです」

「そうだったのですか?」

玲奈さんはまったく知らなかったようで、目を丸くした。

「うちの父の兄弟は、工業機械にはまったく興味がなく、この会社を継ごうという者はだれもいなくて、祖父が引退するときに、株はすべて平林家に譲ったんです」

「そうだったのですね」

「私は祖父のことが大好きでしたから、祖父から機械のことを色々教わっていました。自然に大学も工業大学に進みました。そして機械製造の会社に就職しました。働きだしてからも家で新しい機械の開発をやっていました。まだ元気だった祖父も面白がって、家に研究室を作ってくれて、二人で毎日取り組んでいました。5年ほどして、一つの商品ができました。FW2という商品です。祖父はその商品をファーフラット社に売り込みました。その時には、社長は雄三さんにかわっていました。雄三さんは喜んでファーフラット社で取り扱ってくれて、ファーフラット社の主力商品になりました。それをきっかけに私は会社を作りました。遠野を英語にしてファーフィールド株式会社という社名にしました。次々に新商品をつくり、独自の販売先も開拓しました。ファーフラット社と同業ですので、それほど手を広げるつもりはなく、従業員も5名ほどの規模にして、食べていければいいやと思っていました。6年前にFX7という画期的な商品を開発しました。取引先からも予約注文をたくさんもらっていました。そんな時に、雄三さんがうちを尋ねてきたんです。経営危機に陥っていて、どこの銀行もお金を貸してくれない。このままでは従業員を路頭に迷わせてしまう。それで、うちにお金を貸してくれないかと言ってきたんです。しかし、うちにそんなお金はない。ところが、まだ存命だった祖父が、何とかしてあげてほしいと頭を下げて私に頼んできたのです。祖父に懇願されては、私は断れませんでした。私はFX7の特許申請で準備していた書類を雄三さんに渡しました。FX7はファーフラットの特許として申請するように言ったんです。予約注文を受けていた取引先には、納品元が替わる旨を伝えて注文書をすべて書き換えてもらいました。雄三さんはそれらを持って銀行と交渉し、無事に融資はおりました。ただ、うちはFX7がなくなって、経営は行き詰ってしまいました。その1年後には会社を畳むことにしたというわけです」

俺の話を聞き終わっても玲奈さんは何も言わず黙ったままだった。

「うちの会社を畳むときに、雄三さんは従業員と一緒に私にも役員としてファーフラットに来てほしいと言ってくれました。でも私は断りました。従業員を引き取ってもらう以上、私も一緒に行ったら、会社の中にもう一つ会社が出来てしまう。そんなことになったら、ファーフラットの組織が壊れてしまうと思ったからです」

「遠野さんは、ファーフラットを助けるために自分の会社をつぶして、苦労して開発したFX7までうちに取られて、本当にそれで良かったのですか?」

「私は祖父が大好きでした。その祖父が大事に思っていた会社を潰したくなかったのです。祖父は3年前に他界しましたけど、亡くなる前に私の手を握って、ファーフラットを助けてくれてありがとうと言ってくれました。私は大好きな祖父にそう言ってもらえてうれしかったです。FX7の特許を誰が持っているなんて関係ないです。私が開発した商品が人様の役に立っているという事実だけで十分です」

「そこまでして助けたファーフラットの、今の現状をみて、遠野さんは歯がゆいでしょうね」

「ええ、歯がゆいです。雄三さんから事情を聞いたとき、自分にはもう関係ないことだと思ったのですが、祖父の顔を思い出したら、やっぱり放っておけませんでした。それで雄三さんからの依頼を引き受けることにしたのです」

「父は遠野さんに経営の立て直しを依頼したのですか?」

「いいえ。私が依頼されたのは、玲奈社長を一端の経営者にすることです。経営を立て直すのは、あくまでも社長ですから」

「遠野さん、お願いです。教えてください。私はどうすればいいのですか?気軽に社長をやると言ったのはいいのですが、経営がこんなに大変なことだとは思っていませんでした。何をどうすればいいのか、まったくわからなくなったんです」

「本田宗一郎はこんなことを言っています。

『人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない』

社長、まずは社員のそれぞれの気持ちになってみましょうよ。そのためには、社員とたくさん話すことです。会議でも社長が一方的に指示をするのではなく、みんなで意見を出し合って社員が今何を考えているのか、どういう気持ちなのかをよく理解したうえで、良い方向性を見つけていくことだと思います。まずは、そこからやってみましょうよ」

玲奈さんが真剣な目で頷いた。


それからの玲奈さんは、俺のアドバイスを素直に聞き入れてくれるようになり、社内の雰囲気もずいぶん変わった。社内の雰囲気が変われば、自ずと成果に現れてくる。今期の赤字転落はなんとか免れ、わずかだが黒字に転じた。

俺の役目もそろそろ終わったなと思い、雄三さんに会社の現状を報告したうえで、玲奈社長に退職願を出した。

「退職願って、どういうことですか?」

玲奈さんが気色ばんで俺に迫った。

「もう私の役目は終わったかなと思いまして」

「終わってなんかいませんよ。遠野さんにはまだいてもらわないと困ります」

「もう私がいなくても大丈夫でしょう?」

「会社は大丈夫かもしれませんが、私が大丈夫ではないです」

「社長が?」

玲奈さんは黙り込んだ。

「とりあえず、これは受け取ってください」

俺がそう言ってもう一度退職願を差し出すと、玲奈さんが恨めしそうに俺を見た。

「じゃあ、遠野さんの慰労をさせてください。明日の夜は空けておいてください」

とても断れる雰囲気ではなかったので、俺はそれを受けることにした。


玲奈さんは俺の慰労のために自宅で料理を作って準備しているというので、玲奈さんのマンションへ向かった。部屋に通されると、どれほど時間をかけたのだろうと思うほどの、凝った料理が並んでいた。玲奈さんはお酒を飲まないのに、高級ワインも用意されている。これはまいったと思った。

「どれも美味しいです。料理、上手なんですね」

「一人暮らしが長くて、他に趣味もないので、料理だけはうまくなったかなと思いまます」

「彼氏とかにも作ってあげたりするのですか?」

「若い頃はそういう相手もいましたけど、この何年かはそんな相手もいないです」

「若い頃に付き合っていた人と結婚しようとは思わなかったのですか?」

「相手からは結婚の話もでましたけど、どうしてもそんな気になれませんでした。なんか物足りなかったんです。この人と結婚したら、普通の主婦になるだろうなと思えて、先が見えてつまらなかったんです」

「玲奈さんは、人生に刺激を求める方ですか?」

「刺激がないと人生面白くないじゃないですか?ハラハラ、ドキドキ、この先どうなるんだと思いながらの人生が楽しいじゃないですか?」

「なるほど、それでOLをやめて社長になったんですね?」

「そういうことです。今もドキドキしているのですよ」

「今も?」

「ええ、独身の私が自分の部屋に独身の男性を招いているのです。ドキドキしない方がおかしいでしょ?」

「私はもう43歳ですよ?こんなオジサンでもドキドキするのですか?」

「遠野さんはドキドキしないですか?」

「いや、私は玲奈さんのことは社長としてしか見ていなかったので」

「もっと際どい服を着ておけばよかったかな?」

「そういう問題ではなくて・・・」

俺が言葉を続けようとすると、玲奈さんが席を立って、こっちに寄ってきた。そして、俺の肩に手をかけた。

「どう?少しはドキドキしてきた?」

「俺、そろそろ帰ろうかな」

私ではなくて、俺と言ってしまうとは、俺も冷静でなくなっているようだ。

「わかった。もう迫らないから、もう少しいて」

玲奈さんはそう言って、もう一度椅子に座った。

「遠野さんは、どうしていままで結婚しなかったのですか?」

「大学を卒業してからは、新商品開発で、毎日家に帰ったら研究、研究の日々だったので、そういう相手を作る余裕がなかったんですよ」

「遠野さんは、お爺様の思いを大切にして、うちを救ってくれたのですよね?だったら、これからのファーフラットを見届けてみたいとは思わないですか?」

「まあ、そういう気持ちもないではないですけど」

「遠野さんが、私と一緒になって、二人でファーフラットを盛り立てていけば、お互いのお爺様が喜ぶと思いませんか?」

玲奈さんにそう言われて、祖父の顔が思い出された。最期に俺の手を握って「ありがとう」と言ってくれた祖父は本当にファーフラットという会社を愛していたのだと思った。その思いを継いでみたいという気持ちもないではない。

「それより、遠野さんは私のこと、女としてどう見ているの?」

「いや、玲奈さんは綺麗だし、とても素敵な女性だと思っていますよ」

「それで、私と一緒になれない理由はある?」

「理由は・・・、ないですけど」

玲奈さんがニコッと笑った。そして再び立ち上がり、俺のそばにきた。

「こっちにきて」

玲奈さんは、俺の手をとって立たせる。俺は抗うことができず立ち上がった。玲奈さんが俺の手を引いて寝室へ連れていく。寝室のドアを開け、足を1歩踏み入れた時、窓の外に見える夜空の向こうで祖父が嬉しそうに笑っている気がした。

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