花葬
紅葉 葵
花葬
カラン──
澄んだドアベルの音色が重苦しい空気を割って店内に響く。私は手を止め、反射的にうつむいていた頭を上げた。随分と久しぶりのお客様だ。
目線をドアの方へ向ける。するとそこには花束を片手に抱えた青年が立っていた。彼は店内をぐるりと一瞥した後、一歩足を踏み入れ、私の姿をその目に捉えると同時に静かに口を開いた。
「今夜は、落ち着いて飲みたい気分なんです。」
◆◆
六月も半ばを過ぎようとしている。
灰色の雲が空を覆い尽くしたその日、時刻は丁度二十二時を回ったところだった。
私は一人、カウンターの内側で黙々と作業を続けていた。清掃、在庫確認、グラス磨き。どれも大切な仕事だと頭ではわかっている。それでも、何かこう、もっと“生きている”実感のある時間が欲しかった。誰かと交わす一言や、一杯に込める想い、沈黙の間に生まれる温度……そういったものがこの場所には必要なはずなのに、ここ数日はすっかりそれが抜け落ちていた。
「はあ……」
ため息交じりにクロスを握り直す。
郊外に門を構える、席数もわずか七つだけという小さなオーセンティックバー。晴れて一人前のバーテンダーとして独立して、かつての母の店を継ぐことができたというのに、梅雨の湿気に誘われたのか、はたまたタイミングが悪かったのか客足はぴたりと止まっていた。グラスを磨く音だけがやけに耳に残る。思い描いていた活気や華やかさとは裏腹に、静寂ばかりが積もっていく。
──「違うわ。もっと指先を丁寧にね。カクテルは所作から魅せるのよ。」
──「…さっきも言ったでしょ?どうして、そんな簡単なこともできないの?」
──「ご、ごめんなさい、お母さん…。次はもっと上手にやるから…」
──「…何でもいいけど。ねえ、お願いだから。店の名前だけには、泥を塗らないで頂戴。」
あの声が、また頭の奥でこだまする。
完璧な母の背中をずっと追いかけていた。今の店の状態を母に見られたら、いったいどんな言葉を浴びせられるだろうか。
「…っ!」
一瞬の鋭い痛みとともに、指先からじわりと血が滲む。ぼんやりとしていたせいか、木製の棚を拭く際に飛び出した釘に指を引っ掛けてしまったようだ。私は慌ててバックカウンターから絆創膏を取り出して傷口を覆った。また、記憶の中の母に叱られてしまう。
(何だか今日は特についてない気がする)
思い返せば、今朝は特に調子が悪かった。
愛用しているコンタクトレンズが上手くつけられず、結局数年前に購入した度の合っていない眼鏡をして出かけることになってしまった。それが直接起因しているかは分からないが、日中、道を歩いていると不意に交差点に大型車に接触しそうになったりもした。ほんの一歩手前で立ち止まることができたから良かったものの、最悪の場合、私はこの世にいなかっただろう。
そして極めつけのこの怪我。小さな切り傷とはいえ、こうして続けざまに不運が重なると、気分まで陰ってくる。
(…私には向いてないっていうメッセージだったりして)
ほのかに赤く色づいた絆創膏をそっと撫でながら、諦めたような乾いた笑いを口から溢していた。
「はは、何やってんだろ…」
そんなネガティブな思考に溺れそうになっていた私を引き戻したのが、彼だった。
彼は、冷たい影を纏ったような端正な顔立ちをしていた。私のレンズ越しの視界でははっきりとは分からなかったが、ストレートの黒髪に高身長で引き締まった身体、おまけに質の良さそうなスリーピーススーツをきっちりと着こなしており、まさに美しいという表現が良く似合う男性だった。
「あの…?」
彼が苦笑しながら尋ねる。いけない、随分と長い間見つめてしまっていたようだ。
「あっ、申し訳ありません!こちらの席へどうぞ。」
私はカウンターの端席を手の平で示した。
「ありがとうございます。」
彼が席に腰を下ろしたのを見届けると、自然と背筋が伸びた。タイミングを見計らい、メニュー表を差し出す。
彼の登場は、まるで予兆のように感じられた。
痛みと不運と倦怠のただ中にあって、花束を手に現れた美しい青年。
湿った空気の中でわずかに香る花の匂いが、どこか非現実的に思える。
(なぜ、こんな日に、花を?)
不思議な違和感が胸にひっかかったが、それを口に出すことはなかった。
まずは、彼の望む通り、落ち着いた時間を提供すること。それが、私の役目だ。
私はグラスを一つ手に取り、磨かれたカウンターの上にそっと置いた。
「何をお作りしましょう?」
「ありがとうございます。では、貴女のお薦めの一杯を。」
「かしこまりました。」
私のお薦め、と聞いて私は一瞬だけ思案し、それから自然と手がカンパリのボトルに伸びた。初夏にぴったりのカンパリオレンジ。苦味と甘味のバランスが絶妙なロングカクテル。
氷を落としたグラスに、カンパリを注ぐ。その瞬間、独特のハーブ香がふわりと鼻をかすめた。続けて、搾りたてのオレンジジュースを静かに注ぎ入れ、バースプーンで一度だけゆっくりとかき混ぜる。
鮮やかな朱色がグラスの中にほどけていく様子を見ながら、私はふと、彼の言葉を思い返していた。
「落ち着いて飲みたい気分なんです。」
きっと、このグラスを手にしたとき、彼の中の何かがすっと静まる。そんな気がした。
最後にそっとオレンジピールをひねって香りを添える。光を受けてきらめく表面の油分が、まるで魔法のように、カクテルに命を吹き込んだ。
「それにしても素敵な花束ですね。」
出来上がったカクテルを提供しながら、私は彼に話しかけた。彼は自身の隣の席に鎮座している花束へ視線を落とすと、その包みの上からゆっくりと指を滑らせた。ラッピングは黒を基調とした光沢のある紙で、まるで喪服のような気品と、どこか近寄りがたい冷たさを併せ持っていた。包まれた薔薇の花弁の隙間から、深い漆黒の色がわずかに覗いている。
「ありがとうございます。彼女のために一生懸命選んだ甲斐がありました。」
「もしかして、プロポーズですか?」
「まあ、そんなところです。僕の気持ちは十分に伝わったと思います。彼女も泣いていたので、喜んでくれたんだと信じています。」
そこまで言うと彼はカクテルを一口煽った。口では素敵と宣ったものの、私は心の内で全く逆の思いを抱いていた。
黒い薔薇──私はそれを、実物として見るのは初めてだった。それは生花とは思えないほど静謐で、ひどく人工的な印象を与える。想い人への贈り物にしては、それは些か不釣合いなように感じた。
その直後、微かな羽音が私の耳元をかすめた。
目をやると、小さな羽虫が一匹、カウンターの灯に引き寄せられてふらふらと舞っている。夏の入り口にしては、妙に早い本日ニ人目の訪問者だ。私が思わず手を振ろうとすると、彼がぴたりと動きを止めた。
「動かないでください。」
彼はスッと手を伸ばすと、頭上を飛び回るそれを指で挟むようにして潰した。
乾いた“ピチ”という音が、グラスの氷よりも鮮やかに響く。
「ご存知でしたか?害虫でも、こうすれば価値が生まれるんですよ。」
笑ったままそう告げる彼に、私は返す言葉を失った。何か見てはいけないものを覗き込んでしまったような居心地の悪さを感じた。
彼の指先には、潰れた羽虫の破片が貼りついていた。
白く、細い指にのったそれを、まるでルージュでも試すかのように光の下でくるくると観察した後、かつては羽虫だったそれを白布で拭い取り、捨てた。まるで何事もなかったかのように再びカクテルに口付ける。一連の動作はあまりにも淡々とし過ぎていた。
「さっぱりしていて美味しいですね。カンパリオレンジ…でしたっけ?」
「…よく、ご存知ですね?」
「彼女もカクテルに詳しくて、しょっちゅう飲んでいたものですから。カンパリオレンジのカクテル言葉が『初恋』ということも彼女から教えてもらったんですよ。」
彼は微笑み、グラスを傾ける。
「彼女はまさしく僕の『初恋』です。誰にでも分け隔てなく優しい、聡明な女性でした。」
ただ、その目には焦点がなく、私の存在など初めから無いかのように彼の言葉は空間に滲んでいく。
(……この人、一体誰に向かって話しているの?)
一瞬、鳥肌が立った。その間にも彼の“独白”は続いていく。
「──ただ、何でも一人で抱え込む悪い癖があって一度体調を崩してしまって…それで、僕が彼女を診ることになりました。」
彼はカンパリオレンジを飲み干すと、間を置かずにニ杯目にグランドスラムを注文した。果実の甘さに、ジンの鋭さを潜ませた一杯。少し急すぎるような気もしたが、私は無言でそれを作り、提供する。
「出会った当初、彼女はひどく濁った瞳をしていました。腕に注射針を刺される時も、問診を受ける時も、ずっと…まるで、生きることに執着していないような瞳。」
そこに光を取り戻したかったんです、と彼は続ける。
それから彼は私に、彼女のことを嬉々として語り始めた。とても、饒舌に。
「半年。早いですよね。彼女は良く笑うようになりました。目に光が灯った彼女は、それだけで十分美しかった。でも——それ以上に、僕の中の何かも騒ぎ始めたんです。」
最初は抑制の効いた穏やかな声だった。けれど話が進むにつれ、彼の声は徐々に昂り、語気が強まり、やがてカウンター越しにも圧を感じるほどになっていった。
「思えば、最初から僕は恋に落ちていたんでしょうね。だから僕は…」
彼はそこまで言うと、はっと我に返ったのか伏目がちになり口を噤んでしまった。
「…少し話し過ぎましたね。」
彼はばつの悪そうな顔で笑った。
「…いえ、何となく分かる気がします。誰よりも綺麗で愛しいから守ってあげたくなるんでしょう?」
私が純粋に思ったことを口にした途端、彼は心底驚いたように大きく目を見開いた。
その瞳に、熱に浮かされたような輝きが差す。
ずっと目を合わせていたつもりだった。だが今になって初めて、本当に視線が交差したような気がした。
「僕の気持ちを、理解してくださるんですね。」
「…はい。そんなに愛されているお相手の方が羨ましいくらいです。」
私にはそういう恋人がもう何年も居ませんから、と少々自嘲気味に笑った。
「まさか、」
ぽつりと漏れた言葉の直後、彼はまるで壊れ物に触れるように、カウンター上の私の両手を包み込んだ。
「え…?」
その行為自体があまりに突拍子もなくて、思わず身じろぎする。しかし、熱を持った彼の手の平は私が離れていくのを優しく拒んだ。
「こんなにお綺麗なのに…」
目を伏せながら、陶酔するように彼は呟いた。
男性にそんなことを言われたのは何年ぶりだろう。思い出そうとしても、全く浮かばない。今まで私を見て、「綺麗だ」、「魅力的だ」と言う人などほとんどおらず、私自身も自分の外見に人の目を引くような要素があるとは思っていない。顔立ちも平凡で、服装も地味。でもまさか、こんなに美しい男性に自身を、それも外見を褒めてもらえるなんて思ってもいなかった。かあっと頬が熱くなり、赤く染まってしまう。
「そんな、私なんて…」
「貴女は内に、貴女だけの“色”を秘めているじゃないですか。」
「どうか、自分を卑下しないで。」
相変わらず言葉の意味は分からなかったが、不思議と彼の言葉は、一つひとつが心に染み渡っていくようで、気持ちが楽になった。もう少しだけ、頑張ってみよう。そう思えるほどに。
「……ありがとうございます。お客様のおかげで、少しだけ自信が持てました。」
私はそう口にして、そっと目を伏せた。
おそらく、顔は熱を帯びたままだ。何故か彼には見られたくなかった。
「それは嬉しいですね」
彼は優しくそう告げる。私の手を包み込んだままで。
──温かい。けれど、もう充分だ。
「……あの、それで……」
「はい?」と、彼は微笑を崩さずに問い返す。
私は一瞬、言うべきか迷った。しかし、言わないわけにもいかない。
「……そろそろ、その……手を、離していただけると」
「おや……」
軽く目を丸くして、彼はぱっ、と芝居がかった動きで手を放す。
「これは失敬。」
その所作は、どこか舞台の一場面のようで。私の鼓動は速さを増していくばかりだった。
「お礼を言うのはむしろ、僕の方です。貴女のおかげで、忘れられない夜になりました。」
「!…ふふ、良かったです。」
彼は何かしばらく考え事をした後に、チェックで、と二杯分のカクテルの料金をカウンターの上に置き、その横に持っていた薔薇の花束をそっと添えた。
「また近いうちに伺います。今夜の記念に、どうか受け取ってください。」
「 」
そう言い残して彼は足早に店を後にした。
「え、ちょっと…!」
私は急いで彼を追いかけたが、既に店の外に彼の姿は無かった。
二十三時、そこにあったのは梅雨特有のじっとりと絡みつくような蒸し暑さだけだった。
「どうしようか、これ…」
彼が店を出た後他の客が来ることはついぞ無かった。午前零時、私は閉店作業に取り掛かった。
しかし、彼が置いていった薔薇の花束だけはイレギュラーでどう扱えば良いか分からなかった。店に飾るにしても花瓶など常備していなかったし、そもそもこんな立派な薔薇は私の質素で小さな店には合わないだろう。かと言ってせっかく美しく咲いているのに捨てるのも忍び無い。
(仕方ない、家に持って帰ろう)
熟考の末、私はそれを自宅に飾ることにした。花瓶はペットボトルか何かで代用して、見頃を過ぎて花が枯れたら捨てれば良い、そう思ったからだ。
彼は芸術家のようだった。感受性が強く、少し理性の枠から外れている。
けれど確かに──どこか魅了されてしまうものを持っていた。心の奥底では、私も他者からの評価を渇望していたのかもしれない。だからいとも簡単に、彼に堕ちてしまいそうになる。
花束を小脇に抱え、店を出て、施錠する。月明かりも無い、暗くてジメジメした帰り道には一面に独特のアスファルトの匂いが充満していた。しとしとと細かに雨が降り始めたようだった。これ以上強くなっては困る。時計が示す時刻は午前一時丁度、私は帰宅を急いだ。
その道中、どうにもひっかかる彼の言葉を反芻していた。最後に、消え入るような声で、彼はどうしてあんな事を言ったのだろう。どんなにぐるぐると思考を巡らせても私の脳内で答えが出ることは無かった。
「今夜の記念に、どうか受け取ってください。」
「僕にはそれが美しいとは、もう、思えません。」
一滴の雨粒が薔薇の花弁をなぞった。足元に落ちた雫がほんのりと赤く色づいていたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
季節はすっかり夏模様だったが、一ヶ月後の今日も相変わらずの曇り空だった。しかし、梅雨が明けたことで客足は次第に元に戻ってきたように思う。私は少し安堵していた。
午前零時、いつも通り最後の客を見送り、片付けに取り掛かる。もう慣れたものだ。
彼が店を訪れてから随分時が流れた。あの日以降、私は彼の姿を一度も見ていない。またすぐに来るとは言っていたがそんなに私の店を気に入ってくれたのだろうか。
あの夜のざわめきが、まだ消えない。
彼は確かに美しかった。しかし、私はその美貌に微かな恐ろしさを感じ始めていた。
自宅に飾った薔薇は、不自然なほど早く枯れてしまった。嗅ぎ慣れた花の香りは薄れ、代わりに、少しだけ酸っぱいような、生臭いような匂いが漂っていた。
途端に、色も形も異様に思えてきて、結局処分してしまったのだ。
嫌な予感が頭をよぎった。この日常も束の間の平和に過ぎない、そんな予感が。
今日は早く帰ろう、居ても立っても居られず私は早めに閉店作業を終え、飛び出すようにして店を出た。今朝の曇天が嘘だったかのように、夜には本降りの雨が全てを濡らしていた。勢いよくドアを閉め、鍵を取り出し、乱暴に回して施錠する。
私は扉が閉まったことを確認するとすぐさま方向を変え、自宅へと走ろうとした。
──走ろうとしたのだ。否、できなかった。
「お一人で夜道は危険ですよ。」
彼はあの日と全く変わらぬ服装で、そしてあの恐ろしいほど美しい笑顔で、振り返った私にそう告げた。目に見えて変わっていたのは、彼の手の内の傘と──白い、薔薇の花束。それだけのはずなのに、何か、何かが違う。
ひっ──と辛うじて出した声と呼べるかも怪しい小さな悲鳴は、不規則な雨の拍子に掻き消されてしまった。
「そんなに驚かなくても良いじゃないですか。」
彼は顎に手を当ててくすくすと笑う。何が面白いのだろう。彼はひとしきり笑ってから大きく息をついた。
「今日は貴女に、これを“完成”させてもらおうと思って。」
そう言って彼は徐に、持っていた薔薇の花束を私に向かって差し出した。この間とはうってかわって、まるで何かを“受け入れる”余白を残しているかのような純白の薔薇だった。
「い…いただけません…」
私は声を絞り出し、一歩後退ってドアに後ろ手をつく。
「そもそも、何でまた私に…」
「貴女に、新たな恋をしてしまいました。」
彼は、まっすぐ私の目を見つめて笑った。
…何を言っているのだ、この男は。
「え…貴方には婚約者が居るんじゃ…」
「婚約者?何のことでしょう?」
彼はきょとん、とした顔をしていた。
「パートナーの方にプロポーズ…したっておっしゃっていたじゃないですか…!」
ああ、と合点がいったのか、ゆっくりと瞬きをして彼は天を仰いだ。
「…『彼女』のことでしたか。結婚なんて、そんな約束はしていません。ただ、僕は彼女の持つ美しさを永遠に見ていたかった、それだけのことです。」
「…“美”は、永遠であるべきでしょう?」
その瞬間、彼の瞳から、すうっと光が引いていくのが分かった。
「何故でしょうね。僕にとって、そして彼女にとって“最善”の選択をしたはずなのに。」
「あの日、彼女で色付いた薔薇は最初こそ美しかった。けれど、徐々にその輝きは失われてしまった。」
まるで、何かが「終わった」ように、静かに、決定的に。
「僕は、美しくない彼女に興味を微塵も抱けなかった。だから、僕は貴女に花束を押し付けるような真似をしてしまったんです。」
彼はもう一度視線を私に向けた。申し訳ない、そう言いたげに形の良い眉尻を下げて。
「美しい彼女の生きた証は確かにあの花に刻まれていたんです。貴女のもとにやって来た時には、もう醜く変色してしまっていましたが。」
どくん、と心臓が跳ねる。
──すぐに枯れてしまった薔薇
──花弁から滴り落ちるほのかに赤い水滴
──彼の最後の言葉の意味
あの日感じた違和感の数々が、脳内を一瞬で駆け巡った。
「貴女…いや、君は、こんな僕の気持ちに理解を示してくれた。慈悲深く、聡明な人だ。だから…お願い。」
「僕に、君の美しさを所有させてほしい。」
この男は、常軌を逸している。
咄嗟に私は、彼の胸板を突き飛ばした。手の平がスーツ越しに捉えた、内側の硬い感触。気にしている余裕なんて無かった。予想外の私の攻撃に彼がよろめいた一瞬の隙を狙って、脇を通り抜け、荷物も持たないままがむしゃらに走り出した。濡れて重くなった前髪が視界に垂れ込め、自分の荒い息遣いが耳を打つ。どこへ向かっているのか見当もつかない。ただ今は──あの男から逃げなければ。そう本能が訴えかけていた。
目の端に体勢を立て直し、私を見据える彼の姿がちらりと映った。
まずい……前に、とにかく前に進まないと。
──捕まったら何をされるか分からない。
恐怖と戦いながら、足を懸命に動かす。いつの間にか線路沿いまで来ていた。線路沿いの道は細くて滑りやすく、足元が覚束ない。
「あっ…⁈」
足が動かなくなった。慣性により身体だけが前に投げ出され、地面が視界を覆い尽くす。
背後に居る彼に気を取られ過ぎたのか、靴のヒール部分が踏切のレールに噛み込んでいた。
転倒したのだと理解するのに時間なんて要らなかった。右足首は大きく腫れ上がり、歩こうとする度にズキンと激痛が走る。
必死の思いで踏切まで這って戻り、靴を回収しようとした。
が、ぴったりと合わさった私の靴と、線路のレールは、カチカチと虚しい音を奏でるだけだった。
コツ…
──雨音? いや違う、もっと乾いていて、硬質で、重い。
コ…ツ、…コツッ。
間隔が狂っていく。息が詰まる。距離が掴めない。
鉄の匂いが鼻をついた。線路の匂い? いや、全て彼から。
コツ…
右足首が激しく脈打つ。足音と同期して、じわじわと焼けるような痛みが広がる。
(お願い、こないで──)
身体が冷える。指先から力が抜ける。
けれど音だけが、なおも確かに迫ってくる。
コツ。
どうしよう取れない
どうしよう、どうしよう、どうすればいい。
息が、苦しい。
はっ、はっ──呼吸が浅い。視界が滲む。胸が上下して、酸素が足りない。
このままじゃ──
どうしようどうしようどうしよう…!
「あ、あ…ぁあ」
音が、止まった。
手元に、影が落ちる。
「大丈夫です、ちゃんと回収しますよ。」
後でね、と彼が振り上げた右手の先。鈍く光る刃が街灯を受けて、一際輝きを増した。
あの日、私は彼に甘美な毒を与えてしまったのだろう。今度はその代償として、私の中に、彼という存在が刻み込まれる番だ。
「い……いや……」
ナイフに映る、絶望に歪んだ私の顔。その奥で、私を見下ろす、嬉しそうに細められた彼の瞳。時間が、割れた水の中に沈んでいくように、ゆっくりと流れていく。
──「口元が歪んでるわ。」
懐かしい、恐ろしくもある声が、脳裏をかすめる。
──「女なら、」
「──“常に美しくありなさい”。」
その声が、彼の口から聞こえた気がした。
(きょうは、ちゃんとみえるはずなのに。どうして、)
霞む視界の向こうで、彼の姿が、母と重なる。
あぁ、
ほんとうに──
母が、笑っている。
私は、できうる限りの、最上級の微笑みを母の幻影に捧げた。
一筋の線を描いて頬を流れ落ちたのは、涙か、それとも雨か。
……もう、分からなかった。
◆◆
「あーあ、やっぱ閉まってるかぁ…」
女はがっくりと肩を落とした。
時刻は午前一時半。
残業帰りの女は、疲れ切った表情でバーの前に立ちつくしている。
つい先ほどまで降っていた雨は、ぴたりと止んでいた。水音が消えた街は、どこか、音という概念そのものを失った空間のようだった。
女は、自分だけが一人、この世界に取り残されてしまったような感覚に襲われる。
思わず小さく身震いし、再びバーのドアに視線を向けた。
けれど、薄暗いドアガラス越しに浮かぶ「CLOSED」の文字は、変わらず女に無情な現実を突き付けていた。
「…帰ろっと」
女は諦めて踵を返した。
生温かい風が首筋を撫で、抜けていく。まるで、「行っては駄目」と誰かの息が耳元で訴えかけたように。
──その時だった。
「そのお店なら、もうとっくに終わってますよ。」
振り返った先には、美しい声に見合った、美しい容姿の男。
その男は── 真紅の薔薇を五十本、お揃いの“赤”に染まった手で、愛おしそうに抱いていた。
花葬 紅葉 葵 @Aoi-Momizi
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