エピローグ 2.Back to TRY

背番号「4」。

桜色のジャージに染め抜かれたその番号が、ゆっくりと屈伸するたびにしなやかに躍動する。

その背中を、柚木あおいは、祈るような思いで見つめていた。

一回りも二回りも大きく、そして黒豹のように研ぎ澄まされた背中。

そこに刻まれた無数の傷跡と、鍛え上げられた筋肉のすべてが、この場所に辿り着くまでの、途方もない時間を物語っていた。


「なあ、柚木」

不意に、静かだが芯の通った声がかかる。

振り返ると、同じ桜色のジャージを纏った伊藤舞が、静かな、しかし力強い瞳であおいを見つめていた。


「南雲のこと、頼む。あいつ、ちょっと固くなってるから」


「はい。…伊藤さんは、大丈夫ですか。その、緊張とか」

あおいは、差し出されたペットボトルを受け取りながら、舞の腕に巻かれたキャプテンマークに視線を向けた。

舞は、ふっと息を吐くと、その視線の意味を理解したように、小さく笑った。


「大丈夫。緊張は、最高の準備ができた証拠だから。…さあ、行こうか」

通路の先に、圧倒的な光が満ちていた。突き抜けるような青空と、地鳴りのような大歓声。


2032年8月、オーストラリア、ブリスベン。

肌を焼くような亜熱帯の太陽が、スタジアムを埋め尽くす数万の観衆の熱気と混じり合い、陽炎となって緑のピッチを揺らしている。

その全てが、オリンピックという祝祭の始まりを告げていた。

レイナは、渡英後、ロンドンの大学で本場の15人制のラグビーに揉まれ、その才能をさらに開花させた。

大学3年の時にサクラセブンズに初召集され、このオリンピック直前に、ついにスタメンの地位を手に入れた。

一方のあおいは、明政大学でプレーを続けた後、この春、かつての宿敵で、今やサクラセブンズの不動のキャプテンとして君臨する、伊藤舞と同じ社会人チームに加入。

その持ち味のアジリティを高く評価され、代表候補として最終合宿まで残った。

だが、最後の最後で、オリンピックメンバーの座を掴むことはできなかった。


あおいは、選手たちがフィールドへと続く通路の入り口、その境界線に立っていた。

サポートメンバーとして支給されたビブスが、まるで自分とあの光の世界を隔てる壁のように感じられる。

一歩先は、選ばれし者だけが立つことを許された聖域。

今は、まだ手の届かない場所。


――でも、いつか、きっと。


レイナは、ウォーミングアップを終えると、あおいの前に立った。

ブリスベンの強い日差しが、彼女の小麦色の肌を照らし出す。

二人の間に、多くの言葉はいらない。高校時代、あのファミレスの席で、あの星空の下で、交わした視線と、何も変わらない。


「見ててよ、あおい」

レイナが、ニッと歯を見せて笑う。

その笑顔は、五年前、イギリスへと旅立っていったあの日の笑顔よりも、もっと強く、もっと眩しい。


あおいたちが高校生だった頃に比べ、国内のセブンズ競技人口は4倍以上に膨れ上がり、JリーグやBリーグが誕生した頃…とまではいかないものの、確かなムーブメントが巻き起こっている。

その結果、このブリスベン五輪においての、この赤と白のジャージに対する期待は、極限まで高まっていた。

一年半前、セブンズラグビーをモチーフにしたアイドルユニット【7sR】(セブンズアール)がデビューし、SNSを起点に、動画コンテンツでバズり、テレビをも巻き込む社会現象となった。

彼女たちが、SNSで知名度を上げ、セブンズラグビーの伝道師として、全国を駆け巡っていたことも、競技の普及に大きく貢献した。


そして、その巨大な嵐を、グラウンドの外から様々な角度で巻き起こした仕掛け人こそが――。


「はい、カメラ3、南雲のアップ寄って!彼女の物語は、この表情から始まるの!」

「ドローンカメラ、上空から全体のフォーメーションを!この美しさを、ラグビーを知らない人にも見せてあげなきゃ!」

「日本のバーチャル広告、今日は日差しが強いから、もう一度カラー調整お願い!」


東京、渋谷。高層ビルの最上階。

壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群が、青白い光を放っている。無数のモニターが放つ光を浴びながら、本庄千夏は、ヘッドセット越しに、鋭い目で指示を飛ばす。

その場所は、彼女が立ち上げたメディアプロダクションの、まさに心臓部と言えるコントロールルーム。そして、渋谷の巨大な街頭ビジョンに映し出される、ブリスベンのスタジアム。その右下には、プロデューサーとして『CHINATSU』というクレジットが誇らしげに輝いている。

ラグビーのプレーヤーとしての活動を高校卒業とともに引退した千夏は、大学在学中に国内外のトップクリエイターや実業家たちとネットワークを築き上げた。そのサポートも受けつつ、大学中退と同時に自ら企業を立ち上げた彼女は、今やメディアミックスプロデューサーとして、『世界を変える100の顔』にその名を連ねる。

その、千夏が手掛けるこの中継は、もはや単なるスポーツメディアではない。多視点カメラ、選手の心拍数や走行距離のリアルタイム表示、そして何より、一人ひとりの選手の背景にある「物語」をエモーショナルに紡ぎ出す編集。それは、最高のエンターテインメントであり、千夏の主戦場である。


そして、あの光の粒たちも、それぞれの場所で、人生の「現在地」を紡ぎだしている。


清陵学園のグラウンド。

夕暮れのチャイムが鳴り響く中、高梨沙耶は、土にまみれたボールを一つ拾い上げた。

「まだだ!あと一本!」

少しだけ大人びたその声は、かつての武田監督を彷彿とさせる厳しさと、それ以上の愛情に満ちている。彼女は今、教師として、指導者として、新しい世代の魂に火を灯していた。


柔道場で白帯の子供たちを見つめる大野翠の傍らには、松葉杖が静かに立てかけられている。オリンピックへの道は、大学三年の時に負った不運な怪我で絶たれた。だが、彼女は今、指導者として、後進に「倒れる勇気」と「立ち上がる強さ」を教えていた。


市役所の窓口。

市民サービスの腕章をつけた小野寺美咲が、お年寄りの話を、腰をかがめて優しく聞いている。その穏やかな表情は、高校時代と少しも変わらない。

週末になると、彼女は地域の子供たちにボランティアでサッカーを教えている。


世界的スポーツメーカーの東京オフィス。

杉浦夏希が開発チームの見習いスタッフとして、プレゼンテーションのサポートとして、プロジェクターにスパイクの3Dモデルを映し出した。


インドの、乾いた赤土の村。

バックパックを背負った須藤珠美が、言葉も通じない現地の子供たちと、泥だらけになって楕円球を追いかけている。


アメリカの名門工科大学の研究室。

巨大なホワイトボードに書かれた難解な数式を前に思考を巡らせる宮下莉子。彼女の探求は、スポーツ科学の分野に、やがて革命を起こすだろう。


ロンドンの薄暗いライブハウス。

爆音の中、ミキシングコンソールに向かう金髪の日本人女性。ゆかりだ。彼女は今、気鋭のサウンドクリエイターとして、魂を震わせるビートを生み出していた。


週末のアトリエ。

純白の和紙に向かい、内田まりが巨大な筆を振るう。平日の彼女は、IT企業で働くごく普通の会社員。だが、SNSでは、静と動が調和したその生命力溢れる書が、若き書道家インフルエンサーとして、注目を集め始めていた。


私たちの三年間は、点じゃない。

今も、こうしてそれぞれの場所で、未来へと続く線となって、確かに繋がっているのだ。

「頑張って」

「信じてる」

あおいは、サポートメンバーとしての最後の仕事を終え、一人ひとりの背中を、気持ちを込めて叩いていく。

最後に、レイナ。

あおいは、何も言わずに、その背中を、他の誰よりも強く、そして長く両手で叩いた。

言葉はいらない。

レイナは、振り返らずに、ただ力強く頷いた。


伊藤舞を先頭に、サクラセブンズの選手たちが、地鳴りのような歓声が待つフィールドへと続く、光の中へと走り出していく。


あおいは、その最後尾を走るレイナの、背番号「4」の背中を見送る。

あの頃よりずっと頼もしくなった背中。


その背中が、高校時代のあの泥だらけのジャージを着た、親友の背中とゆっくりと重なる。



———みんな。ここまで来たよ。



あおいの脳裏に、全ての始まりとなった、あの日の声が、鮮やかに、力強く、響き渡った。




「清陵ォォォォォォォォ、ファイッッッッ!」



「「「「「「「「「オオオオオッッ!!」」」」」」」」」




セブンズ女子。Back to TRY

(了)




最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!!!

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