第1話 空色と橙霞の日常 その一

 またこの夢だった。


 広大な湖面に浮かんでいるような感覚。湖水は空と同じように透明感のある空色をたたえているが、水中の景色はほとんど見えず、まるで何か、ぼんやりと不可視な「何か」に遮られているかのようだった。風も、音もなく、湖面は鏡のように滑らかで、雲一つない空を寸分違わず映し出していた。湖と空の間には、空色の薄霧がそっと包み込み、水彩がじんわり滲むように、境界をぼかしていた。それは夢そのもののように、はかなく、非現実にも思える。


 これは、そもそも夢なのだ──そう僕は思った。


 手を伸ばそうとしたが、一筋の波紋すら起こせなかった。夢の中の僕には、身体がないのかもしれない。視線を巡らせると、目に映るのは透き通っているのに静止している湖水だけ。僕以外、何もない。僕は湖と一体化していたのだ。


 あるいは..僕こそが湖そのものなのかもしれない。


 見上げると、水面の上には、湖と同じく果てしない淡青の空が広がっていた。湖と空があまりにも似ていて、視界の中でどこが湖でどこが空なのか、見分けがつかないほどだった。


 湖は空を映し、空は湖を覆い包む。互いに依存しているように見えるのに、深淵で隔たれている。ごく遠い無限の彼方で、かろうじて接するように交わる──それほどの距離。目の前の湖と空には、千里の隔たりがあり、触れ合うことは到底できない。


 ただ、そこに漂う空色の霧だけが、湖と空をかすかな絆で結びつけていた。


 まるで、僕と彼女のように。




 「..兄ちゃん..!」


 風鈴のように澄んだ声が、夢の奥底から響いてきて、徐々に僕を現実へと引き戻した。しかし身体はまるで重い何かに押しつぶされるように鈍く、浅い意識に留まっていた。しばらく意識を戻すことを躊躇い、ただ疲労の眠気に委ねようとした。


 「..お兄ちゃんっ!」


 耳元で、少し怒ったような甘え声が響き、いきなり目が覚めた。いやいやながら僕は目を開けると、顔のすぐそばにかわいらしい顔がいた。まるでライトノベルの定番シーンのようだ、と頭の中に浮かんだ。


 次の瞬間、思い出した。こいつは...確か俺の実妹だったはずだ。


 「...おはよう、汐凪。」


 僕の自慢の、整った顔立ちの妹──小林汐凪は、今僕の上に乗っていて、青いツインテールをふわりと揺らしながら、澄んだ空色の瞳で僕を見ていた。不満げな頬がわずかにふくれていた。


 怒っている姿など全く怖くない。むしろとても可愛らしい──そう思いながら、僕は寝床から逃れようと少しもぞもぞした。


 汐凪は、僕の顔に両手を伸ばした。すると、顔を伝わって全身に一瞬氷のような冷たさが走った。


 「あっ...つめたい...!」


 「だってお兄ちゃん、ずっと起きなかったんだもん。こんなに何回も呼んだのに..今朝はお兄ちゃんの大好物のうな丼作ったんだからね!」


 嗅覚も次第に目覚め、甘く香ばしいうなぎの匂いが鼻腔をくすぐった。汐凪の得意げな笑顔はまるで天使のようで、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。


 「朝からこんなに大きな魚肉ばかり食べるのは体に良くないよ..とはいえ、こんな可愛い妹が早朝から起こしてくれて、しかもこんな豪華な朝ごはんを作ってくれるなんて、幸せではあるけどさ。」


 汐凪は一瞬目を輝かせて、すぐに布団を跳ね飛ばして僕の胸に顔をうずめ、小さな体をぎゅっとくっつけて、甘えて擦り寄ってきた。


 まったく、この子はもう中学三年生なのに感情を隠せないなあ、簡単に読めてしまう、と僕は思った。


 とはいえ、汐凪がああして僕の前だけで見せるあどけない姿を、僕もちゃんとわかっている。外に出ると彼女は仔細に気を配り、しっかりと頼りがいのある妹であり、明るく成績優秀で才色兼備の美少女なのだ。


 そう、僕たち兄妹の関係はとても円満で。汐凪が完璧すぎるのか、それとも僕がこの可愛い妹を甘やかしすぎたのか、とにかく子どもの頃から喧嘩をしたこともなく、両親も僕たちの仲の良さには驚いていたくらいだ。


 僕たちは温かなベッドの上でしばらく寄り添っていたが、外から差し込む朝日の光が天井を染め始めていた。汐凪が腕時計をぱらりと見た。


 「...そろそろ起きないと、本当に遅刻しちゃうよ。」


 僕はため息をついて、ようやく寝床との格闘を諦めた。数秒遅れて、しかたなく欠伸をしながら身体を起こした。


 「そうだ、お兄ちゃん、毎朝のお約束の宿題もね〜」


 汐凪も身体を起こしたが、まだ僕の背に凭れていて、期待に満ちた目で僕を見上げた。僕は甘く笑い、手をそっと彼女の頭に置き、指先を柔らかな青髪に通わせ、額に軽くキスをした。


 汐凪は満足げにため息をつき、小さな体を丸めてまるで子猫のように縮こまった。僕もベッドの脇に置いてあった服にさっと袖を通し、汐凪と一緒に起き上がって顔を洗いに向かった。


 跳ねるように明るく飛び回る汐凪の後ろ姿を見て、僕は思わず額に手を当てた。普通に考えたら、この年頃の兄妹がこんなに親密なはずはない。でも、兄として妹に抱くべき感情とは何だろう? 妹が兄に抱くべき気持ちとは?


 そもそも、答えなどは本来、存在しないのかもしれない。すべての兄妹にはそれぞれ独自の関係性があるのだから。僕たちの関係も、これで「普通」なのだと、自分に言い聞かせた。なのに、その感情の本質については、僕は根本的に混乱している。


 ふと、僕は汐凪を見た。彼女が僕の視線に気づくと、すぐに笑顔がパァッと咲いた。その笑顔を見た瞬間、再び僕の脳裏に浮かんだ──


 あの空色の霧。


 ...それは「親情」だろうか?「依存」だろうか? それとも、他の「何か」なのだろうか?


 僕にはわからなかった。


 ただわかっているのは、空色が僕の心の中では「安心」と「優しさ」に最も近い色であり、しかし同時に最も僕を惑わせる色でもある、ということ。


 まるで、朝のうちに消え去らなかった霧のように、軽やかに見えても、それは呼吸のたびにそっと潜り込んでくるのだ。

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