第3話
第7章:前夜の駆け引き
決勝戦前日の夜。ニューヨークのホテルのバーで、鄭明月が一人で飲んでいた。その瞬間、バーテンダーが特別なカクテルを差し出す。
「こちらは、向こうのお客様からです」
鄭が顔を上げると、バーカウンターの端に田中が座っていた。鄭は微笑み、カクテルを受け取った。
「準決勝、見事な勝利だった。特に、フランス料理の香りを消す戦術は見事だったな」
田中は驚いた表情を隠せなかった。
「驚くな。この世界は小さい。誰もが誰かを見ている」鄭は笑った。「私のペキン・ダックの秘密、知りたくないか?」
「…何故そんな事を?」
「明日は敵同士。だが今夜は、同じ料理人として話そう」
二人は深夜まで語り合った。表面上は友好的な会話。しかし、その裏では壮絶な情報戦が繰り広げられていた。
田中が部屋に戻ると、一ノ瀬からのメッセージが届いていた。
『交渉結果は?』
『彼は、私の質問に答えるたびに、こちらの情報を引き出そうとしました。しかし、指示通り虚偽情報を混ぜて対応しました。彼の弱点が一つ判明。鄭は舌の左側に味覚障害があります。甘味をほとんど感じないようです』
『よくやった。明日の作戦に組み込む』
ホテルの別の部屋では、分析班が徹夜で審査員の好みを分析していた。
「最終審査員は9名。そのうち3名が中国系、2名が欧米系、残り4名が中立派。勝負は中立派の取り合いになる」
「各審査員の過去10年の評価履歴を分析した結果、中立派の4名のうち2名は『驚き』を重視し、残り2名は『伝統と革新のバランス』を重視する傾向があります」
一ノ瀬は考え込んだ。
「『驚き』か…」
第8章:決勝戦 - 策略の応酬
決勝戦当日。スタジアムは満員の観客で埋め尽くされていた。
「Ladies and gentlemen! Welcome to the final match of the 2025 Culinary Olympics!」
観客の歓声が轟く中、田中と鄭がキッチンに立った。
キッチンに向かう直前、一ノ瀬は田中の耳元で囁いた。
「『隠し味計画』を実行する。ただし、あくまで調理の範囲内でだ」
調理開始から30分。両チームとも完璧な動きを見せる。しかし、その裏では既に策略の応酬が始まっていた。
まず動いたのは中国チームだった。彼らは調理中、特殊な香りを放つスパイスを焦がし、その煙がさりげなく日本チームの方向へ流れるよう仕向けた。
「香りの攪乱か…」一ノ瀬は冷静に分析した。
すかさず日本チームも対応策を講じる。彼らは用意していた強力な換気ファンを作動させ、煙を上方へ排出。さらに、炭火で焼くチャーシューの香ばしい香りを逆に利用し、審査員席へと向かわせた。
しかし、鄭は微笑むだけだった。彼らの本当の策略はそこではなかった。
調理の中盤、中国チームは突然、料理の方向性を変えたように見せた。より伝統的な調理法に回帰したのだ。
「彼らは何か仕掛けてきている」一ノ瀬は眉をひそめた。
田中は頷きながら、自分の調理に集中した。彼の豚骨スープは、すでに12時間の下準備を経て、ここで最終的な味の調整が行われていた。
「あと30分で調理終了です!」
時間が迫る中、田中は秘密の一手を打った。スープの最終調整時に、分析班から提供された「特殊な天然酵素」を数滴垂らしたのだ。
この酵素は、舌の特定の部位を一時的に活性化させるもの。特に、鄭が弱点とする左側の甘味受容体を刺激する効果があった。
一方、鄭も最終段階で隠し味を加えていた。彼の作るペキン・ダックのソースには、脳内の快楽中枢を刺激する成分が含まれていた。完全に合法な食材から抽出したものだが、その組み合わせは審査員に幸福感をもたらす効果があった。
「調理終了まであと10分!」
両チームとも、最後の仕上げに入っていた。
ここで日本チームの作戦が本領を発揮する。彼らは、豚骨ラーメンの一般的なイメージを覆す「驚きの一手」を用意していた。
「トッピングの準備はいいか?」一ノ瀬が確認すると、田中は頷いた。
彼らの秘策は、伝統的な豚骨ラーメンに見せかけて、実は全く新しい食体験を提供するというものだった。麺の中に特殊な空洞構造を作り、そこに風味のエッセンスを閉じ込める。審査員が麺を噛むたびに、新しい風味が口の中で広がる仕組みだ。
「Time's up! 調理終了!」
両チームの料理が完成した。審査の時間だ。
第9章:審判の舌、揺れる天秤
審査員たちは、まず中国の「ペキン・ダック」から試食を始めた。
鄭の作り出したペキン・ダックは、見た目からして芸術品だった。皮はカリカリに仕上げられ、肉はしっとりと柔らかく、ソースは複雑な甘味と酸味のハーモニーを奏でていた。
「素晴らしい…」ある審査員が思わず声を漏らした。
特に効果的だったのは、鄭の「五行の調和」理論に基づいた味のバランス。甘・酸・苦・辛・鹹(塩味)が絶妙に調和し、一口ごとに異なる味わいが感じられるよう設計されていた。
そして、日本の豚骨ラーメンの番となった。
田中の作った豚骨ラーメンは、一見するとオーソドックスな見た目だった。しかし、審査員が一口すすると、その表情が変わった。
「これは…!」
スープは濁りのない透明感を持ちながら、強烈な豚骨の旨味が感じられた。通常の豚骨ラーメンとは一線を画す、洗練された味わいだ。
そして、麺を噛んだ瞬間、審査員たちの目が見開かれた。麺の中から、新たな風味が弾けるように広がったのだ。
「麺の中に…梅の風味?そして、鰹の余韻も…」
これこそが日本チームの「驚きの一手」。伝統と革新の融合だった。
審査は30分に及んだ。その間、審査員たちは何度も両方の料理を味わい、議論を重ねた。
中立派の審査員たちの表情が揺れている。「驚き」を求める審査員たちは田中のラーメンに引かれ、「伝統と革新のバランス」を重視する審査員たちは鄭のダックに魅了されていた。
最終判断の時が来た。
第10章:銀色の敗北と真実
「2025年グルメ・オリンピック、オールマイティ競技の勝者は…」
会場が静まり返る。
「…中国!ペキン・ダック!」
観客席から歓声と拍手が湧き起こった。
日本チームの面々は、厳しい表情を崩さなかった。銀メダル。惜しくも金には手が届かなかった。
控室に戻った田中は、ようやく感情を露わにした。
「なぜだ…あれだけの準備をして、あれだけの執念を込めたのに…」
一ノ瀬は静かに言った。「結果を分析したぞ。我々の戦略は見事だった。味のバランス、驚きの要素、すべて計算通りだった。だが…」
「だが?」
「相手の『幸福感誘発』戦略を見抜けなかった。彼らのソースに含まれる成分の組み合わせが、審査員の判断に微妙な影響を与えたようだ」
田中は悔しさで拳を握りしめた。
「一生に一度のチャンスだったのに…」
一ノ瀬は田中の肩に手を置いた。
「執念は必要だ。だが、時に叶わぬ夢もある。それでも、我々は全てを出し切った。悔いはないはずだ」
田中は深く息を吐き出した。確かに、彼は持てる全ての技術と知識、そして魂を込めてラーメンを作り上げた。
「金メダルは取れなかった。でも、俺たちは世界に日本の豚骨ラーメンの可能性を見せつけた」
その時、控室のドアがノックされた。
「入りなさい」
ドアが開き、鄭明月が姿を現した。
「素晴らしい勝負だった、田中」
田中は黙って頭を下げた。
「君のラーメンは革新的だった。特に麺の中に風味を閉じ込める技術は、私も学びたいほどだ」
鄭は続けた。「実は…審査の得点は僅差だった。1点差だよ」
田中の目が見開かれた。
「そして、もう一つ告白しよう。10年前、確かに私は日本で秘伝のタレの配合を学んだ。だが、盗んだわけではない。当時の店主から、正式に教わったのだ」
「え…?」
「店主は言ったよ。『料理に国境はない。良いものは共有し、さらに良くしていくべきだ』とね」
田中は言葉を失った。
鄭は微笑んだ。「今回の勝負で、私は多くを学んだ。次回のグルメ・オリンピックでは、また会おう。その時は、君が金メダルを取るかもしれないね」
鄭が去った後、田中は窓の外を見つめた。ニューヨークの夜景が美しく輝いていた。
「次は…必ず」
第11章:帰国 - すべてを出し切った先に
成田空港。日本代表チームが帰国した。
銀メダルに終わったニュースは既に日本中に広まっていた。しかし、空港には多くの人々が集まり、チームを温かく迎えた。
「田中さん、素晴らしい戦いでした!」
「次回は絶対に金メダルですね!」
声援を受け、田中は複雑な表情を浮かべた。
一ノ瀬が近づいてきた。
「どうした?まだ悔しいか?」
田中はゆっくりと首を振った。
「いいえ…不思議と、すっきりしています。全てを出し切った。それだけです」
一ノ瀬は微笑んだ。
「それでこそ、真の料理人だ」
その夜、田中は自分の店に立っていた。閉店後、一人でカウンターに座り、自分自身のために一杯のラーメンを作った。
シンプルな豚骨ラーメン。飾り気はない。しかし、そこには彼の全てが詰まっていた。
「達成出来なかった。
何かが足りなかった。
でも、諦めなかった自分がいる」
彼はラーメンをすすった。
「この味は…銀メダルの味じゃない。これは、次につながる味だ」
窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。
食のオリンピック~豚骨ラーメンの挑戦~ 奈良まさや @masaya7174
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