俺と立ち飲みとペンギンと
坂口衣美(エミ)
俺と立ち飲みとペンギンと
オウサマペンギンには貫禄がある。
どっしりとした重量感のある体。つやつやとした羽毛。力強いくちばしは意志の強さをあらわしているかのようだ。
それが、いる。俺の目の前に。
ここは京橋。東京ではない、大阪の京橋。あの、飲み屋が集まるちょっと雑然とした街だ。
西成ほどではないが、この街にも昼間っから、いや、午前中から暖簾を上げている店がちらほらとある。俺はその一軒にかよっていた。ちょっと小汚い、でも味のある立ち飲み屋。
俺の仕事は介護職。夜勤専属なので、退勤後の一杯はどうしてもこの時間になる。
その日も俺は、包容力たっぷりのママに会いがてら、ふらふらと店に行った。
「ケンちゃん、おつかれ」
「うい。チーさん来とる?」
「まだ来てへんなあ」
ママは常連が一杯目になにを頼むか、ちゃんと覚えている。シュワシュワと泡の立つハイボールが俺の前に置かれた。
まっぴるまから酒なんて、お天道様が見とるやろ。ばあちゃん、いつもじいちゃんに小言いってたっけなあ。俺はしみじみと思い出す。
俺はじいちゃんに似たんだな。昼酒は、うまい。
みずからの人生に感慨を抱いていると、視界の端にやたらボリュームのある客がいるのに気付いた。
なんだろう。違和感がある。体格がいいとかそういう問題じゃない。
しかもなんだか魚屋みたいなにおいがする。
まあ、ひとはひと、いろんな客がいるのも立ち飲み屋の面白さだ。
俺は仕事の疲れを癒すためにグイグイとハイボールを飲む。いやあ、うまいなあ。
「ママ、マグロのブツ」
「あいあい」
ここは天国ではないとしても、それに類するなにかだ。ママはなんだか聖母マリアに似ている気がする。
「阪神勝たんかなあ」
「最近、故障つづきやでえ」
夜勤で硬くこわばっていた神経がほぐれていく。やれやれ、また一日を生き延びた。
「店員さん、私は芋焼酎の水割りを注文する」
ん? と俺は思った。なんだか外国人みたいな喋りかただったからだ。
声がしたほうを見ると、そう、そこにいたのだ。ペンギンが。
そいつはでかくて、目線は俺の肩くらいだった。なんだ、どうした、マスコットキャラを導入するような店ではなかったはずだ。
俺はカウンターに向き直り、じっくりとハイボールを味わった。口に広がる苦み、はじける炭酸。そしてふたたびそいつを見つめる。
あきらかに、ペンギンであった。
「なあママ……なんかペンギンおるような気いするんやけど」
聖母マリア似のママは怪訝そうな顔をした。
「なに言うてんの」
疲れていたせいで、酔いの回りが早いのかな。俺はひとりで首を傾げた。
「ケンちゃん、マグロ」
「さんくす」
ママはカウンターのなかでくるくると働いている。あんまり邪魔しちゃ悪いな。俺はおとなしくマグロを食べた。
しかし、気になる。ちらちらと横目でうかがっていると、相手もそれがわかったらしい。くちばしがぱかっと開いて、そこから言葉が飛び出した。
「君は人生についてどう思う?」
「は?」
そうか、俺は酔ったのではなく夢を見ている。そうでなければペンギンが立ち飲み屋で話しかけてくるわけがない。
ママはあいかわらずにこにこしてへべれけのおっちゃんの相手をしている。うーん、結婚するならああいう穏やかな女性がいいな。
グイっとハイボールを飲んで、俺はペンギンに言う。
「まあ、なんというか、苦あれば楽ありですね」
「もっともだ」
ペンギンは手、というか翼、羽……? とにかく体の両側についている突起でジョッキをはさみ、その中身をくちばしに流し込んだ。
そしてため息のようなものをついてぼやく。
「水族館勤務とは、これほど精神的疲労を感じるものだとは思っていなかった。ストレスがたまる。人生の苦を、まとめて体感しているようだよ」
へえ、このペンギンは水族館で働いているのか。俺の夢も、なかなか面白いじゃないか。
ほろ酔い加減になってきた俺は、ペンギンの話に乗ることにした。
「水族館で、なにしてるんです」
よく見れば、ペンギンの足元にはビール瓶の空きケースがある。そいつはその上に立って水割りを飲んでいるのだ。
「見てわからないだろうか。私はペンギンだ。水槽のなかに展示されている」
うんうん、そうだよなあ。ペンギン、人気あるもんなあ。
「プールで泳いだりするんですか」
「泳ぎたいときは、泳ぐよ」
そのとき、ドッと店内が沸いた。店の片隅に設置されたテレビで、空に飛んでいく白球が映し出されている。
「あのボールのように、自由になりたいものだ」
ペンギンは遠い目をしてつぶやく。俺も心からうなずいた。
「自由って、なんなんですかねえ」
いつのまにかハイボールは空だ。俺はママにおかわりを頼む。
「人生とは、自由であるべき……私はそんな青臭いことを考えていた時期があったよ」
そういえば、俺もバンドマンになるって信じてたっけ。ドラムで食ってくんだって、本気で思ってた。
でもなあ。そんなうまいこといくやつなんてほんのひとつまみなんだ。俺はひとつまみに入れなかった。
センスが足りなかったのか、技術か、努力か。はたまたコネか、運か。
とにかく俺は夢をあきらめて介護の職に就いた。人手不足で就職口はいくらでもあったし、なにより、お年寄りの相手はそんなに嫌じゃなかった。
ばあちゃん、最後まで強気だったなあ。入院してからも、健太郎、納得いくまでやれ、あきらめんなって言ってた。葬式んとき、死化粧した顔はびっくりするぐらい綺麗だったっけ。
「人生は夢。だとしてもこれほど現実感があるなら、それはもう夢ではないのではないか?」
俺の隣でペンギンが言う。
ほんとうに、蝶になったか、蝶が夢を見ているのか、自分はいま、目覚めているのか、わからない。
それでもハイボールはうまいし、ママは優しい。
人生はうたかたの夢。しかし、俺たちはそこで生きている。
また客たちが歓声を上げる。画面のなかで、選手がガッツポーズをしている。
夢に手の届いたひとつまみのものたち。妬ましくないわけではない。しかし、それは俺の人生ではない。
夜中じゅう働き、お天道様の下で酒を飲む。まあ、これはこれで悪くない。
苦楽あわせてプラマイゼロ。そんな感じで終わることができればいい。
俺はジョッキを取り上げてペンギンに言う。
「夢を見るなら楽しく見ましょ。人生なら、ほどほどに」
ペンギンもジョッキを掲げる。
「そうだな。酒と同じだ」
そして俺たちはそっと声を合わせる。
「かんぱあい」
俺と立ち飲みとペンギンと 坂口衣美(エミ) @sakagutiemi
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