大人の関係は悪ですか?

道端ノ椿

ある心理カウンセラーの心

 私は夏の夜が嫌いだ。

 外は暗くなりつつあるのに、まるで涼しさを感じられない。これでは、帰り道に一日が終わる余韻を味わえないではないか。さらには、汗をかいたまま家に入ることを想像するだけで憂鬱になる。しかし、この時間だけは、そんな暑苦しさも悪くないと思えた。


 夜の9時を過ぎた頃、私は浩一こういちのアパートの前に立っている。相変わらず、ポストにはあふれるチラシ。私はいつも通り、その束を回収してやった。どうして私はこんなことをするのだろう? ここに足を運ぶ目的は体でしかないというのに。私は彼に感謝という〈心〉まで求めているのだろうか? そんなのは欲張りだ。


 壊れかけたインターホンのボタンを押すと、くだらない音が短く鳴った。か弱い私の指では、いつもこれを押すのに苦労する。

 ドアが開かれると、怠そうな表情の浩一が顔を出した。彼はノースリーブの白いシャツに、紺色のステテコを履いている。

 私がチラシを手渡すと、彼は「ああ」と当たり前のように言って受け取った。「ありがとうくらい言った方がいいよ」と伝えようかと思ったが、やめた。我々はもう恋人ではないのだから。


 カバンを置いて寝室に入ると、私たちはそのまま男と女になった。そして途中で思い出したように浩一は電気を消した。いつものことである。

 古いエアコンは充分な冷却効果を発揮していない。そんなことも気にせず、私たちは今夜も愛し合った。




 ◇ ◇ ◇




 部屋に静けさが戻ってくると、多少は冷房も効き始めた。浩一はベッドの上で5ミリのタバコを吸っている。私もそれを一本もらい、美味くも不味くもない煙を黄色い天井に吐いた。私が喫煙するのはこの時だけである。


「なあ、愛理。どうしてお前はまだやらせてくれるんだ?」


「さあね」と私は言った。

だからかな」


「どういうこと?」


「知らない」


 浩一は溜め息をつくように煙を吐いた。

「心理カウンセラーなら、もう少し分かりやすく話してくれよ」


「あなたが1時間5千円の保険外診療費を払ってくれるなら、喜んで」


 彼は左手でタバコを吸い、右手でスマホを触っている。なにやら競馬の情報を調べているらしい。忙しい人だ。


「ねえ、もしも私に彼氏ができたって言ったらどうする?」


「できたの?」


「いいえ。もしもの話」


「その時は、まあ、他の女を探すよ」


「ほんと、正直ね」

 私は彼のほおに口づけした。


 私たちはに戻ってからの方が、お互い素直になれている。

 多くの人は私を見て、心理カウンセラー失格だと言うだろうか? しかし、人格とカウンセリングのスキルは必ずしも相関しないのだ。現に私は、総合病院でも大学の相談室でも、常に一番人気の臨床心理士なのだから。


 口の中がヤニ臭かったので、私はミンティアを一粒食べた。そして彼に背を向けて、静かに目を閉じる。

 夢の中で、私はこんなことを言っていた。


「心とは脳のことである。そして脳と体は密接に繋がっている。脳が体に指示を出し、体が脳に信号を返す。私だって同じ人間なのだ。体を求めて、心を求めて何が悪い?」


 私はそのまま10時間眠った。起きると軽い頭痛がしたので、本棚から勝手に薬を取り、水道水で胃に流し込む。そしてもう一度布団に潜り、浩一の腕に抱きついて二度寝した。未来のことは、未来の私に考えさせるとしよう。


 布団の中は悪くない温もりで満ちていた。







(終)




© 2025 道端ノ椿



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大人の関係は悪ですか? 道端ノ椿 @tsubaki-michibata

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