Voice.3 「閲覧停止の寄贈本」
3-1: 緊張を解すにはティータイム
テスト週間を終えた大学もいよいよ夏休みに入った。先々月の終わりからすでに暑くなっていたキャンパスは、完全に夏本番。木立を抜ける風は気持ちいいのに、ひとたび日向へ出れば、その効果はたちまち消える。
すっかり手に馴染んだ日傘を畳み、
国立H大学は麻衣にとっては実家最寄りの大学なので、一人暮らしの必要も無い。それゆえ里帰りなどの必要も無い。わりと自由な時間が作れるからこそ、今日も麻衣は大事な
「おはようございますー」
「おはよう麻衣ちゃん」
受付から笑顔を向けてくれる
そのままの流れで応接室の方へと顔を出してみれば、そこには人影があった。
「あ。おはようございまーす」
「あら、おはようマイちゃん」
はるかは湯呑の水面を一度だけのぞき込み、氷を箸で静かに回した。それから時計を見て、わざともう一口ゆっくり飲む――忙しいのは承知、それでも最初の一分は落とさない人だ。
「今日も早いわねー」
「いえいえ。朝のうちから図書館の中にいないと道中で倒れちゃいそうなので」
「わかるぅ」
言いながらはるかは冷えたお茶のグラスを傾ける。「あー、沁みるぅ」なんて言っているが、その気持ちが物凄く解る。麻衣もとにかく今は水分補給がしたかった。
「マイちゃんも飲むでしょー?」
「いただきます」
すっかり麻衣もお気に入りになったはるかお手製のお茶をぐいっと飲み干し、いつも通り冷房対策としての薄手のカーディガンを羽織り、名札を首からさげてスタンバイ完了。名札にはしっかりと『中央図書館お悩み相談室・室長』と記載されている。慣れなくてはいけないのかもしれないが、麻衣はこの室長の肩書きに全く慣れる気配がなかった。
「今日は棚の整理ですよね」
「うんっ。よろしくね。……あ、私も行くわ」
開館間もない中央図書館のエントランス脇は、まだ人の流れが薄い。返本台の脇で、麻衣とはるかは並んで配架を始める。カラカラと書架のキャスターが小さく響いた。
《……鍵は、なくしていないわよ》
ふいに、耳の奥でやわらかな囁きがした。いつもの――だが、少し違う気配を感じる。
「(鍵?)」
問い返そうとした瞬間、控えめな声が真正面から届いた。
「あっ、あの……! あっ、すみません……」
振り向くと、麻衣よりはいくつか年上のような、落ち着いた雰囲気の学生が立っていた。ファイルを胸に抱え、ゆっくりと言葉を選んでいる。思ったより自分の声が大きく響いてしまったことに恐縮してしまっているらしく、肩がぎゅっと堅くなっているように見えた。
「今ってご相談できますか?」
学生は小さく何度か呼吸を繰り返してから麻衣に訊いた。
名札を確認した上で訊いてきてるのはわかるが、それはかなり意を決したものだったらしい。その緊張が麻衣の方にも移ってきそうになるが、麻衣はそれをどうにかして撥ね除ける。ここでいっしょになって緊張してしまったら、相談室長の名折れだ。一応の意地はあった。
「はい。内容をうかがっても大丈夫ですか?」
どうにかして平静を装えば、学生は晴れやかな笑顔を見せてきた。
「ありがとうございます。経済史の調べ物で、特定の本を閲覧したかったんですが……。検索では出るのに、『保管庫/要申請』で止まってしまっているらしくて、どうしたら良いのかなと……」
学生はスマホの画面を差し出した。OPACの所蔵表示には「中央|保管庫(特)」「館内閲覧:要申請」の文字。
「確認しますね。……あっ、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「はい。
「穂積さんですね。私は、
「私は
猫のようなフットワーク。まるで無音。いつの間にか真後ろに来ていたはるかに気付かなかった麻衣は当然のように驚く。
「彼女の部下をやらせてもらってます」
「ちょっ、浜崎さんっ、そういう悪いウソは止めてくださいよっ」
「ふふふっ……」
弥生は思わずと言った感じで小さく笑った。図書館であることは考慮しようとしているようだが、その頬の持ち上がり方からすればもしかすると大笑いしていまいそうなのを我慢をしているのかもしれなかった。
「とにもかくにも、よろしくねー。ここだと立ち話になっちゃうから、応接室というか相談室の方へ行きましょう。……お茶はいかがかしら?」
「はい、いただきます」
ファイルの角を指で押さえる弥生の手つきは静かで、乱れがない。
これなら大丈夫そうだ――
《あの子は大丈夫。ページを急がせたりしない》
さっきの
○
応接室に入ると、外気よりもわずかに冷えた空気が額を撫でていく。全館冷房は効いているのだが、やはり広い場所と狭い場所を比べれば効き具合も変わるものだ。はるかお手製の琥珀色をしたお茶に冷やされたグラスもすぐに汗をかき始めていた。
「どうぞ、おかけください」
弥生は小さく「失礼します」と言いながら会釈をして、ファイルを膝の上に置きながらソファへと腰掛けた。その表紙には付箋が整然と並んでいる。細かな色分けが成されていてきちんとインデックス化もされていることも一目で分かるほどに整理されている。かなり几帳面なようだ。
「あの、えーっと……」
「だいじょうぶだいじょうぶ、慌てなくて。まずはね、一服してからでも大丈夫よ」
わたわたと話し始めようとする前にはるかがお茶のグラスを差し出す。何かを飲むことによるリラックス効果も然る事ながら、一息挟み入れることの意味の方が大きいと思っているからこその行動だった。
「……あっ、これ美味しいです」
「ふふふっ、ここに来てくれればいつでもお出しできるわよ」
ふわりと微笑む弥生に、麻衣もはるかも少しだけ安心したように顔を見合わせた。
「では、……ご相談について改めて教えてください」
弥生は麻衣の言葉に大きく頷く。先ほどまでの堅さは、もうなかった。
「その、端末検索をしたところ所蔵表示は出るのですが、いつも『保管庫(特)/館内閲覧:要申請』で止まってしまっているんですよね。請求記号は330番台で、注記として『寄贈』と……」
「確認しますね」
麻衣はOPACの画面構成を頭の中でなぞりながら、いつものように手書きメモを取る。
《扉は閉まってないわ。貼り紙が古いだけ》
が、一瞬だけその手が止まる。
ささやきが、紙の擦れる音のように耳朶をかすめていく。
誰なのだろう。今日この部屋には蔵書の姿は無いはずなのだが。
「閲覧の目的は経済史の調査とのことでしたが、その期日感は?」
「明日、ゼミの予備報告がありまして。該当章をきちんと当たりたいんです」
ならば時間に余裕があるとは言えないほどだ。しかし弥生の声に急き立てる色は全く無い。ただ必要な頁を必要な時間で読む覚悟が整っている人の声のように聞こえた。
「では学生証をお預かりします。そして、こちらに閲覧理由を本当に簡単で構いませんので。――そのうえで、一旦私たちは奥の端末室で経路を確認します。運用が現行なら、今日のうちにこちらで閲覧が可能です」
「ありがとうございます」
はるかが段取りを言い切ると、弥生は安堵の息をひとつ落とした。
「『保管庫(特)』の部分で少し引っかかるとすれば、申請様式が旧いまま残っている可能性が高いかしら」
はるかが椅子から立ち、名札を指先で整える。
「その場合どんな問題があるのでしょうか?」
「……そうですねえ。きっちりと営業準備が整っていて後は客が来るのを待つばかりと鍵を開けて居るのに、『準備中』の札を掲げたまま――と言ったところでしょうか」
《その通り。そして、その鍵は、紙のほうに残っているわ》
さっきよりはっきりとした声も聞こえてきて、麻衣は小さく頷いた。
「では、端末室へ向かわせていただきます。結果が出たらすぐ戻ります」
「わかりました、よろしくお願いしますっ」
ぺこりと頭を下げた弥生にはそのまま応接室で待機してもらうことにして、麻衣とはるかは出て行く――と見せかけて、はるかだけは顔だけを再び応接室に突っ込んだ
「……あ、お茶のお代わりはそこに置いておくので、セルフサービスでどーぞー」
「あははっ。じゃあお言葉に甘えます」
弥生が微笑む。しかしその目元には、読みに向かう人特有の透明な集中が灯っている。
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