3-2: 業務に、わずかばかりの緊張を添えて


 応接室の扉を閉めると、空気の層がひとつだけ薄くなった気がする。


 弥生のいる応接室の方はまだ涼しさのなかに柔らかい熱が残っている。人が座り、話し、息を整えた痕跡なのだろう。


 それに対してこちらの廊下は、図書館が図書館として回り続ける温度のままだ。静謐で居て厳格な佇まいのようなものがそこはかとなく広がっているような、そんな雰囲気。一般開放されているロビーや閲覧室とは全く違う空間のように思えてしまうから不思議だった。


「よしっ。じゃー、行きましょうか」


 はるかは軽く手首を振り、それに促されるまま麻衣は歩みを進めていく。麻衣の後ろにぴったりとついたはるかの足取りは明らかに軽快なはずなのだが、とても静かだ。まるで猫のようなフットワークだった。


 職員区画へ続く扉の前に立ち、麻衣は軽く深呼吸をする。人見知りな自分をどうにか頭の中から追いやりながら相談内容を聞いているときとはまた違ったタイプの緊張感だ。


「……えっと、まずは」


 麻衣は小さく息を吸う。


 やることは分かっている。分かっているからこそ、あえて声に出して確認したくなる。


 これは怖さではなく、あくまでも確認のため。きちんとした方法論の備わっている作業に対してその手順が合っているかどうかの確認を、どこかの見えない場所に提出するための言葉のようなものだった。


「まずは所蔵の詳細を、職員側の画面で確認。場所、利用制限、付随する注記。次に、状態……貸出じゃなくて、館内閲覧扱いのままなのか、保管庫の出納が必要なのか……」


「うん、そうそう。いい感じよー」


 はるかは笑いながら、扉の横の読み取り部にカードを当てた。短い電子音がして、ぱちんと錠が外れる。第一段階完了。


 端末室は静かな機械の匂いとさらに冷えている感覚がある。春先にもこの辺りには来たことがあるが、夏でもここまで涼しいのかと来る度に麻衣は思っていた。空調の効いた図書館の舞台裏、その涼しさは夏の朝の気配を一気に遠ざける。


 麻衣は首から下げた名札を指で整えて、背筋を伸ばした。


「マイちゃん、緊張しなくていいのよ」


「してませんよぉ」


「ほんとぉ?」


「……してませんってば」


「ふふ。してる顔」


「いじわるですねえ」


 はるかの声は羽根のように軽く、麻衣は負けたように口元を緩めた。こういうところで救われる。自分が仕事に呑まれそうになり息が詰まりそうになる前に、正しい呼吸法も教えてくれるのがこの上司だった。


「まぁまぁ、とりあえず座って座って」


「浜崎さんは?」


「ん? 私はコレがあるから」


 言いながらはるかはいつの間にか持って来ていた隣の端末用の椅子に座る。すらりと伸びた脚に、麻衣はオトナを感じていた。


「じゃあ、検索。弥生さんの画面に出てた所蔵表示は覚えてるかしら?」


「ええっと……。中央、保管庫(特)。館内閲覧、要申請。注記に寄贈、です」


「ばっちり。請求記号は、330番台だったわね」


「はい」


 麻衣は頷きながら、ゆっくりとひとつひとつ確かめるようにキーボードを叩いていく。講義レポートなどの執筆ではもっと早く入力はできるタイプなのだが、この端末室のコンソール画面の得も言われぬ圧力のせいだろう。やはり慎重にはなる。


 入力欄に弥生が見せた書名の一部と著者名、その候補がいくつか並んでいく。


 画面の中には見慣れた文字列が並んでいる。


 ――その一番端に、いつもは気にしない銘板のような表示があった。


「……出ました。これですか?」


 はるかは麻衣の画面を覗き込み、その指先でなぞるようにして確認する。


「うん、その通りよ。ここからが『私たちの作業』になるわね」


「はいっ」


 意気込んだような麻衣の返事にはるかは微笑む。


「所蔵自体はある。バーコードも振られてる。状態も『所在あり』になっていて、ここまでは全然問題無し。……なんだけど、っていう話よね。最後まで問題が無ければ、この相談は持ち込まれなかったわけだからね」


「そうですね」


「では、何が問題なのかという話だけど」


 はるかはモニターをなぞる指を止めた。


「……ここ。よく見てほしいのだけど、利用区分のところが古いままなのよね」


「古い……?」


「たとえばね」


 待ってましたとばかりにはるかは続ける。


「昔は『保管庫扱い』で閲覧申請の紙を出してから職員が出納してた本があって、今は運用が変わってるのに、その時のままの表示だけが残ってることがあるの。もちろんその場所によっては違うんだけど、この書籍はこの中央図書館内にある」


 はるかは言いかけて、少しだけ語尾を柔らかくした。


「ということは、少なくとも、今の麻衣ちゃんたちの手順で持って来ることができる」


《そう、扉は閉まっていない。ただ少し貼り紙が古いだけなんだ》


 さっきと同じような囁き声が、端末室の冷気の中でまた響いたように、麻衣には聞こえた。


 思わず麻衣は作業の指を止める。


 誰の声? どこから?


 はるかは麻衣の沈黙を迷いではなく、確認として受け取ったように頷いた。


「マイちゃん、大丈夫よ。次の手順、ゆっくりで良いから、声に出して言ってみて」


「はい。……えっと。まず、利用者さんの学生証をお預かりして、閲覧理由の簡単な記入。次に、こちらで出納依頼の登録――もしくは、紙で出納票を回してる場合はそれを作って。あとは、保管庫から現物を取り出して、閲覧簿に控える。返却も記録して……」


「うん、完璧。イイ感じよー」


 はるかが軽く拍手をする。実際に音は出さない寸止めの拍手だが、それでも充分麻衣には伝わった。


「じゃあ今回は、まず『申請』の形を整えましょうか」


 はるかは端末の横にある引き出しを開ける。中にはクリップ、ペン、そして薄い紙の束が入っている。


 麻衣がその紙に視線を落とした瞬間。


《鍵は紙のほうに残っているよ》


 はっきりと聞こえた。紙の擦れる音みたいに、短く。


「……これ、出納票ですか?」


 麻衣が訊くと、はるかは微笑む。


「そう。電子システムで完結できるときもあるけど、場合によっては『手渡し』のほうが早い時もあるのよね。保管庫の担当が今、奥の整理に入ってるならなおさらね」


「……なるほど」


 紙のほうに鍵が残っている。


 つまり、そういうことらしい。


 麻衣は弥生から預かった学生証番号を、はるかの指示どおりに記入する。書名、請求記号、必要な章、閲覧希望の時間帯。字は丁寧に、でも迷わない速度で。慎重になりすぎるとかえって緊張して文字が震えてしまうというのは、麻衣の今までの実体験に基づいていうr。


「……書けました」


「うん。ホント、字キレイよね。読みやすい文字。……何て言うんだろ、マイちゃんの字はしっかりとした芯のある文字ね」


 はるかが言うと麻衣は少しだけ頬を赤くした。褒められるのは慣れないらしい。


「次。保管庫の場所、コンソール画面の『所蔵棚』の情報を見て。そして、フロアと棚記号をチェック」


「えっと……地下の閉架、コンパクト書架。棚記号は……メモしておきます」


「うん。じゃ、迎えに行こ」


 はるかは紙を軽く持ち上げ、立ち上がった。が、歩みは進めなかった。


「そうだ、行く前にひとつだけ質問ね、麻衣ちゃん」


「はい」


「もし現物が傷みやすい本だったら、どうする?」


「……閲覧方法を調整します。書見台を使うとか、無理に開かないとか、複写も範囲と方法を相談して」


「うん。正解。大事なのは『触れさせない』ことじゃなくて、『触れられるための手解きをする』ことだからね」




     ○




 保管庫へ続く通路は明るさが一段落ちる。窓のない空間の光。だがその静けさが書籍として紡がれてきた歴史の健康を守っているとも言える。


 コンパクト書架の間はすれ違えるだけの幅しかない。はるかが慣れた手つきでハンドルを回し通路を開けていく。金属の小さな唸りが遠慮がちに響いた。


「請求記号はここからね」


 はるかが目で指す。麻衣は頷き、背表紙の並びを追う。


 330番台。経済。


 濃紺、黒、くすんだ茶色。金文字。寄贈印のあるものも混ざる。


《焦ってはいけないよ》


 麻衣はその声が聞こえてきた棚に向かって、小さく心の中で呼びかける。


「(『鍵』って誰のこと?)」


 返事は直接聞こえてはこなかったが、その棚の奥から、空気だけがほんの少しだけこちらを呼んだ気配を感じた。


「……あ、これ」


 麻衣の指先が止まった。背表紙の下部に、寄贈印と小さなラベル。


 紙の帯のようなものが挟まっている。


 古い、薄いカード。


 貸出カードにも似た、栞にも似た紙片。


「見つけた?」


「はい。……でも、これ」


 麻衣がカードをそっと抜くと、紙の縁がさらりと鳴った。


《その札、ようやく外してくれるのね》


 確かに聞こえた。嬉しそうというより、安堵の声。


「……貼り紙が古いだけ、って」


 麻衣が呟くと、浜崎は「でしょ」と笑った。


「たぶん昔の運用のときに、手続きを示すカードが挟まったままになってたのね。こういうの、あるのよ。システムが更新されても、『現物』が置いていかれることって」


「でも、現物が置いていかれるからこそ……見つけられることもあるんですね」


「あら。マイちゃん、なかなかの詩人ね」


 麻衣は本を両手で支える。無理に引き抜かない。その背を守るように、少しだけ角度をつける。わずかな重さだが、それが麻衣の腕には『知の密度』として乗った。


「ミッション・コンプリートね」


「はいっ」


《私を待つのはどんな方かしら?》


「(必ずあなたを大事に扱ってくれそうな人です)」


 麻衣は声の主を抱えて歩き出す。


 冷えた通路の先に、応接室の静かな気配がある。


 その静けさの中で、今度はちゃんと――『読めるように守る』時間が始まる。



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