リタルダンド

氷雨ハレ

診察室

「僕の好きな漫画、第二部が始まってから本当につまらなくなったんですよ。助長というか……とにかく、第一部にあった面白さが失せてしまって。やっぱり、僕たちのエゴが第二部を望んだのが悪かったのかなって、そう思ってしまうんですよ。先生」


優しい空間、そう表現するのがもっともふさわしいだろう。ゆったりとした曲調の音楽が静かに流れ、壁紙はほんのりと明るく色づいている。電球の影響だろうか、温かみというものを感じさせてくれる。三畳と少しくらいの狭い診察室に、人が二人。片方は「先生」と呼ばれる大人、もう片方は子供だった。

二人は雑談をしていた。子供は先生に対して、自分の好きなものだったりを語っている。先生はそれをメモしながら、時々相槌を打ちつつ、子供の話を聞いていた。その間、子供は先生のことを一度たりとも見なかった。ワザとだった。その理由を、先生は理解していた。しかし、先生はそれを指摘することが悪いように思われて、言い出すことはせず、こっそりとメモに書くだけにとどめた。


「でも、一番辛いのは作者かもしれませんね。僕たちのエゴで墓場から戻されて、僕たちの為に漫画を描いている。そして、酷評される。僕たちは一度も作者の気持ちを考えないんだと思います。出版社の人は、義務的に描かせているだけでしょう。読者の人は、ただ描かせることだけをさせて、それ以外の責任を取るつもりは無いでしょう。本当に、いい身分としか、言えませんね」


子供がそう話すと、空間には静かな音楽だけが残った。話の区切りだった。先生は熱心にメモを取り、そして考えていた。


「先生、どうですか? 何か、分かりました?」


子供が先生に訊ねた。それが純粋な疑問でないことは誰の目からも明らかであった。子供の悪戯だった。


「先生、先生の意見も聞かせてくださいよ。僕だけが話すのもあんまりだ。ここに来たのには色々と目的があるけど————それには『専門家の意見』というのも含まれているんです。何か、話してくれませんか?」


「————そうですね」


先生は遂に重い口を開けて話し始めた。本来の仕事では無かったが、頼まれれば仕方のないことだった。先生はペンを置いて、一度子供の方を見て、その希望に満ちた目の先生を見つめる様子の裏に強い何かを感じて、そしてもう一度正面、つまりさっきまで見ていた方を見て、「このまま話しますね」と一つ断りを入れてから話し始めた。


「先ほどからの話、全て貴方のことですね。貴方は貴方のことを隠したい願望がある」

「そうですね。先生の言う通りです。でも、一応本当のことを話したんですよ? 両方が本当のことで、たまたま二つが結びついただけです————ああ、続けてください。話し過ぎましたね」


先生は驚いて、一つ息を吐いた。自分の立場が乗っ取られるような、そんな気がしていた。


「では続けます。貴方は自殺未遂をした」

「ええ、そうです」

「貴方は他人に止められた。自分の意志に関係なく、他人の意志で。その為に貴方は苦しんでいる。貴方は全てを失った。人間関係と目的の二つ。どれも生きていく為には大切なものです。それを両方失ってしまった」

「どうして失ったと、そう思うんですか?」

「人間関係は、そうですね、変化したとも言えます。変化して、以前の関係を失った、ということです。それは全て、自殺志願者であることが他人に知られたのが原因でしょう。貴方の話しぶりが、仮に常用のものだとすれば、おそらく貴方に対する解釈は、少なくとも貴方の自己解釈とは異なるでしょう。それが、同じになってしまった」

「なるほど、これが専門家の意見。すごいものですね。こうも簡単に」

「恐縮です。私もまだ一人前には遠いんですけどね。————目的の方は、自殺を止められたことが原因です。自殺志願者、特に貴方のような実際にやろうとする人は、自殺の為に生きている。生きる目的の全てが自殺なんです。それが今、取り上げられてしまった。生かされてしまった。すると、何も残らないのです。まるで魂を抜かれたように、貴方は生きているのだと思います」

「ええ、そうです。正解です。僕の負けです」

「次は私から質問してもよろしいでしょうか?」

「ええ何でも」

「ありがとうございます。では、まず一つ。貴方にはまだ希死念慮がありますか?」

「無い……と言えば嘘になります。しかし、やろうとは思いません。確かに、以前より僕の頭を支配していた声は無くなりました。僕を死へと駆り立てる存在は消えました。僕は前日に満たされて、判断が揺らいで、思ったんです。『死ななくても、いいかな』って。それは本当に一瞬のことでした。当日に発覚する前までの……半日ほどの時間です。僕は幸せでした。ええ、そんな気がしました。ワザと自殺を失敗させようと思うくらいには。

 でも、全ては白日の下に晒されたんです。そして全てが失われたんです。そして思いました。こんな気持ちになるくらいなら、死んだ方が良かったって。幸せな気持ちを噛み殺して、知らないふりをして、首を吊れば良かったんです。でも、遅いんです。僕はもう死ねません。勿論、前科がついて、監視の目が厳しくなったのもあります。しかし、それ以上に、僕にはそういう気力がないんです」

「……話してくれてありがとう。貴方は、貴方の自殺を止めた人を恨みますか?」

「ああ、彼らですか。やっぱり恨むべきでしょうか? 僕にはそんな気が全く起きません。他責思考が無いんです。全部自分が悪いと思ってしまうので……ああ、僕の自殺の原因の一つかもです。でも、そうですね。責任は取ってほしいですね。ほら、言いませんか? 捨て猫を拾ったらちゃんと育てなさいというか……そういうやつです。その考え無しに僕を生かしたようじゃ、本当に……本当に……いや、言葉がないですね。何と言うか、責める言葉が見つかりません。ああ、でも一つありました。僕は、肯定されたかったんです。失敗ばかり、間違いだらけの僕を、肯定して欲しかったんです」

「……はい、分かりました。では、次の質問に移ります。貴方は、どうして死を選んだのですか?」

「そうですね、妥協です」

「妥協?」

「はい。頭の働き、思考を止められるなら何でも良かったのです。慢性的な後悔と、それに起因する死にたいの思考がなくなれば何でも」

「……はい、分かりました。最後の質問をします。自殺をするにあたって、後悔は無かったのですか?」

「後悔、ですか。みんなには無いと言いました。嘘です。本当はあります。未練タラタラで、死にきれないような……そんな状態です」

「具体的には何か……?」

「そう、ですね……簡潔に言えば、異性を抱いてみたかったんです。性的欲求です。いやぁ、お恥ずかしながら今までそういう経験が本当になくて、性行為は勿論のこと、キスもしたことがない。手を繋いだことだって、なかったかもしれません。————自分でも思います。まぁ、僕も子供なんだってことがよく分かります。若気の至りとでも言いますか……そんなところです」

「……なるほど…………」

「ああ、そうです。思い出しました。僕は僕を救う方法について考えていたんです」

「お聞かせ願えますか?」

「勿論です。僕は、恋人、いえ、依存先が欲しかったんです。僕を理解出来る人がいないってことは、以前より分かり切っていたことでした。だから、僕は言葉を必要としなくなったのです。別に無言でもいい。ただ僕の傍で寄り添ってくれる。僕に体温を教えてくれる。そういう人がいたらいいなって、ただそれだけのことです」

「……ありがとうございました。以上で質問は終わりにします。何か質問等はございますか? なければこれにて終了ですが」

「なら、一つ。先生にではなくて、貴方に質問が」

「……なんでしょう?」

「僕の物語は、いつ終わりそうですか?」

「そうですね……少なくとも、君が心から幸せになってから、ですかね」

「……………そうですか。今日はありがとうございました」

「いえいえ、いつでも来てください。お大事に」


そうして、子供は立ち上がり、診察室の外に出ていった。その顔には何かを確信したような、そんな気配が感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リタルダンド 氷雨ハレ @hisamehare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ