革の肌(ショートショート)
雨光
虚栄の器
昼下がりのホテルのラウンジ。磨き上げられた大理石のテーブルの上に、私は、さりげなく、あのハンドバッグを置いた。
イタリアの、名の知れた職人が、私のためにだけ作った、一点物。
その、艶やかな黒い革の肌を、ママ友たちの、羨望と、かすかな嫉妬の混じり合った視線が、まるで、愛撫のように、撫でていく。
私は、その視線を、全身に浴びながら、心の中で、彼女たちを、静かに、見下していた。
夫の稼ぎで手に入れた、このタワーマンションの部屋も、息子の通う、名門の私立小学校も、そして、このバッグも。
すべてが、私という人間の価値を、証明するための、美しい舞台装置であった。
その日からだ。
私の、完璧な共犯者であったはずの、あのバッグが、奇妙な意志を持ち始めたのは。
夜、上質な絹の裏地を張った、クローゼットの棚に置いたはずのバッグが、朝、目覚めると、私の枕元に、移動しているのだ。
まるで、眠る私の顔を、夜通し、見守っていたかのように。
そして、その、滑らかな革に指で触れると、時折、それが、人間の、生温かい、しっとりとした皮膚のように、感じられることがあった。
バッグの、冷たいはずの、白金の留め具が、私の指先の下で、とくん、と、微かに、脈打っているような気さえした。
ある日、公園のベンチで、いつものように、砂場で遊ぶ、凡庸な子供たちと、その母親たちの姿を、値踏みするように眺めていると、バッグの中から、声がした。
私の声ではない。
もっと、低く、落ち着いた、それでいて、どこか嘲るような響きを持った、女の声。
『つまらない女たちですこと』
その囁きは、私の、心の奥底にある、黒い本音を、そのまま、掬い取って、音にしたかのようであった。
私は、恐怖よりも先に、歓喜を覚えた。
このバッグには、私と同じ、気高い、孤高の魂が、宿っているのだ。
もはや、これは、ただのモノではない。
私の、唯一の、理解者。
私の、美しい、共犯者。
私は、どこへ行くにも、何をするにも、そのバッグを手放せなくなった。
食事の時も、眠る時も、私は、それを、まるで、赤子のように、抱きしめていた。
昨夜、夫が、怪訝な顔で、私に言った。
「おい、最近、君は、少しおかしいじゃないか。いつも、そのバッグを、抱きしめて……気味が悪い」
その、無神経な言葉を聞いた、瞬間。
私の腕の中のバッグから、はっきりとした、氷のような、嫉妬に満ちた声が、響いたのだ。
『この男が、邪魔ですわね』
私は、その声に、強く、頷いていた。
そうだ。夫の稼ぐ金は、必要だ。
しかし、この、私の気高い精神を、このバッグの魂を、理解しようともしない、この鈍感な男は、もはや、邪魔な存在でしかない。
バッグの、革の持ち手が、私の腕に、まるで、蔦が絡みつくように、じっとりと、巻き付いてくる。
その感触は、痛みではなく、痺れるような、甘美な快感であった。
翌朝、私は、リビングの、柔らかなソファの上で、一人、目を覚ました。
夫の姿は、部屋のどこにも、見当たらなかった。
ただ、床の上に、彼が昨日、着ていたはずの、高級な仕立てのスーツだけが、まるで、蝉の抜け殻のように、くたりと、落ちている。
私は、自分の腕を見た。
あのバッグが、昨夜よりも、さらに深く、私の皮膚にくい込むように、癒着している。
もはや、どちらが、本体なのか、分からない。バッグの、美しい黒い革の模様が、私の腕の皮膚の上に、生まれつきの、痣のように、静かに、広がっていた。
私は、ゆっくりと、姿見の前に、立った。
鏡に映る私の顔は、いつになく、血色が良く、自信に満ち、妖しいほどに、美しかった。
そして、私の手には、あのバッグが、まるで、私の体の一部として、そこから、生えてきたかのように、ぴったりと、収まっている。
私は、その、鏡の中の、完璧な「私」の姿を、しばらく、うっとりと、見つめていた。
革の肌(ショートショート) 雨光 @yuko718
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