ルーズソックスの境界線
エスプレッソ
ルーズソックスの境界線
朝の教室は、まだほとんど誰もいなかった。
それでも空気の中には、昨日の残像みたいな匂いが沈んでいて、息をすると喉にひっかかった。
人の輪郭は、うまく掴めない。
みんな、黒い服の柱みたいに、席に刺さってるだけで、形が曖昧だ。
表情も声も、ただの“在り方”のようにぼやけて見える。
私はいつもそうだ。名前がないものを、どうにも認識できない。
靴を鳴らしながら前の席に着く。ルーズソックスが、ずるっと落ちる音がした。
たるん、と音がした気がして見下ろす。そこにあるのは白い布のかたまり。
昨日より少しだけ、足首から浮いてる気がする。
ふと、何かが“こちら”を見た気配がした。
「……それ、今日も履いてきたんだ」
声が飛んできた瞬間、その子の輪郭が急に立ち上がった。
はじめて、“他人”がそこにいることを理解する。
目の端で認識していた何かが、ようやく“ひと”になったような感じ。
輪郭の内側に、青っぽい色が滲んで、髪の黒さだけがくっきりと浮いた。
「あ、うん。なんか、いいでしょ」
自分の声が一拍遅れて喉から出る。相手の声を聞くまで、何を言うか決まっていなかった。
言葉を投げ返すことが、会話っていう行為なら、私はそれを覚えたての動作でなぞるしかない。
彼女は、私の足元を見ていた。目線の先にあるのは、白くふくらんだソックス。
ぐしゃっとした形。柔らかくて、でもちょっとだけ主張の強い輪郭。
「懐かしいっていうか……なんで?」
「え、かわいくない?」
私はそう言って笑った。
笑い方が変じゃないといいと思ったけど、すぐにまた彼女の輪郭が薄れていく気がして、
もう一度なにか言葉を足したくなった。
「足元がふわっとしてると、落ち着くっていうか」
嘘ではなかった。
ふわふわのものは、自分の輪郭をごまかしてくれる。
他のものと混ざっていても気にならない。そういう形が、好きだと思った。
「そっか。……うん。あんまり、見ないから」
それっきり、彼女の声はまた教室の雑音のなかに沈んでいった。
その瞬間、青い色も輪郭も、すこしずつ薄れていった。
まるで彼女という存在が、声と一緒に霧のなかに戻っていくみたいだった。
私はひとりで、机の端を指でなぞった。
木目は細かくて、たぶん人工のやつだ。そこだけは、やけに触り心地がはっきりしている。
◇
たとえば、“ちょっと変わってる子”っていうのは、どのクラスにもひとりはいる。
空気が読めないとか、声がやたら大きいとか、笑いのツボがずれてるとか。
でも彼女は、そのどれとも違ってた。
最初に声をかけたのは、単に隣の席だったから。
ルーズソックスなんて見たの、中学生のときに読んだ雑誌の特集以来で、なんか懐かしくて。
それだけのはずだったのに、彼女がこちらを振り返った瞬間、一瞬だけ“色が変わった”ような気がした。
目が合っただけで、なんとなく吸い寄せられるような、でも、どこにも届かない感じ。
向こうはニコッと笑って、「かわいくない?」って言ったけど、
それが“普通の会話”にはまってなかった。
返す言葉にちょっと悩む。意味はわかるのに、意味がわからない感じ。
たぶん、ずれてるのは言葉じゃなくて、距離だった。
話すとき、彼女はちょっと近すぎる。
目線とか、声のトーンとか、あとは……間?
全部がほんの少しずつ“詰まって”いて、こっちの呼吸が浅くなる。
別に嫌いじゃない。でも、好きとも違う。
というか、どういう位置に置いていいかわからない。
遠すぎると逆に怖いし、近づきすぎると自分がどこかにいってしまいそう。
今日の昼休み、うしろの席の沙月が「ねえ、あの子、ちょっとやばくない?」って言ってた。
“やばい”って、便利な言葉だなと思った。
説明しきれない違和感を、ぺたりと貼るための言葉。
でも私は、あの子のソックスが白くてぐしゃってしてるのを見るたびに、
自分の足首がすこし曖昧になるような気がしてた。
それが“やばい”ってことなら、きっとその通りなんだと思う。
◇
相手の目を見てうなずくのは、自然なことだと思っていた。
言葉を返すときは、一度だけ間をあけて、
声の高さは、相手が使った範囲から逸れないように調整する。
話すテンポも、語尾の形も、笑い方も。
全部、それまでに聞いた会話のなかから組み立てた。
「この場面での“正しい返し”はこう」っていうサンプルが、たくさん蓄積されてる。
だから私は、間違えないように応える。
ちゃんと“人と関わる”って、そういうことでしょ?
でも、きょうの会話はうまくいかなかった。
「……ほんとに、そう思って言ってる?」
そう言われた瞬間、彼女の輪郭がぴたりと固まった。
すごく、色が濃かった。
まるで、私の言葉が“違う音域”に届いてしまったみたいに。
「うん。だって、それがいちばん正しいと思うから」
私は、表情も声の角度も完璧だったはずだ。
彼女の言ったことに共感して、それを認めて、それ以上踏み込まない範囲で“寄り添う”。
その構文は、たしか昨日も誰かが使ってた。
でも彼女は笑わなかった。
表情を動かさないまま、ちょっとだけ引いた。
「……なんか、話してて疲れる」
小さな声だったけど、聞こえた。
私は、その理由がわからなかった。
彼女が何を求めていて、何を言ってほしかったのかは、
会話の流れや前後の表情からおそらく推定できていた。
だから、私はそれを選んで言った。
最大公約数的な、優しさの形で。
でも、だめだったらしい。
不自然だった?
私は「自然」という言葉がよくわからない。
誰もが同じような言葉を使って、同じような表情をして、
それが“自然”なら、私はずっとそれを模倣している。
他の誰より、正確に。
なのに、「それ、本心じゃないでしょ」と言われることがある。
“本心”というものが、たぶんこの社会には存在する。
でもそれは、言葉や表情のデータからは抽出できないらしい。
私は机の下で、ルーズソックスのたるみを指でつまんだ。
そこだけ柔らかくて、すこし湿っていた。
ふわふわしていて、形がない。
でも、そういう曖昧さのなかに、ほんとうの“距離”があるのかもしれない。
私はまた、誰かを疲れさせてしまった。
◇
「マジ卍」と言ったとき、誰も笑わなかった。
以前は、それでなんとなく空気が軽くなっていた気がした。
場が揺れて、目線が集まって、私は“そこにいる”ことが許されていた。
でも今日は、その言葉が教室の壁にぶつかって、落ちた音まで聞こえたような気がした。
空気の粒子が、私の周りだけすこし荒れている。
「最近の言い方じゃないよね、それ」
誰かが小さく言った。
たしかにそれはそうだった。
でも、“今”を構成する言葉たちは、昨日と明日で構文が違いすぎて、私はうまくキャッチアップできなかった。
古いもののほうが、むしろ輪郭がはっきりしていて、模倣しやすい。
だから、私はそっちを選んでいた。
だけど、ズレは積もっていく。
“あたしっぽいもの”を守ろうとするほど、それが“あたしじゃない”ことを教えてくる。
今日は、リップの色も、ちょっと濃すぎたかもしれない。
シャドウも、流行りじゃないって誰かが言ってた。
でも、私の中でギャルはこうだった。
ちょっとケバくて、でかくて、足元がふわっとしてる存在。
「最近あの子さ、キャラ作ってるっていうか、無理してない?」
また声が聞こえた。
私は耳をふさがなかった。
その代わり、心のなかで音を消す方法を試していた。
ソックスの折り返しを直す。
ぎゅっと巻いた白い布のなかに、なにか意味があるような気がして。
この形を履いていれば、私は“誰かっぽく”なれる。
その誰かが本当に存在したのか、私は知らない。
ただ、“それっぽさ”にしか、私の形はなかった。
真似る。
近づく。
馴染む。
その繰り返しのなかで、私は“自然”というものに触れようとしてきた。
でも、最近、その輪郭すらぼやけてきた。
みんなの声のなかに、私の居場所が含まれていないのが、わかるようになってきた。
自分だけ、形のないものをなぞっている気がする。
誰かの線を借りて、そこにいるだけ。
だから、ちょっと揺れるだけで、輪郭が取れてしまう。
私はまた、足元を見下ろした。
ルーズソックスのたるみが、いつもより深く沈んでいた。
紺色のソックスは、折りたたんだまま鞄の底にあった。
昨日、ふと思いついて買ったやつ。
制服売り場の棚の一番手前、誰もが履いている“正しい長さ”のやつ。
鏡の前で、白いルーズを脱いだ。
足首が急に寒くなった。
でも、それ以上に、見慣れなさが足を突き刺した。
肌がむき出しになると、自分が“ひとつの形”を持っていることに、あらためて気づく。
くるぶしの高さ。アキレス腱の細さ。左右の非対称。
そういう全部が、「誰かじゃない“私”」を映していた。
紺ソックスを履こうとする。
けれど、足が途中で止まった。
きゅっと締めつけられる感覚が、違和感だった。
正確に言えば、似合わないのではなく、自分がその色を持てていない感じ。
私は誰かに合わせたくてここにいる。
人間の輪郭に沿って、自然に振る舞いたくて、模倣を続けてきた。
でも、今履こうとしているこの布は、“隣にいる誰かの形”であって、
“私”の境界線じゃない。
それが、はっきりわかった。
「履かなくていいんじゃない?」
背中越しに声がした気がした。
気のせいかもしれない。幻聴かもしれない。
でも、そう言われたような気がした。
私はそっとソックスを畳んで、鞄に戻した。
そして、また、ルーズソックスを取り上げた。
くたっとしてて、頼りなくて、でも、自分の輪郭を溶かしてくれる形。
あれでいい。
あれが、私のままでいられるかたちだ。
教室に戻ると、横の席の子がちらっとこっちを見た。
何も言わなかった。
でも、目が合った一瞬だけ、輪郭がふっと浮かんで、
中に、昨日よりも少しやわらかい色があった。
私はただ、笑った。
あまり上手じゃない笑い方で。
◇
昼下がりの教室は、日差しで輪郭が溶けていた。
机の並びも、音も、誰かの名前も、ゆるやかに混ざって遠くなっていく。
私はひとりで窓のそばにいた。
ルーズソックスのたるみを指で整える。
足首が、また少し軽くなった。
白い布があることで、自分の形が少しぼやけてくれる気がする。
それが、ちょうどいい。
誰かとわかりあうって、どういうことだろう。
輪郭を合わせること? 距離をなくすこと?
それとも、触れないまま、そばに立ち続けること?
たぶん、私の生まれたところでは、そういう問いがなかった。
名前も、体も、形も、分かたれていなかったから。
私たちは常にひとつで、誰かの記憶はすぐに“私”になったし、
感情も知識も、線引きなく共有されていた。
でもこの星では、誰もが輪郭を持っていて、
その線を越えることに、とても敏感だった。
最初は、それが不便だと思った。
話しかけても伝わらないし、ふれてもすれ違う。
でも今は、その“伝わらなさ”の中に、何かがある気がしている。
私は彼らになれない。
どれだけ真似ても、この星の言葉で話しても、笑い方を覚えても、
私の輪郭は、いつも少しずれていた。
でも、わからないままでも、近くにいることはできる。
名前がなくても、誰かを覚えることはできる。
それがこの世界での“理解”なのかもしれない。
ルーズソックスの折り返しが、左右で少し違っている。
でも、それでいいと思った。
完璧じゃなくても、今の私は“私”でいられる気がしたから。
窓の外でカラスが鳴いた。
あの黒い羽根の輪郭だけが、やけにくっきりしていた。
私は、今日もこの輪郭の中に、ひとつぶんの空間を保っている。
誰かとすれ違わないように、でも、離れすぎないように。
それを、“境界線”というらしい。
ルーズソックスの境界線 エスプレッソ @kimwipe-s200
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