第6話『最終話』
3階から聞こえてくる騒音は、徐々に激しさを増していた。ガラスの向こう側、エスカレーターを駆け上がっていく警察官たちの姿が見える。巨大な空港が、まるで一つの生き物のように、見えない敵を追い詰めているかのようだ。
父も母も、固唾をのんでその光景を見つめている。だが、わたしの心は、別の場所に囚われていた。
(違う……)
わたしの胸の内で、小さな声が響く。
(あの人は、犯人じゃないかもしれない)
根拠はない。でも、あの冷たい目を思い出すたびに、奇妙な違和感が胸をよぎるのだ。あの男の行動は、確かに怪しかった。でも、それは悪意や破壊衝動から来るものではなかったような気がしてならない。もっと別の、切羽詰まった何かに突き動かされていたような……。
「警部より入電!対象を確保!」
その時、会議室に残っていた若い警察官が、無線機を耳に当てながら叫んだ。
確保。その言葉に、父と母は安堵のため息をついた。ロビーの喧騒も、少しずつ落ち着きを取り戻し始めているように見える。
「よかった……」母が胸をなでおろす。
しかし、わたしの中の違和感は消えるどころか、さらに大きく膨れ上がっていた。
(違う。何かが、根本的に間違っている)
わたしは、この旅が始まる前の自分を思い出していた。
『わたし、飛行機苦手ー』
『なんか嫌な予感がする』
あの時、わたしは確かに、この飛行機に乗りたくなかった。怖いから。不安だから。ただ、それだけの理由で。
そして、機体が激しく揺れ始めた時。パニックの中で、わたしは何を考えていた?
(お願い、引き返して。このままじゃ、どこか遠くに連れて行かれちゃう。家に帰りたい。お願いだから、羽田に引き返して……!)
心の底から、そう願っていた。
そう、わたしは、ただ飛行機に乗りたくなかっただけなのだ。
その時、ふと気づいた。
わたしが「引き返せ」と強く願ったタイミングと、機体が針路を変更したタイミングが、奇妙に一致していることに。
まさか。そんなはずはない。
でも、あの「嫌な予感」は、見事に的中した。
だとしたら、この「願い」は?
わたしの思考が、ありえない可能性に行き着こうとした、その瞬間だった。
「……違う!」
わたしは、自分でも驚くほど大きな声で叫んでいた。田中機長も、父も母も、驚いてわたしを見る。
「何が違うんだ?」父が怪訝そうに尋ねる。
「あの人は、犯人じゃない! わたしが……わたしが、やったの!」
意味の分からない告白に、部屋にいる全員が凍りついた。
「わたしは、やめてください!って、強く強く念じた!もう揺れるのはやめてって!そしたら揺れが収まって……。そして……」
わたしは一度言葉を切り、震える声で続けた。
「飛行機に乗りたくないから、引き返せって、何度も念じたの!」
しん、と静まり返った会議室で、わたしの声だけが響く。父は「お前は、何を言っているんだ……」と呆然と呟き、母は心配そうにわたしの額に手を当てようとする。疲労で混乱していると思っているのだ。
だが、田中機長だけは、違った。
彼女は、驚きと、そして何かを理解したような、複雑な表情でわたしをじっと見つめていた。
「あなた、まさか……」
彼女の言葉を遮るように、会議室のドアが乱暴に開けられた。
先ほどの年配の刑事が、血相を変えて立っている。その手には、黒いフードの男が持っていたという「Switchボックス」が握られていた。しかし、それは発信装置などではなかった。複雑な配線が剥き出しになった、手製の医療機器のようなものだった。
「違うぞ!」刑事が叫んだ。「こいつは、ハイジャック犯じゃない!ただの……ただの父親だ!」
刑事の背後から、連行されてきた黒いパーカーの男が姿を現した。フードが取れたその顔は、憔悴しきっている。そして、その目は――わたしが「冷たい」と感じたあの目は、今はただ絶望的な悲しみに濡れていた。
「娘が……」男はか細い声で言った。「この飛行機に乗っているはずの娘が、移植手術を受けなければ、もう助からないんだ……。この装置は、娘の心臓のペースメーカーを安定させるためのものなんだ!頼む!行かせてくれ!娘のいる、アメリカへ……!」
男の悲痛な叫びが、わたしの胸を突き刺した。
わたしが「引き返せ」と念じたせいで、この人は、娘の元へ行けなくなった。
わたしが、一人の少女の命を……。
「ああ……」
わたしは、その場に崩れ落ちそうになった。
わたしが起こした奇跡は、誰かの絶望の上に成り立っていた。
飛行機が引き返したのは、わたしの「願い」のせいだったのだ。
空港ロビーは静けさを取り戻しつつある。
しかし、わたしの心の中では、今、本当の嵐が吹き荒れようとしていた。
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