あちらでどうぞ

かたなかひろしげ

死か

 あれから気が付けばもう、一ヶ月も経っていた。


 峠でバイク事故を起こした彼女は、発見当時の状態からは当然既に死亡しているものと思われた。だが奇跡的に彼女の心臓は鼓動を続けており、麓の病院に緊急搬送された。


 俺が駆け付けた時にICUの担当医師は「この状態で生きているのが奇跡です。尽せる手は尽しましたが、後はご本人の体力次第かと思われます」などと、実に白々しいことを言った。

 複雑骨折した肋骨が心臓に刺さっている時点で、何故彼女の心臓が動き続けていたのかは、素人の俺にもいまだにわからない。だがその翌朝、彼女はあまりにもあっさりと、その奇跡的に動いていた心臓の動きを止め、旅立ってしまった。


 今でも彼女が最後に意識を取り戻した時に言っていた言葉を思い出す。


 「ここはだめ・・しにたくない・・」


 俺が彼女と付き合い始めたのも、バイクがきっかけだった。

 所謂、峠の走り屋であった俺に影響され、彼女もバイクを買い、一緒に峠を攻めるようになるまでには、そう時間はかからなかったのを今でも覚えている。


 俺にしてみれば、初めて付き合った彼女であり、俺のすべてであった。

 事故後、全てに絶望した俺はあの事故以来、来ることが出来ていなかったこの峠に、重い腰を上げ、ようやく再び訪れていた。


 今夜の峠は、蒸し暑い夜ながらも過ぎ去る風はよく、本来であれば走るのには申し分ないコンディションだ。空の低いところにいる月が、煌々と傷だらけのアスファルトを照らしている。


 今更、わざわざここに来る理由など、もう、そう多くは無い。

 俺は今夜、あいつが死んだこの峠で、死ぬつもりだ───


 思えば彼女が事故って以来、まともにバイクに乗れずにいた。こいつに跨るのは一か月ぶりということになる。あんなにただ乗っているだけで、気持ちの良かったバイクも、今となっては冷たく重い鉄の塊にしか思えなくなるのだから、我ながら己の心境の変化に驚くより他は無い。


 ***


 ウチのような自動車保険会社には、損害課という課がある。交通事故に巻き込まれた人からの連絡はサービスセンターで受ける。もしそれが事故だった場合、損害課がそこからの対応を引き継ぐのだ。

 だが、その日に回ってきた連絡はそもそもが変であった。


「鹿、ひいたので、救急車おねがいします……」


 峠での事故。電話先から聞こえるくぐもった声は、なにか、鹿か熊のような動物を轢いてしまったようだ。と言っている。名前は……シナダコウスケ、保険番号は確認済みだ。サービスセンターで受けた時に生年月日で本人確認も済ませているので、本人で間違いはないだろう。だがどうにも話が要領を得ない。


「怪我、してるみたいです」


 本人に怪我はないというが、相手が怪我をしているのだろうか? 

 この場合、相手は野生動物、鹿だ。道交法的に動物を轢いた時の通報義務はないが、物損事故としてバイクの修理には保険が降りる。だからこの人は、こちらに電話を入れてきたのであろう。


 この人は救急車の手配をこちらに依頼している。鹿を救急車には載せないだろうから、つまりこの人は、事故で怪我をしている可能性があった。


「救急車を手配しましたので、その場でお待ちください。他に何かお困りのことはありますか?」


「つの、おれてます」

「角?ですか?鹿の」

「・・・」


 電話は一方的に切られてしまった。

 事件性はなさそうなので、損害課としての対応はここまでだ。


 ***


 ───全身が痛む。

 俺に何が起きたのかは、案外冷静にわかっている。


 自暴自棄だった俺は、いつもの急カーブ、必要以上に深いバンク角で膝を擦りながらコーナーを攻めた。タイヤとアスファルトの摩擦力が、バイクを地面に繋いでいてくれる以上の移動エネルギーでコーナーの端に突っ込んだ。その刹那、視界に何か黒いものが飛び出してきた。バイクはそのなにか重いものにぶつかり、その勢いのまま、俺はバイクから放り出された。


 放り出された俺は身体を海老のように丸めたまま空中に放り出され、近くの山林の太い木に腰を強く打ち付けた。頭を守ろうと振り上げた両手はどこかにぶつかり動かなくなり、それでもなお止まらぬ身体は、近くの木に何度かバウンドをして、ようやく移動を止めた。


 でも、良かった。これであいつと同じ場所に行ける。


 ***


「またあの峠での事故ですか」

「警察も取締りをしてくれてますが、追いつかないようで」


 峠の麓にあるこの総合病院では、ここ何年か、峠での車両事故の患者の大半を受け入れていた。都合よく、病院にはリハビリ施設に加えて優秀な外科医も配属されており、地元の人口には些か不釣り合いな規模の総合病院の収入を支えていた。


「今夜のあの患者さんは、どっち?」

「だめな方ですね」


 この病院に担ぎ込まれる峠からの搬送者は、大きく二種類に分かれる。軽い怪我で済んだ人と、到底助かりそうもない危篤の人、だ。峠で死体がみつかることは決して無く、どんなに死にそうな、既に死んでいてもおかしくない人間もこの病院に来た時点では生きている。


 そしてそのまま回復するケースもまるで無く、翌日には確実に死を迎える。

 病院もあまりにそういう患者が多いため、最初の頃こそ医療過誤を疑われたが、その詳細が判明すると、生きた状態で搬送されたことが奇跡、のような患者が大半のため、それを指摘する声も今ではすっかり無くなっている。


 恐らく、今夜の患者も所謂いわゆる後者の方、助からない患者であった。


 ***


 ───ふと目が覚めると、病院のベッドに寝ていることに気がついた。俺は、何故か生き残ってしまったらしい。


 覚醒と意識喪失を繰り返し、白濁する意識の中で、事故当時の記憶が蘇ってきた。あの時、ぶつかってきたのは、横から飛び出してきた何かだった。


 したたかに木に打ち付けられて倒れた俺は、フルフェイスのメットのシールドロックレバーを折れた手で押し、なんとかシールドを開けた。宵闇の空の月は低く、薄い雲の流れる空は、まるで蒼くて深い湖のような色をしている。


 途切れそうな意識の中であの時見たのは、黄金色の瞳孔。虹彩は黒いにも関わらず、それを縁取るのは黄金色の鈍色。暗い山中では到底視認できるはずのないそれが、瀕死状態の俺にもはっきり判る、そのことが、この瞳の持ち主が普通の生き物ではないことを示していた。


「……は、しぬな」


 何かを言っているが、よく聞き取れない。

 だが、温かい風が吹いていて、なにかに護られている感覚が確かにあった。もしかしたら、俺はこのなにかに助けられたのかもしれない。


 混濁した意識が、痛みと共に過去から現在に戻ってきた。


 ***


 保険会社の電話が鳴った。


「それで、損害課の判断は送った通りで。評価は結局どうなりましたか?」

「ええ。本人が電話をした、と。だからそれは担当医も無理だと言ってましたよね、頭をかばった時に両手は粉砕骨折していて、電話など出来るはずがない、そもそも顎が無かったのだから喋れる筈が無い、って」


 本人が亡くなった場合でも、事故の始末としては報告書を残すのが業務手順となっている。事件性の無い事故でも、その事後に遺族などから起訴されるリスクがあり、経過は対応記録として5年間残される。


「ええ。現地は一応、損害課の方で確認しました。遺留品としてバイクの部品と、鹿の角?の欠片が現場に落ちてたそうです」

「それではやっぱり鹿を轢いたのでは?」

「いや、だから鹿なんて轢いてないんですよ。ブレーキ痕無いですし、カウルもぴかぴかです」


「それでは誰が鹿をひいた、なんて電話をしたのか?ですか?」

「ええ。録音はされてました。ただ、サービスセンターの通話録音も、その後の損害課の通話録音も、ざーっというノイズしか記録されてなかったんですよ。当時の担当は絶対に声を聞いた、って言ってますが、何も記録が無いんです」


 損害課としては別にそれでいい。通報が早かったおかげで被害者は一時的にも助かったし、病院に運ばれた時に意識が残っていたおかげで、診断書も貰えたし、何も問題はない。

 ただ、ただひとつだけ。

 あの担当が最後に言っていた事が気になったので、念の為に記録には残しておく。


「確かに最後に電話が切れる前に、言ってるのが聞こえたんです。

 ───よそでしね。

 って。」

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