第7話エピローグ。予感の代償とは
あれから、季節が一つ巡った。
テレビのニュースが、夏の終わりに起こった旅客機の緊急着陸事件を、最終的に「原因不明の複合的機体トラブル」として結論づけたのを、わたしは静かに見ていた。空港で起きた一時的なパニックも、今では人々の記憶から薄れ始めている。
真実を知っているのは、ごく僅かな人間だけ。
そして、その中心にいたわたしは、あの日を境に、世界から少しだけずれた場所を歩いているような感覚の中にいた。
秋の初め、我が家に一通の国際郵便が届いた。差出人の名前を見て、母が息を呑む。あの日、絶望的な顔で娘の元へ行こうとしていた、あの父親からだった。
封筒の中には、一枚の写真と、短い手紙が入っていた。
写真には、病院のベッドの上で、少しはにかみながらも力強くピースサインをする少女が写っている。彼女の胸には、手術の痕が生々しく残っていた。
『あの日、空港で足止めされた時は、全てが終わったと思いました。ですが、日本の警察と航空会社の方々の尽力で、奇跡的に手配された医療チャーター機で娘の元へ向かうことができました。手術は、本当にぎりぎりだったそうです』
手紙は、拙い日本語でそう綴られていた。
わたしの力が直接ジェット機を飛ばしたのか、それともわたしの願いがきっかけで、田中機長や刑事が動いてくれたのか。もう、どちらでもよかった。結果として、この少女の命は繋がったのだ。
『娘を救ってくれて、ありがとう』
その最後の一文を読んだ時、わたしの頬を、一筋の涙が伝った。それは安堵の涙なのか、それとも、この少女の未来を奪いかけた自分の罪に対する涙なのか、わからなかった。
わたしの日常は、表面的には何も変わらない。学校へ行き、友達と笑い、両親と食卓を囲む。
でも、わたしだけが知っている。あの日以来、わたしが払うことになった「代償」を。
時々、世界の色がふっと薄まることがある。鮮やかな赤色が、くすんだ灰色に見える。それは決まって、どこかで誰かが悲しい思いをしている時だった。テレビの向こうの事故。隣町の火事。友達の些細な失恋。わたしは、世界中の「悲しみ」に、強制的に接続されてしまうようになったのだ。
そして、あの「予感」は、消えるどころか、より鮮明になった。
横断歩道を渡ろうとする子供の数秒先に、猛スピードで角を曲がってくる車が見える。わたしは悲鳴を上げて子供の腕を掴み、事故を防ぐ。子供の母親に何度も頭を下げられながら、わたしは自分の心臓が氷のように冷えていくのを感じていた。
人を救うこともできる。でも、そのたびに、わたしは起こり得たはずの「最悪」を体験する。平穏な心は、もう二度と戻ってこない。望まない未来を、誰よりも先に知ってしまう。それが、わたしの予感の代償だった。
冬の晴れた日、わたしは父と母と一緒に、空港の展望デッキに来ていた。あの日以来、初めてのことだった。
「もう、飛行機は怖くないのか?」
父が、少し心配そうに尋ねる。わたしは首を横に振った。
「うん。苦手じゃないよ」
轟音と共に、一機の飛行機が空へと舞い上がっていく。その白い機体が、冬の青い空に吸い込まれていくのを、わたしはただじっと見つめていた。
怖いとか、乗りたいとか、そういう感情はもうなかった。
あれはただ、そこにある現実。そして、わたしが自分の力で変えてしまった、世界のひとかけら。
不意に、強い胸騒ぎがした。
今、空へ上がったあの飛行機。遠い国の、小さな空港で、何かトラブルが起きる。でも、それは悲劇にはならない。誰かが、気づくから。
わたしは、もう何も念じない。ただ、知っているだけ。
「どうしたの?」
わたしの表情の変化に気づいた母が、わたしの肩をそっと抱いた。父も、何も言わずに隣に立っている。二人は、わたしの秘密を共有し、共にその重荷を背負うという「代償」を、静かに受け入れてくれていた。
「ううん、なんでもない」
わたしは小さく微笑んで、空を見上げた。
わたしの予感は、もう二度と、わたしだけのものじゃなくなった。
それが、あの日の空がわたしに与えた、たったひとつの代償だった。
『予感』 志乃原七海 @09093495732p
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。『予感』の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます