第2話 空色と橙霞の日常 その二
冬の朝は、太陽がまだ完全に昇りきっておらず、空は灰色がかった薄いヴェールのようなものに覆われていた。ひんやりとした澄んだ空気を深く吸い込むと、鼻の奥がツンとする。
街はまだ静まり返っていて、風が吹き抜けるたびに「ヒュウウ」と冬特有の音が響き渡っていた。
汐凪が作ってくれた「妹の愛情お弁当」を丁寧にバッグへしまい、僕はゆっくりと玄関を出た。後ろで汐凪がカギを閉めたかと思うと、すぐに駆け足で追いついてきて、自然な仕草で僕の左手を握ってきた。
霜に覆われた白い道を踏みしめながら、指先が触れ合うその温もりを感じる。
ふと横を見ると、汐凪は厚手のマフラーを巻き、しっかりと防寒してはいるものの、寒さに少し震えていた。僕は彼女の小さな右手をギュッと握り直しながら、言った。
「気をつけてね。風邪なんかひかないように。」
それから、冬の風に揺れる汐凪の髪と、彼女の中学生らしからぬ小柄な身体を見て、思わずつぶやいた。
「...体、ずっと弱かったしさ。」
案の定、汐凪はぷくっと頬を膨らませて、むすっとした表情で僕を見上げた。その姿は、まるで逆撫でされたネコみたいで。
「もうっ、お兄ちゃん...あたし、もう子どもじゃないんだから!」
そう言いながら、汐凪は空いている左手でボディービルダーのポーズをとってみせる。そして、ちょっと得意げに続けた。
「見てよこの筋肉、今のあたしはすっごく元気なんだから。今はね、毎朝、お兄ちゃんの世話をする番なんだよ?」
片手で僕と手をつなぎ、もう片方でポーズを決めるという妙な姿に思わず笑みがこぼれる。真剣にやるなら両手でやればいいのに、と思いつつ、彼女のまだ華奢な体つきを見ていた。
でも、確かに今の汐凪は、かつての病弱で寝てばかりだった頃の彼女とはまるで違う。
頼れる妹に成長してくれたんだなぁと、誇らしい気持ちが胸に広がる。
....あまりにもしっかりしてきたから、いつかお兄ちゃんがいなくても平気になる日が来るんじゃないか、そんなことまで考えてしまった。
三つ目の交差点まで来たところで、僕は汐凪の手をそっと離した。僕の高校は左に、汐凪の中学は右にある。
頭を撫でて、いくつかのお決まりの注意を言った後、僕は学校へ向かって歩き出した。
灰色だった空が少しずつ明るさを取り戻していく。冬の薄い陽射しが雲の隙間から顔を覗かせ、柔らかい温もりを持って霜の降りた道に降り注ぐ。
その陽光に照らされた街路は、ほのかに輝く光沢を放ち、まるで世界全体が橙霞の粉で薄く覆われたようだった。
少しずつ暖かくなる日差しを感じながら、今日の予定を考える。放課後はまずファストフード店に寄って、それから新しくできたカフェへ。その後はコンビニに...と考えていたそのとき。
隣で、何かが僕の腕にすり寄ってきた。
えっ?と思って横を見ると、そこには笑顔を浮かべた少女の顔があった。
制服姿のその少女──金色のショートヘアが肩にかかり、電柱の間から差し込む陽射しが髪先に優しい金橙の輝きを与えていた。その色は彼女の髪色と溶け合い、美しくきらめいていた。
「...おはよう、鈴。」
名を鈴という美少女は、小さく頷きながらもじっと僕を見つめていた。彼女の瞳は橙霞のように輝き、笑みを湛えた視線は朝陽のようにあたたかい。
しばらく僕を見た後、安心したように視線を逸らし、軽やかな声で言った。
「おはよー、空〜。今日の調子、よさそうじゃん。」
「だって朝から可愛い妹に起こされちゃったしね。」
肩をすくめながら、僕も軽い調子で返す。
「えー、それって汐凪のこと?」
鈴は首をかしげながら、いたずらっぽく笑い、
「ほんっと仲いいよね、あの子と...羨ましいな〜。あたしもあんな可愛い妹欲しい!」
「いやいや、その羨ましがり方はおかしいでしょ...それに汐凪も、鈴には姉みたいに懐いてるじゃん。」
「それは違うの! あたしもね、毎朝誰かが待っててくれて、起こしてくれて、朝ごはん作ってくれるような...そんな生活してみたいのー!」
彼女のドラマチックな嘆きはスルーして、僕は歩調を早める。鈴はすぐに追いついてきて、自然な動作で僕の腕に自分の腕を絡ませた。僕は苦笑しながら、そっと腕を上げてほどこうとしたが、彼女は逆にぎゅっと抱きついてきたので断念した。
「それはちょっと...学校の子たちに見られたらからかわれるよ?」
「いいじゃん、どうせみんなあたしたちが仲良しの幼なじみだって知ってるんだし〜。」
鈴は微笑みながら、腕を離す気配もなく僕を見上げる。
「ていうかさ、汐凪の方を心配した方がいいかもよ? 他の人には彼女が空のお兄ちゃんの妹だって知られてないでしょ。中学生の美少女とベタベタしてるところ見られたら...通報されるよ〜?」
反論できずに黙っていると、彼女は勝ち誇ったように小さくフフンと鼻を鳴らして、そのまま僕に寄り添いながら歩いていった。
これが、僕の幼なじみ──結月鈴。学校でも人気の美少女で、明るくて優しくて、ある意味天使みたいな存在だ。
ちょっと天然で、妙なことをしでかすことも多いけど、なぜか僕との口喧嘩ではいつも勝つ。
きっと、僕たちがあまりに長い時間を一緒に過ごしてきたからだろう。
小学校の頃から家が隣で、汐凪が体調を崩していたときも、鈴は一緒になって面倒を見てくれた。中学も高校もずっと同じクラスで、ドジな彼女のフォローも日常茶飯事。
だからこそ、僕にとって鈴は、もはや家族のような存在だった。いつも一緒にいてくれて、本当に感謝している。
そんなことを考えていると、ふと、ある疑問が浮かんできた。
「ねぇ、鈴って最近寝坊してる? 昔はいつも家の前で汐凪と僕を待ってたじゃん。でも最近、汐凪が家を出た後に慌てて追いついてきてるよね。」
鈴は何も言わずに、僕のよく知っている、あのまぶしい笑顔を浮かべた。
「汐凪ちゃんとの仲が悪くなったんじゃないかって心配してるなら、心配いらないよ? 放課後は毎日、ちゃんと彼女と一緒にいるから。」
「いや、そういうことじゃなくて...」
「それより空、最近放課後ずっとバイトしてるでしょ?」
急に真剣な口調になって、橙霞色の瞳で僕を真っ直ぐに見つめてくる。僕はため息をついて、こくりと頷いた。
鈴は前を向きながら静かに言った。
「私、ドジなところはあるけど、バカじゃないからね。付き合いも長いし、空が何を考えてるかなんて、見ればすぐ分かるよ。」
「...付き合い?」
「その言い方はどうでもいいのっ。とにかく、最近の空は完全にバイト狂人だよ。夜遅くまで働いて、家に帰ってくるのも真夜中...違う?」
言い当てられて何も言えない僕を見て、鈴はさらに言葉を続ける。
「それでいて汐凪ちゃんは、朝ごはんやお弁当作るから夜は早く寝ちゃう。つまり、二人が一緒にいられるのは、朝のこの数十分だけだよね?もし、あたしがこの朝のひとときさえも汐凪ちゃんと奪い合うようなことをしたら、それって――あまりにも残酷すぎるよね。」
その声は、まるで冬の朝日に溶けていく霜のように優しかった。僕は何も言えずに、彼女の横顔を見つめた。灰白の雲の間から顔を出した陽の光が、空に淡く橙霞を塗るように広がっていく。
鈴の全身がその光に包まれ、柔らかな輝きを纏っていた。
....でも、ひとつだけ鈴が知らないことがある。
僕と汐凪の「一緒の時間」は、実は朝だけじゃない。
僕は偶然知ってしまったのだ。
時折、汐凪は夜中にぼんやりと僕の部屋へ来て、布団に潜り込み、僕を抱きしめたまま、再び眠る。そして朝が来ると、僕を起こすことなく静かに部屋を出ていくのだ。
...まあ、彼女に気づいてないふりをするつもりだけどね。
四色に染み渡る青空 @linbaiovo
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