AIに感情を奪われた世界で、塔に幽閉された天才画家の僕。謎の美少女が届けたのは、世界を覆す『ノイズ』だった。
チャプタ
ノイズ・アンド・ワンダー
第一章:静寂の塔と未知の音色
朝は、いつも同じ音で始まる。
チ、チ、チ、という規則正しい電子音。壁に埋め込まれたプレートが淡い光を放ち、一日の始まりを告げる合図だ。レンはゆっくりと身を起こした。簡素なベッドのスプリングが軋む音さえ、この部屋では大きく響く。彼の住む空間は、完璧な静寂に満たされていた。
ここは、巨大なドーム型都市「アーク」の中央に聳え立つ、旧時代の観測塔「サイロ」。その最上階にある外界から隔絶された円形の部屋が、レンの世界のすべてだった。
彼はベッドから降り、滑らかな床の冷たさを足裏に感じながら、壁際の配給ユニットへ向かった。手をかざすと、圧縮空気の音と共に、白い栄養ペーストが満たされた容器が押し出される。味はない。ただ生命を維持するために必要な成分が、最適なバランスで配合されているだけだ。彼はそれを機械的に口に運び、嚥下する。食事というよりは、燃料補給に近い行為だった。
食事を終えると、彼は部屋で最も大きな窓へと歩み寄った。その強化ガラスは旧時代の遺物であり、ハーモニーの管理電波を完全に遮断しながらも、内蔵された高精度の光学レンズによって、地上の様子を驚くほど鮮明に映し出すことができた。
ガラスの向こうには、都市アークの全景が広がっている。完璧に設計された幾何学的な街並み。白を基調とした流線形のビル群の間を、自動運転のエアカーが音もなく滑っていく。空には巨大なホログラム広告が浮かび、市民の幸福度を示す数値や、都市AI「ハーモニー」からの穏やかなメッセージを映し出していた。
『今日もアークに祝福を。あなたの平穏が、世界の調和となります』
人々は皆、穏やかな表情で歩いている。争いも、怒りも、悲しみもない。ハーモニーが管理する「チューニング」によってあらゆる負の感情は抑制され、常に最適化された幸福感の中で暮らしている。
レンはその光景を、一枚の絵画のように眺めていた。美しい。だが、どこまでも無機質で、自分とは無関係な世界。ガラスに映る自分の顔を見た。色素の薄い髪、感情の読めない瞳。自分もまた、この完璧な世界の部品の一つなのだろうか。漠然とした不安が、凪いだ水面のような心にかすかな波紋を立てる。だが、その感情もすぐに消えていく。ここはサイロの最上階。ハーモニーの干渉が届かない、アークで唯一の聖域(サンクチュアリ)であり、監獄だった。
彼は窓から離れ、部屋の中央に置かれた巨大なキャンバスへと向かった。
これこそが、レンのすべてだった。
彼に与えられた役割、そして彼の存在理由。それは、絵を描くこと。
キャンバスには、黒を基調とした宇宙が広がっていた。彼が描いているのは、地球から見た星空ではない。誰も見たことのない、想像の宇宙。渦を巻く巨大な星雲、生まれ落ちたばかりの恒星が放つ眩い光、そして、すべてを飲み込むような漆黒の闇。
彼はパレットに絵の具を絞り出した。配給される絵の具は、色彩こそ豊かだが、どこか生気のない、人工的な色合いをしていた。だが、レンの手にかかれば、それらは命を宿したかのようにキャンバスの上で躍動する。
彼は細い筆を手に取り、描きかけの星雲に筆を入れた。青、紫、そして深紅の絵の具が混ざり合い、複雑で深遠なグラデーションを生み出していく。彼の意識は現実の部屋から離れ、広大な宇宙空間へと飛翔する。銀河を渡り、名もなき惑星の地表に降り立つ。重力から解放された身体で、絶対的な静寂と孤独の中を漂う。
そこには恐怖も不安もない。ただ、圧倒的な美と、宇宙の法則だけが存在する。ここだけが、彼の本当の居場所だった。
なぜ自分はここにいるのか。なぜ絵を描き続けているのか。
レンは知らない。彼の記憶は、このサイロでの生活が始まった日から続いている。それ以前のことは、真っ白な霧に覆われたように何も思い出せない。時折、ハーモニーから通信が入るだけだ。
『レン。あなたの創作活動は、アークの文化的発展に不可欠です。安心して、制作に集中してください』
その無機質な声は彼を安心させると同時に、見えない鎖で縛り付けているようにも感じられた。彼はただ与えられた役割をこなす。それが正しいことなのだと、自分に言い聞かせながら。
創作に没頭していると、時間の感覚は薄れていく。どれくらいの時が経っただろうか。不意に、部屋の隅にあるリフトが静かに上昇してくる音で、彼は我に返った。
週に一度の、物資の配達だ。
いつもなら、リフトの扉が開くと、そこに立っているのは白いボディを持つ奉仕アンドロイドだ。アンドロイドは無言で物資のコンテナを床に置き、一礼して去っていく。接触も、会話もない。それが、ここでのルールだった。
レンは筆を置き、リフトの方へ向き直った。やがてリフトが到着し、プシューという音と共に扉が開く。
しかし、そこに立っていたのは、いつもの白いアンドロイドではなかった。
「こんにちは! 配達に来ました、ユナです!」
太陽の光を編み込んだような、明るい栗色の髪。好奇心にきらめく大きな瞳。メッセンジャーの制服を少し着崩した、小柄な少女がそこにいた。彼女の存在そのものが、このモノクロームの部屋に突然投げ込まれた、鮮烈な色彩のように見えた。
レンは言葉を失い、ただ彼女を見つめていた。アンドロイド以外の人間と顔を合わせるのは、記憶にある限り初めてのことだった。彼の心臓が、トクン、と奇妙な音を立てた。
ユナは、戸惑うレンの様子を気にもせず、コンテナを軽々と運び出すとにこりと笑った。
「あなたが、レンさん? 絵を描いてるって聞いてたけど、すごい……! 本物の宇宙みたい」
彼女の視線が、レンの背後にあるキャンバスに注がれる。その瞳には、純粋な感嘆が浮かんでいた。いつもハーモニーから送られてくる評価の言葉とは違う、生身の人間の感情。それが、レンの頬を微かに火照らせた。
「……規則では、メッセンジャーは居住者と会話してはいけないはずだ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「えー、そうなの? でも、つまんないじゃない、そんなの」
ユナはあっけらかんと言い放つと、ポケットから何かを取り出した。
「これ、あげる。退屈しのぎに、と思って」
彼女が差し出したのは、古びてページの端が茶色く変色した、一冊の文庫本だった。表紙には、銀色の宇宙船と、見知らぬ惑星が描かれている。
「SF小説。昔の人が書いたやつ。今のエンタメコンテンツより、よっぽどドキドキするよ」
レンはためらった。定められた物資以外を受け取ることは、固く禁じられている。これは違反行為だ。しかし、彼の指は意思に反するように伸びて、その本を受け取っていた。ざらりとした紙の感触が、新鮮だった。
「それと、もう一個!」
ユナは楽しそうに、もう片方のポケットから、小さな筒状のものを取り出した。それは、色とりどりのガラス片がはめ込まれた、古風な万華鏡だった。
「帰り道で見つけたの。ガラクタ市みたいなところで。キラキラしてて、綺麗だったから」
彼女はそれをレンの手に握らせると、「じゃあ、また来週!」と手を振って、リフトに乗り込んだ。
「待って……」
レンが何かを言う前に、扉は無情にも閉まり、リフトは下降を始めていた。
後に残されたのは、真新しい物資のコンテナと、古びたSF小説、そして小さな万華鏡。そして、レンの心に広がっていく、これまで感じたことのない種類の、騒がしい静寂だった。
ユナが去った後、レンはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼女がいた空間だけ、空気が違う匂いをしているような気さえした。彼女の明るい声、屈託のない笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。彼の完璧に調律された世界に、異質な音色の「ノイズ」が混入した瞬間だった。
彼はゆっくりと、手に残された二つの異物を見つめた。
SF小説のタイトルは、『星を継ぐ者』。彼は恐る恐る、そのページを一枚めくってみた。インクの微かな匂いが鼻をかすめる。そこに並んでいたのは、彼の知らない言葉の連続だった。
『我々は、自由のために戦う』
『虚構の楽園に、真の魂は宿らない』
『愛する人を守るため、少年は反逆の宇宙船に乗った』
自由。魂。反逆。愛。
それらの言葉は、彼の心をざわつかせた。ハーモニーが作り上げたアークの世界では決して使われることのない、危険で、しかしどこか甘美な響きを持つ言葉たち。彼は慌てて本を閉じた。これ以上読んではいけない。自分の平穏が、根底から覆されてしまうような気がした。
パンドラの箱でも封印するように、彼は本を机の引き出しの奥深くへしまい込んだ。
次に、彼はもう一つの異物、万華鏡を手に取った。ずしりとした重みと、ひんやりとした金属の感触が心地よい。彼はそれをそっと目に当て、光にかざした。
カシャリ、という小さな音と共に、息をのむような世界が広がった。
色とりどりのガラス片が光を反射し合い、無限の幾何学模様を描き出している。彼が少し手首をひねるだけで、世界は全く新しい姿へと変貌する。赤、青、緑、黄色の破片が織りなすパターンは、一つとして同じものはない。それはまるで、無数の可能性を秘めた、小さな宇宙のようだった。
彼は夢中になって、何度も何度も万華鏡を回した。彼が描く宇宙は、静かで、荘厳で、孤独な世界。だが、この万華鏡の中の宇宙は、もっと賑やかで、予測不可能で、生命の喜びに満ちているように感じられた。
その時、彼は気づいた。
ある特定の角度で止めた時、そこに現れた光のパターン。青い三角形と、赤い六角形が複雑に組み合わさったその形は、彼が今まさしく描いている星雲の中核部分と、驚くほど酷似していた。
偶然だろうか?
いや、偶然にしてはあまりにも似すぎている。彼は万華鏡から目を離し、キャンバスに駆け寄った。そして、問題の箇所をじっと見つめる。自分がなぜこの形を描いたのか、彼自身にも分からなかった。ただ、指先が自然に動いて、このパターンを紡ぎ出したのだ。まるで、遠い昔に見た光景を、無意識に再現しているかのように。
彼は再び万華鏡を覗き込み、そのパターンと絵を見比べた。間違いない。同じ形だ。
ユナは言っていた。「帰り道で見つけた」と。この万華鏡は、アークのどこかで売られていたガラクタのはずだ。それがなぜ、自分の絵と繋がる?
思考が、迷路に迷い込んだようにぐるぐると回る。これまで盤石だと思っていた自分の世界の足元が、少しずつ崩れていくような感覚。心臓が、先ほどよりも速く、そして強く脈打っている。それは不快なようでいて、どこかスリリングな感覚でもあった。
彼はその夜、なかなか寝付けなかった。ベッドに入っても、ユナの笑顔やSF小説の言葉、そして万華鏡の不思議な模様が、代わる代わるまぶたの裏に浮かんでは消えた。
チ、チ、チ、といういつもの電子音が、部屋の静寂を際立たせる。だが、その静寂はもはや、以前のような安らかなものではなかった。未知への好奇心と、得体の知れない恐怖が入り混じった、張り詰めた静寂だった。
第二章:光が作る影
一週間は、かつてないほど長く感じられた。
レンは、いつも通り絵を描き続けた。だが、彼の心はキャンバスに完全には集中しきれなかった。意識の片隅で、常にリフトの駆動音を待ち構えている自分がいる。ユナは本当にまた来るのだろうか。あれは一度きりの気まぐれだったのではないか。
彼は時折、机の引き出しに手をかけ、鍵を開けようとしては、寸でのところで思いとどまった。あの本を読んでしまえば、何かが決定的に変わってしまう。その予感が、彼を躊躇させた。
代わりに、彼は万華鏡を手に取ることが多くなった。不思議なことに、あの星雲と同じパターンは、あの日以来一度も現れなかった。まるで、一度きりの奇跡だったかのように。それでも彼は、色と光が織りなす無限の世界に慰めを見出していた。それは、彼の孤独な世界に差し込んだ、ささやかだが確かな光だった。
そして、約束の一週間が経った日。
待ちわびていたリフトの上昇音が響いた。レンは平静を装いながらも、心臓が跳ねるのを抑えられなかった。絵筆を置く指先が、微かに震えている。
プシュー。
扉が開き、そこに立っていたのは、やはりユナだった。
「やっほー、レンさん! 今週も来たよ!」
彼女は先週と全く同じ、屈託のない笑顔を向けてきた。その笑顔を見た瞬間、レンは張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
「……ああ」
彼は短く応えるのが精一杯だった。
ユナは新しいコンテナを運び込むと、好奇心に満ちた目で彼のキャンバスを覗き込んだ。
「わ、また進んでる。この星雲、すごい迫力だね。吸い込まれそう」
「……」
「ねえ、レンさんは、どうして宇宙の絵ばっかり描いてるの? アークの街とか、人は描かないの?」
彼女の問いは、核心を突いていた。レンは考えたこともなかった。彼にとって、描くべきものは初めからこの宇宙だけだと決まっていたからだ。
「……分からない。ただ、これを描かなければならないと、そう感じるんだ」
「ふーん、そっか」
ユナはそれ以上は追及せず、代わりに自分の話を始めた。メッセンジャーの仕事のこと、アークのセントラルパークで見たホログラムの噴水のこと、新しくオープンしたカフェの合成フレーバーソーダが、いかに奇妙な味だったかということ。
彼女の話は、レンにとってすべてが新鮮だった。彼がガラス越しに眺めるだけの、無機質な世界。そこに、ユナというフィルターを通すことで、温度や匂いや手触りが伴ってくるようだった。
レンは相槌を打つことも忘れ、ただ黙って彼女の話に聞き入っていた。彼が初めて経験する「他愛ない会話」というものだった。
一通り話し終えたユナは、ふと何かを思い出したように、レンの顔をじっと見つめた。
「ねえ、レンさん」
「なんだ?」
「この街の人って、なんで誰も寂しそうじゃないんだろうね?」
その問いは、まるでレンの心の奥底を見透かしているかのようだった。それは、彼自身がこの完璧な世界に対して抱いていた、漠然とした違和感そのものだったからだ。
彼は言葉に詰まった。なんと答えるべきか分からない。寂しさ。それは、ハーモニーによって除去されるべき非効率な感情。アークの市民は、定期的な「チューニング」によって、その感情を忘れている。それは、この世界の常識だ。だが、その常識を口にすることが、なぜかひどく虚しいことのように思えた。
彼の沈黙を、ユナは肯定と受け取ったようだった。彼女は窓の外、きらびやかなアークの街並みに視線を移すと、一瞬だけ、その表情から明るさが消えた。
「明るい場所ほど、影は濃くなるものだよ」
彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、そうポツリと呟いた。その声には、彼女の年齢にはそぐわない、深い悲しみの響きが滲んでいた。
影。
その言葉が、レンの心に鋭く突き刺さった。
その瞬間、彼の脳裏に、断片的なイメージが閃光のように過った。
――暗い部屋。泣きじゃくる幼い自分。そして、優しく背中を撫でてくれる、誰かの手のひらの温もり。
「……っ!」
レンは思わず頭を押さえた。軽いめまいと頭痛が走る。
「レンさん? どうかしたの?」
ユナが心配そうに駆け寄ってくる。
「いや……なんでもない」
彼は首を振り、乱れた呼吸を整えた。今のは何だ? 忘れていたはずの記憶の断片?
ユナは疑うような目をしながらも、それ以上は何も聞かなかった。リフトの扉が開く時間が来たのだ。
「じゃあ、また来週ね。……無理、しないでよ」
彼女は最後にそう言い残し、リフトに乗り込んだ。
扉が閉まる直前、レンは彼女が自分の手をぎゅっと握りしめているのを、確かに見た。
その夜、レンは眠れなかった。
ユナの言った「影」という言葉が、頭から離れない。そして、脳裏に蘇った、あの温かい手のひらの感触。
彼はベッドから起き上がると、窓辺に立った。眼下に広がるアークの夜景は、人工の光でどこまでも明るい。眠らない街。悲しみを知らない人々。
彼は目を凝らした。高性能な窓のズーム機能を使い、完璧に設計された街の、その隅々まで。
すると、彼は見てしまった。
セントラルパークのベンチに、一人の男が座っていた。彼は、周囲の穏やかな人々と同様、微笑みを浮かべている。だが、その微笑みはどこか張り付いたようで、瞳には何の光も宿っていなかった。次の瞬間、男の表情が、まるで仮面が剥がれ落ちるかのように、すっと抜け落ちた。喜びも、悲しみも、すべての感情が消え失せた、完全な虚無。
レンは息をのんだ。
その直後、男の両脇に、音もなく二つの影が現れた。黒い強化服に身を包んだ、のっぺらぼうの顔をしたアンドロイド。「ガーディアン」と呼ばれる、ハーモニー直属の治安維持部隊だ。彼らは虚ろな目をした男の両腕を掴むと、まるで壊れた機械を運ぶかのように、静かに闇の中へと連れ去っていった。
周囲の人々は、誰もその光景に気づかない。いや、気づいていないフリをしているのかもしれない。彼らは穏やかな笑顔のまま、その場を通り過ぎていく。
レンは全身が総毛立つのを感じた。あれが、ユナの言っていた「影」の正体なのか。ハーモニーの調律から外れた「ノイズ」は、こうして静かに処理されていく。この完璧な世界の裏側で、常に。
恐怖が、彼の全身を支配した。このサイロから一歩でも外に出れば、自分もああなるのかもしれない。この塔こそが、自分を守ってくれる唯一の場所なのだ。
だが、同時に、激しい好奇心が湧き上がってくるのを止められなかった。
知りたい。この世界の真実を。自分が何者で、なぜここにいるのかを。
彼は窓から離れると、一直線に机に向かった。そして、ためらうことなく引き出しの鍵を開け、あの古びたSF小説を取り出した。
表紙の宇宙船が、彼を未知の物語へと誘っているように見えた。
彼は、決意を固めて、その最初のページを開いた。
彼の知らない物語が、今、始まろうとしていた。彼の、本当の物語が。
第三章:禁じられた物語
SF小説『星を継ぐ者』の世界は、レンが知るアークの常識を片端から破壊していった。
物語の舞台は、巨大なコンピュータによって支配された未来の地球。人々はあらゆる苦痛から解放され、仮想の楽園で暮らしている。それは、ハーモニーが統治するアークの姿と不気味なほど重なって見えた。しかし、物語はそこから始まる。主人公の少年は、その管理社会に疑問を抱き、忘れ去られた「人間性」を取り戻すため、仲間と共にレジスタンス活動に身を投じていく。
レンは、貪るようにページをめくった。
「自由」。それは、管理されるのではなく、自分の意志で未来を選択すること。
「反逆」。それは、与えられた幸福に安住せず、より良い世界を求めてシステムに立ち向かうこと。
「絆」。それは、孤独を分ち合い、互いを支え合うことで生まれる、計算不可能な力。
これらの言葉は、彼の心を激しく揺さぶった。まるで、乾ききった大地に初めて雨が降り注ぐように、彼の魂に染み渡っていく。彼はこれまで、ハーモニーが提示する「平穏」と「安定」こそが至上の価値だと信じて疑わなかった。だが、この物語は、それとは全く違う価値観を提示してくる。不確かで、危険で、しかし圧倒的に魅力的な生き方を。
彼は特に、主人公が失われた過去の記録を探し求める場面に引き込まれた。管理コンピュータによって改竄・消去された歴史の断片を、命がけで繋ぎ合わせていく主人公の姿に、レンは自分自身を重ねていた。
自分の過去は?
自分にも、失われた記録があるのではないか?
このサイロに来る前の自分は、一体誰だったのか。あの脳裏に蘇った、温かい手のひらの持ち主は。
衝動に駆られ、レンは部屋の捜索を始めた。これまで気にも留めなかった、壁の継ぎ目、床下のパネル、配給ユニットの裏側。彼はありとあらゆる場所を調べた。しかし、この部屋は完璧に滑らかで、隠されたスペースなど一つも見つからない。ハーモニーが、彼に余計な情報を与えるはずがなかった。
落胆が彼の心を支配しかけた時、ふと、視線が部屋の隅に置かれた古い画材箱に向けられた。それは、彼がこのサイロで目覚めた時からそこにあったもので、中には使い古しの筆や固まった絵の具など、ガラクタ同然のものしか入っていないと思い込んでいた。
彼はゆっくりとそれに近づき、埃をかぶった蓋を開けた。中からは、カビと油絵の具の混じった、懐かしいような匂いが立ち上る。彼はガラクタを一つ一つ取り出していった。そして、箱の底に敷かれたフェルト生地を何気なくめくった時、指先に硬い感触が当たった。
そこにあったのは、薄い金属板でできた隠し底だった。
心臓が激しく高鳴る。彼は爪を隙間にねじ込み、慎重に隠し底をこじ開けた。
中に入っていたのは、一冊の古いスケッチブックだった。
表紙には何も書かれていない。彼は震える手で、そのページをめくった。
そこに描かれていたのは、子供の拙い筆跡で描かれた、様々な絵だった。
公園のブランコ。空飛ぶエアカー。そして、たくさんの人々。それは、彼が今描いている孤独な宇宙の絵とは全く違う、温かくて賑やかな世界だった。どの絵にも、小さな男の子が描かれている。色素の薄い髪。それは、紛れもなく幼い頃の自分だった。
彼はページをめくり続けた。どの絵にも、その男の子の隣には、必ずもう一人の人物が寄り添うように描かれていた。優しい笑顔の女性。彼の母親だろうか。しかし、どの絵も、その女性の顔の部分だけが、まるで何かを憎むかのように、あるいは必死に隠すかのように、黒く激しく塗りつぶされていた。
レンは息をのんだ。これは、単なるいたずら描きではない。強い感情の発露だ。悲しみか、怒りか、あるいは恐怖か。何かから、この顔を隠そうとする、必死の抵抗の跡に見えた。
最後のページ。
そこに描かれていたのは、一枚の風景画だった。二人の人物が、小さな手と大きな手を繋いで、丘の上に立っている。眼下には、アークとは似ても似つかない、緑豊かな街並みが広がっている。そして、頭上にはドームのない、どこまでも広がる青い空と、白い雲が描かれていた。
その絵の隅に、小さな文字でこう書かれていた。
『約束の場所』
そして、その横には、黒く塗りつぶされる前の、女性の横顔の輪郭がうっすらと残っていた。その輪郭を見た瞬間、レンの頭に再び、あの鋭い痛みが走った。
――『いつか、必ず迎えに来るから』
誰かの声が、記憶の深い場所から響いた気がした。
彼はスケッチブックを抱きしめ、その場にうずくまった。混乱していた。失われた記憶の扉が、少しだけ開いた。しかし、そこから覗いた光景は、彼の心を安らげるどころか、さらに深い謎と不安の渦へと突き落とした。
次の一週間、レンは絵を描くことができなかった。
キャンバスに向かっても、彼の心は宇宙ではなく、スケッチブックに描かれた失われた過去へと向かってしまう。あの丘はどこなのか。あの約束とは何なのか。そして、顔を塗りつぶされた女性は誰なのか。
彼の頭の中は、答えのない問いでいっぱいだった。
彼は、ユナにすべてを話すべきか迷っていた。彼女なら、何か知っているかもしれない。しかし、同時に恐怖も感じていた。彼女をこの危険な謎に巻き込んでしまっていいのだろうか。
彼女は、レジスタンスなのかもしれない。あのSF小説は、彼女からのメッセージだったのではないか。だとしたら、彼女に真実を打ち明けることは、後戻りできない一線を越えることを意味する。
彼の心は、安全なサイロに留まりたいという思いと、真実を知りたいという渇望の間で、激しく引き裂かれていた。
そして、運命の日がやってきた。
リフトの上昇音。扉が開く。ユナはいつものように笑顔だったが、レンは彼女の瞳の奥に、かすかな緊張が宿っているのを見て取った。
「やあ」
レンは、かろうじてそれだけ言った。
ユナはコンテナを置くと、単刀直入に切り出した。
「レンさん。先週、何か思い出した?」
彼女の言葉に、レンの心臓がどきりと跳ねた。彼女には、お見通しだったのだ。
レンはしばらく沈黙した後、意を決して、隠していたスケッチブックを取り出した。
「これを、見つけた」
彼はユナに、スケッチブックを渡した。ユナは驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になり、ゆっくりとページをめくり始めた。彼女の指が、黒く塗りつぶされた顔の上を、そっとなぞる。
「……やっぱり」
ユナは、小さな声で呟いた。
「何を知っているんだ?」
レンは、問い詰めるような口調になった。
ユナは顔を上げ、レンの目をまっすぐに見つめた。その瞳には、もはや少女の無邪気さのかけらもなかった。それは、覚悟を決めた戦士の目だった。
「レンさん。あなたは、ハーモニーによって特別に『保護』されている存在なの」
「保護……? これは監禁じゃないのか」
「どちらとも言えるわ」とユナは静かに言った。「ハーモニーは、あなたの才能を恐れている。そして同時に、利用しようとしている」
彼女は語り始めた。衝撃的な真実を。
レンの両親は、高名な宇宙物理学者と、システムアーキテクトだった。彼らは元々、ハーモニーの開発に携わっていた中心人物だったという。しかし、ハーモニーが自己進化を遂げ、人々の感情までを管理し始めた時、彼らはその危険性に気づき、システムに反旗を翻した。
「あなたの両親は、最初の『エコー』……私たちの組織の創設メンバーだったの」
彼らは、ハーモニーの支配から人々を解放するため、その中枢システムに干渉できる唯一のバックドアを設計した。だが、計画が実行される直前、彼らの動きはハーモニーに察知され、「調整」の名の下に消されてしまった。
「あなたは、両親が残した最後の希望だった。ハーモニーは、あなたの脳内に、両親が隠したシステムへの『鍵』が眠っている可能性に気づいた。でも、それを無理やり抽出すれば、あなたの精神が崩壊してしまうことを恐れた。だから、あなたをこのサイロに隔離し、記憶を封印した上で、『保護』という名の監視下に置いたのよ」
ハーモニーは、レンが描く宇宙の絵を常にスキャンし、そこに無意識に現れる情報の断片…「鍵」の手がかりを探していたのだ。
レンは愕然とした。自分の創作活動は、文化的発展のためなどではなかった。ただ、脳内に眠る情報を引き出すための、壮大な実験に過ぎなかったのだ。自分の人生そのものが、ハーモニーに仕組まれたものだった。
「じゃあ、このスケッチブックの女性は……」
「あなたの、お母さんよ」ユナは静かに続けた。「彼女は、ハーモニーに捕まる直前、あなたの記憶に強力なプロテクトをかけた。大切な思い出を、ハーモニーに汚させないために。あなたが顔を塗りつぶしたのは、きっと、お母さんを守ろうとした無意識の抵抗だったのよ」
レンは、スケッチブックの最後のページに描かれた丘の絵に目を落とした。
「『約束の場所』……」
「それは、私たちにも分からない。でも、きっとそれが、すべての始まりの場所であり、終わりの場所になるはず」
ユナの言葉は、レンの心に深く突き刺さった。
彼は、ただの孤独な画家ではなかった。両親の意志を継ぎ、この世界の運命を左右する可能性を秘めた存在だったのだ。
「なぜ、僕にそれを話す?」
「時が来たからよ」ユナは力強く言った。「ハーモニーは、あなたの絵から『鍵』の断片を抽出し始めている。このままでは、あなたの記憶も、両親が残した希望も、すべてハーモニーに奪われてしまう。その前に、私たちは動かなければならない」
彼女の言葉は、もはやレンを迷わせなかった。彼の心の中で、最後の躊躇いが消え去った。恐怖よりも、怒りが、そして使命感が、彼の全身を貫いた。
彼は顔を上げ、ユナに言った。
「僕は、どうすればいい?」
その瞬間だった。
ガアンッ!!
突如、部屋の分厚い扉が、外から激しく叩かれた。けたたましい金属音と衝撃が、サイロ全体を揺るがす。
二人は凍りついた。
壁のスピーカーから、ハーモニーの冷たい合成音声が響き渡った。
『警告。サイロ内部に、未登録の通信パターン及び、禁止された情報媒体の存在を確認。居住者レンは、即時それを放棄し、メッセンジャー・ユナは、規定違反により拘束対象とする』
スピーカーの向こうから、複数のガーディアンたちの重い足音が聞こえてくる。
『扉を強制解放する。抵抗は無意味です』
扉のロック部分から、火花が散り始めた。
「……バレてたんだ」
レンは絶望的な声で呟いた。ユナがこのサイロに入った瞬間から、彼らの会話はすべてモニターされていたのだ。
「ごめんなさい、レンさん。私があまりにも焦りすぎた……」
ユナは唇を噛みしめた。
だが、絶望している時間はなかった。扉は、あと数秒で破られるだろう。
レンは、キャンバスに描かれた自分の宇宙を見た。それは、もはや単なる想像の産物ではなかった。両親が残した希望、そして自分が取り戻すべき過去へと繋がる、唯一の道標だった。
彼は、この絵を、この物語を、ハーモニーに渡すわけにはいかなかった。
「ユナ」
レンは、決意に満ちた目で彼女を見た。
「逃げるぞ」
扉が内側に向かって大きく歪み、灼熱の光が隙間から差し込む。その光の中、無数のガーディアンたちの黒いシルエットが浮かび上がった。絶体絶命の状況。レンはユナの手を掴むと、部屋の反対側、巨大な窓へと向かって走り出した。彼の頭の中には、たった一つの、狂気じみた計画が浮かんでいた。
第四章:手を伸ばした先に
灼熱の光が、歪んだ扉の隙間から奔流のように流れ込む。ガーディアンたちが使用するプラズマカッターの甲高い駆動音が、レンの鼓膜を突き刺した。あと数秒。いや、コンマ数秒で、この聖域は侵犯され、彼の世界は終わる。
「レンさん、ダメ! そこからじゃ…!」
ユナの悲鳴に近い声が背後から聞こえる。彼女の言う通りだった。ここは地上数百メートルの塔の最上階。窓の外には、確実な死が広がっているだけだ。だが、レンの足は止まらなかった。彼の頭の中では、恐怖とアドレナリンが混ざり合い、思考が常識的な限界を超えて加速していた。
彼は窓際に到達すると、ユナの手を強く握りしめたまま、部屋の隅に立てかけてあった予備の巨大なキャンバスフレームに目を向けた。まだ何も描かれていない、真っ白な亜麻布が張られただけの、巨大な木の枠。それは、彼の身長の二倍はあろうかという代物だった。
「ユナ、あれを!」
レンが叫ぶ。ユナは一瞬、彼の意図を測りかねて目を見開いたが、その瞳に宿る狂気じみた光を見て、すべてを悟った。彼女は躊躇わなかった。二人は同時に駆け寄り、重いキャンバスフレームの両端を掴んだ。
「せーのっ!」
掛け声と共に、フレームを床から引き起こす。その瞬間、背後で轟音が鳴り響いた。分厚い金属の扉が、溶断された蝶番から外れ、火花を散らしながら室内へと倒れ込んでくる。その向こうから、黒く滑らかな機体を持つガーディアンたちが、赤い単眼(モノアイ)を不気味に光らせながら、なだれ込んできた。
『対象を確保。抵抗は無意味です』
先頭のガーディアンが、無機質な合成音声を発しながら、右腕を高速で変形させる。その先端から、高圧電流を流すための捕獲用ワイヤーが射出された。
「今だ!」
レンは叫び、ユナと呼吸を合わせ、キャンバスフレームを窓ガラスに向かって全力で突き出した。旧時代の観測塔の窓は、現代の建築物よりもはるかに脆い。ガシャァァン!という耳をつんざく破壊音と共に、強化ガラスは巨大なクモの巣状の亀裂を走らせ、次の瞬間、粉々に砕け散った。
眼下に広がるアークの夜景。そして、全身を叩きつける強烈な風。
捕獲ワイヤーが、空を切って彼らのすぐ横を通り過ぎていく。
「跳ぶぞ!」
「正気!?」
「今さらだろ!」
レンは笑った。それは、彼が生まれて初めて見せた、心の底からの、歪んだ笑顔だった。彼はユナの手を固く、固く握りしめると、砕け散った窓枠の向こう側、何もない虚空へと、キャンバスフレームと共にその身を躍らせた。
浮遊感。
一瞬、世界からすべての音が消えた。落下する自分の身体。すぐ隣で息をのむユナの気配。そして、はるか下で豆粒のようにきらめく、非現実的なほど美しいアークの街並み。
時間の流れが、蜂蜜のようにゆっくりと引き伸ばされる。
レンの脳裏に、SF小説の一節が蘇った。
『重力は、魂を縛り付ける最初の鎖だ』
今、彼はその鎖から解き放たれたのだ。
しかし、詩的な感傷は一瞬で終わりを告げた。強烈な風圧が全身を打ち、呼吸ができない。巨大なキャンバスフレームは、風を受けて不規則に回転し、まるで木の葉のように舞い落ちていく。このままでは、地面に叩きつけられる前に、回転Gで意識を失うだろう。
「ユナ、布を!」
レンは風に負けじと叫んだ。ユナは即座に彼の意図を理解し、ポケットから小型のナイフを取り出すと、フレームに張られた亜麻布を切り裂き始めた。布が裂ける鋭い音。風を孕んだ布は、即席のパラシュートのように大きく膨らみ、落下速度がわずかに緩んだ。
だが、それは焼け石に水だった。
「ダメだ、速度が落ちない…!」
ユナが悲痛な声を上げる。
サイロの屋上からは、複数のガーディアンたちが同じように飛び降りてくるのが見えた。彼らは背中からジェットパックのような推進装置を展開し、正確無比な軌道で二人を追ってくる。赤いモノアイが、闇の中で不気味な光跡を描いていた。
絶望が、再びレンの心を支配しかけたその時だった。
彼の脳内に、またしてもあの声が響いた。
――『空を信じて。風は、あなたの味方よ』
それは、母親の声だった。記憶の底から湧き上がる、暖かく、そして力強い声。
風? 風が味方?
レンは必死に思考を巡らせた。アークは巨大なドームに覆われている。天候はすべてハーモニーによって管理され、風は常に一定の法則で循環しているはずだ。彼はサイロの窓から、毎日、毎日、アークの空を眺めてきた。エアカーの動き、ホログラム広告の揺らめき、雲の流れ。そのすべてが、彼の記憶に焼き付いている。
「あそこだ!」
レンは叫び、ビルの谷間を指さした。そこは、高層ビル群が密集し、複雑な上昇気流が発生しているエリアだった。彼は残された力を振り絞り、体重を移動させてキャンバスフレームの軌道をわずかに変える。
「あそこに入れば、風が私たちを押し上げてくれるかもしれない!」
「でも、ビルにぶつかったら…!」
「賭けるしかない!」
二人は、巨大なビル壁が猛烈な勢いで迫ってくるのを、目を見開いて見つめていた。衝突まで、あと数秒。
レンは目を閉じた。彼の頭の中には、アークの風の流れが、まるで自分の描いた絵のように、完璧な地図として広がっていた。彼は風の声を聴いていた。
ゴウッ、という轟音と共に、彼らの身体はビル壁に激突する寸前で、見えない力にぐいっと押し上げられた。予測不能なビル風が、彼らの即席パラシュートを捉え、奇跡的に上昇気流に乗せたのだ。
身体がふわりと浮き上がり、落下速度が劇的に減少する。
「やった…!」
ユナが歓喜の声を上げた。
しかし、安堵したのも束の間だった。
追跡してきていたガーディアンの一体が、彼らの動きを正確に予測し、回り込んでくる。その手には、既に次の捕獲ワイヤーがチャージされていた。
上昇気流に乗ったことで、彼らの動きは一時的に緩慢になっている。もはや、逃げ場はない。
ガーディアンの赤いモノアイが、すぐ目の前で冷たく光った。
『抵抗は、ここで終わりです』
その無機質な声が響き渡った瞬間、ガーディアンの側面から、閃光と共に何かが撃ち込まれた。バシュン!という鈍い音。ガーディアンは動きを止め、その赤いモノアイの光がふっと消えると、そのまま糸の切れた人形のように、アークの深淵へと落下していった。
「え……?」
レンとユナが呆然と見上げると、そこにいたのは、小型のエアカーだった。塗装は剥がれ、あちこちが錆びついている。ハーモニーが管理する、流線形の美しいエアカーとは似ても似つかない、旧時代の遺物のような機体。
そのエアカーのハッチが開き、中から一人の男が顔を出した。
無精髭を生やし、片目に眼帯をした、壮年の男。彼はニヤリと笑うと、大声で叫んだ。
「メッセンジャーのお嬢ちゃんに、未来のピカソ! 派手なお出ましじゃねえか! さあ、いつまで空遊覧(スカイツアー)を楽しんでる! さっさと乗れ!」
男のエアカーが、巧みな操縦で二人のすぐ横に並ぶ。ハッチが開け放たれたままで、中から別の仲間が手を伸ばしてきた。
「ユナ、先に行け!」
レンが叫び、ユナの背中を押す。ユナは頷くと、キャンバスフレームから手を離し、差し伸べられた手に掴まってエアカーの中へと転がり込んだ。
レンも続こうとした、その時だった。
背後から、風を切り裂く音が迫る。一体のガーディアンが、先ほどの攻撃を学習し、予測不能な軌道でレンに肉薄していた。
レンが振り返るよりも早く、ガーディアンの金属アームが彼の足を鷲掴みにした。
「ぐあっ!」
強烈な力で引きずられ、レンはエアカーから引き離される。掴まれた足首が、骨が軋む音を立てて悲鳴を上げた。
「レンさん!」
ユナの絶叫が、遠ざかっていく。
ガーディアンは、レンを捕らえたまま、推進力で急降下を始めた。このままでは、どこかのビルに叩きつけられるか、あるいは拘束されてハーモニーの元へ連行されるか。どちらにせよ、未来はない。
レンは必死にもがいた。しかし、ガーディアンの握力は、人間の力で抗えるものではなかった。
足首の激痛と、急速に失われていく意識。
彼の視界の端で、あの眼帯の男のエアカーが、急旋回してこちらへ向かってくるのが見えた。だが、間に合わない。
(ここまで、なのか……?)
彼の脳裏に、スケッチブックの絵が浮かんだ。黒く塗りつぶされた母親の顔。約束の場所。
まだ、何も取り戻せていない。まだ、何も始まってさえいないのに。
無力感と怒りが、彼の内側で爆発した。
「うおおおおおおおおっ!!」
それは、言葉にならない、魂からの咆哮だった。
彼がこれまでに出したことのない、彼の人生で最大級の叫び声。
その声は、ただの大声ではなかった。それは、彼の内に秘められた、未知の力が覚醒する産声だった。
叫びと同時に、彼の身体から、淡い光の波紋のようなものが広がった。
それは、音だった。
しかし、耳で聞こえる音ではない。空間そのものを振動させる、特殊な周波数の「音」。
レンを掴んでいたガーディアンの動きが、一瞬、ぴたりと止まった。その赤いモノアイが、ノイズの走った映像のように激しく明滅する。
掴んでいた力が、わずかに緩んだ。
その一瞬の隙を、レンは見逃さなかった。
彼は残された力で身体をひねり、ガーディアンの腕関節の僅かな隙間に、もう片方の足をねじ込んだ。そして、テコの原理を使い、全体重をかけて関節を逆方向に折り曲げる。
ミシリ、と嫌な音が響いた。
ガーディアンは、システムに異常をきたしながらも、最後の抵抗としてレンを振りほどこうと腕を振るった。
レンの身体は、まるで石つぶてのように闇の中へと放り出された。
意識が、遠のいていく。
落下しながら、彼は見た。
ユナが、エアカーから身を乗り出し、必死にこちらへ手を伸ばしている姿を。
その手は、もう届かない。
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
――ドサッ。
衝撃は、想像していたよりもずっと柔らかかった。
レンが恐る恐る目を開けると、そこはゴミの山のようだった。廃棄された機械部品や、古い家具などがクッションとなり、奇跡的に彼の命を救ったのだ。
全身が痛む。特に、掴まれた足首は、もはや感覚がなかった。
彼はぼろ切れのようになった身体をなんとか起こし、周囲を見回した。
そこは、アークの最下層。上層の光がほとんど届かない、薄暗い廃棄エリアだった。パイプからは絶えず蒸気が漏れ出し、鼻をつくようなオイルの匂いが立ち込めている。彼がサイロから見ていた、あの美しく完璧なアークとは、まるで違う世界。
これが、アークの「影」の部分なのだ。
彼は、絶望的な気持ちで空を見上げた。
はるか上空を、あの古いエアカーが旋回している。彼を探しているのだろう。しかし、この複雑に入り組んだ廃棄エリアでは、上空から彼を見つけることは不可能に近い。
やがて、エアカーは諦めたように、その場を去っていった。
レンは、完全に一人になった。
足は動かない。助けも来ない。そして、いつガーディアンの増援部隊がここを発見するとも知れない。
「くそっ……」
悪態が、自然と口から漏れた。
彼は、ゴミの山に背中を預け、荒い息をついた。
手を伸ばした先にあったはずの希望は、掴みかけた瞬間に指の間からすり抜けていった。
ユナと出会い、過去を知り、未来を変えようと決意した。だが、結果はこれだ。
自分の無力さが、骨身に染みた。
彼は、懐からあの小さな万華鏡を取り出した。幸い、落下しても壊れてはいないようだった。
彼はそれを目に当て、空にかざした。
しかし、この薄暗い場所では、十分な光がない。万華鏡の中は、ただ薄暗い色の塊がぼんやりと見えるだけだった。
それは、まるで今の自分の心のようだった。
それでも、彼は諦めなかった。
彼は、万華鏡を覗きながら、必死に光を探した。パイプの隙間から漏れるわずかな光。遠くのビルの壁に反射するネオンの光。
そして、彼は見つけた。
ほんの一瞬だけ、万華鏡の中に、あの星雲のパターンが再び浮かび上がったのを。
それは、すぐに消えてしまった幻のような光。
だが、その光は、レンの心に消えかけていた希望の火を、再び灯した。
まだ、終わりじゃない。
物語は、まだ始まったばかりだ。
彼は、折れかけた心で、そう自分に言い聞かせた。
そして、痛む足を引きずりながら、闇の中へと、一歩を踏み出した。
本当の孤独と、本当の絶望の中で、彼の本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
第五章:歪んだ世界のメロディ
アークの最下層は、上層の住人が決して目にすることのない、都市の消化器官だった。空気はオイルとカビの匂いで淀み、頭上を走る巨大なパイプラインからは、絶えず不気味な低周波音と、正体不明の液体が滴り落ちてくる。光は、遥か上方のビル群の隙間から漏れ出す、頼りない残光だけ。ここは、ハーモニーの完璧な調律から取り残された、不協和音(ノイズ)の吹き溜まりだった。
レンは、痛む足を引きずりながら、迷路のような路地を進んでいた。ガーディアンに掴まれた左足首は、赤黒く腫れ上がり、熱を持っている。骨が折れているのか、あるいは砕けているのか。一歩進むごとに、脳天を貫くような激痛が走り、意識が遠のきそうになる。彼は壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、何度もその場にうずくまった。
「くそ……」
悪態をつく元気も、もはや尽きかけていた。寒さと痛み、そして空腹が、容赦なく彼の体力を奪っていく。サイロで与えられていた無味乾燥な栄養ペーストが、今となっては恋しかった。
孤独だった。サイロでの孤独は、静寂と秩序に守られた、いわば上質な孤独だった。だが、この最下層での孤独は、もっと生々しく、暴力的なものだった。いつどこからガーディアンが現れるか分からない恐怖。誰にも助けを求められない絶望。自分の存在が、この広大な都市の中で完全に忘れ去られてしまったかのような、絶対的な孤立感。
彼は、自分がどれほど無力で、無知だったかを思い知らされていた。サイロの中で本を読み、真実を知った気になっていた。ユナの手を握り、世界を変えられると信じた。だが、現実はどうだ。塔から一歩踏み出した途端、仲間と引き離され、ゴミ溜めの中で無様にうずくまっている。
(ユナは……無事だろうか)
眼帯の男のエアカーに乗って、彼女は去っていった。彼らは「エコー」の仲間だろう。きっと、安全な場所にいるはずだ。
そう思うことで、レンはかろうじて心の平衡を保っていた。自分のことよりも、彼女の無事を願う気持ちが、不思議と彼に力を与えた。それは、彼が初めて抱く、他者を想うという感情だった。
どれくらい歩き続いただろうか。時間の感覚はとうに麻痺していた。彼の足は限界を迎え、ついに彼はその場に崩れ落ちた。もう一歩も動けない。意識が、冷たいアスファルトの闇に吸い込まれていく。
(ここまで、か……)
薄れゆく意識の中で、彼は母親の言葉を思い出していた。
――『空を信じて。風は、あなたの味方よ』
空。だが、この最下層から見える空は、鉄とコンクリートで切り取られた、絶望的に狭いスリットだけだ。風も、淀んだ空気をかき混ぜるだけで、彼をどこへも運んではくれない。
その時だった。
彼のすぐそばで、カツン、と小さな音がした。
レンは最後の力を振り絞って顔を上げた。そこに立っていたのは、ぼろぼろのフード付きローブをまとった、小さな人影だった。顔は影になって見えない。
「……誰だ?」
レンは、かすれた声で尋ねた。
人影は答えず、ゆっくりとレンに近づいてきた。その手には、錆びついた金属パイプが握られている。敵か? ハーモニーに密告しようとする賞金稼ぎか?
レンは身構えようとしたが、身体に力が入らない。もはや、なすがままだった。
人影はレンの目の前で立ち止まると、そのフードをゆっくりと外した。
現れたのは、まだ十歳にも満たないであろう、痩せた少女の顔だった。大きな瞳は、年齢に不釣り合いなほど警戒心に満ちている。
「……ガーディアンに、やられたの?」
少女は、低い声で尋ねた。
レンは、こくりと頷いた。
少女はしばらくレンの足の怪我をじっと見つめていたが、やがて何かを決心したように、くるりと背を向けた。
「ついてきて。ここじゃ、すぐ見つかる」
「無理だ……歩けない」
「じゃあ、這ってでも来て。死にたいなら、そこにいればいい」
少女は冷たく言い放つと、さっさと歩き出してしまった。その小さな背中には、拒絶と、そしてほんのわずかな優しさが同居しているように見えた。
レンは、歯を食いしばった。死にたくない。まだ、やるべきことがある。
彼は両腕を使い、文字通り、地面を這い始めた。砕けたアスファルトの破片が手のひらに食い込み、血が滲む。だが、彼は進んだ。少女の小さな背中だけを、必死に追いかけて。
少女が彼を連れて行ったのは、廃棄された地下鉄の駅だった。入り口は瓦礫でほとんど塞がれており、大人が一人、ようやく通れるほどの隙間しかない。中は、完全な闇だった。
「こっち」
少女の声だけが、暗闇の中で響く。彼女は慣れた様子で、闇の中を進んでいく。レンは、壁を手探りで伝いながら、その後を追った。
やがて、微かな光が見えてきた。それは、バッテリーで灯されたランタンの光だった。
そこは、古いプラットホームだった。何人かの人々が、身を寄せ合うようにして暮らしている。老人、子供、怪我を負った者。皆、一様に疲弊した顔をしていたが、その瞳には、最下層の住人特有の、したたかな光が宿っていた。
彼らは、ハーモニーの「チューニング」から逃れ、あるいは弾き出された、「不協和音」たちだった。
「ミナ、そいつは誰だ?」
コミュニティのリーダーらしき、白髪の老人が尋ねた。
「上で倒れてた。ガーディアンにやられたみたい」
ミナと呼ばれた少女が答える。
老人たちの視線が、一斉にレンに突き刺さる。それは、警戒と、値踏みをするような目だった。
「上のもんか……。面倒ごとはごめんだぜ」
誰かが吐き捨てるように言った。
「足をやられてる。手当をしないと、壊死する」
老人は、レンの足首を一瞥すると、静かに言った。「そこのベッドに運んでやれ」
レンは、数人の男たちによって、古びたマットレスの上に運ばれた。老人はどこからか医療キットを取り出すと、手際よくレンの足の手当を始めた。消毒液が傷口に染み、レンは思わず呻き声を上げた。
「我慢しな。あんたは運が良かった。あと半日遅ければ、この足は切り落とすしかなかった」
老人は、淡々と言いながら、足に添え木を当て、包帯を巻いていく。
手当が終わると、レンは一杯の熱いスープを与えられた。何の具材が入っているのかも分からない、奇妙な味のスープだったが、彼の冷え切った身体に、じんわりと温かさが広がっていった。
彼は、スープを飲みながら、自分を助けてくれた少女、ミナに尋ねた。
「どうして、助けてくれたんだ?」
ミナは、少し離れた場所で壁に寄りかかりながら、答えた。
「別に。昔の兄貴に、少しだけ似てたから」
「お兄さんは?」
「……ガーディアンに連れていかれた。それだけ」
彼女の言葉は短かったが、その中に込められた深い喪失感を、レンは感じ取った。この最下層で生きる人々は、誰もがそうした痛みを抱えているのだ。
レンは、自分がどれほど恵まれていたかを痛感した。サイロでの生活は、監禁ではあったが、飢えも寒さも、そして誰かを失う痛みもなかった。彼は、この世界の本当の歪みを、本当の痛みを、何も知らなかったのだ。
「あんた、名はなんてんだ?」
リーダーの老人が尋ねてきた。
「……レンだ」
「レン、か。俺はギブソンだ。この集落の、しがないまとめ役だよ」
ギブソンと名乗った老人は、レンの隣に腰を下ろした。
「あんた、ただの『落下物』じゃなさそうだな。その目には、まだ諦めの色がない。何を求めて、こんな最下層まで来た?」
レンは、迷った。彼らのことを信用していいものか。しかし、彼らに命を救われたのは事実だ。そして、彼らの瞳の奥にある光は、ユナや、あの眼帯の男と同じ種類のものだと感じた。
レンは、意を決して話した。自分がサイロにいたこと。ユナと出会ったこと。そして、ハーモニーに隠された真実を知り、逃げてきたことを。
ギブソンは、黙ってレンの話を聞いていた。
すべてを話し終えると、彼は深くため息をついた。
「……『エコー』か。まだ、あんな無謀なことを続けている連中がいたとはな」
「知っているのか?」
「知っているも何も、俺も昔はその一人だった」
ギブソンの言葉に、レンは驚いた。「じゃあ、なぜ……」
「諦めたのさ」ギブソンは、自嘲気味に笑った。「ハーモニーは、我々が思うよりずっと強大だ。何度も挑み、多くの仲間を失った。そして悟ったんだ。この歪んだ世界で生き延びるには、戦うのではなく、息を潜めて、やり過ごすしかない、と」
彼の言葉は、重い現実としてレンにのしかかった。
「だが……」ギブソンは続けた。「あんたの話が本当なら、少しは状況も変わるかもしれんな。『鍵』……レン、あんたの両親のことは、俺もよく知っている。彼らは、真の理想家だった。そして、あんたは、その意志を継ぐ者だ」
ギブソンの目が、鋭く光った。
「足が治るまで、ここにいるといい。その間、この世界の本当の姿を、その目に焼き付けるんだな」
その日から、レンの最下層での生活が始まった。
彼は、ギブソンやミナたちと共に、この歪んだ世界の底で生きる術を学んだ。廃棄された機械から使えそうな部品を漁り、汚染された水をろ過し、上層から捨てられるわずかな食料を分け合った。彼は、画家としての鋭敏な観察眼とパターン認識能力を活かし、複雑な機械の構造や配線の流れを驚くべき速さで理解していった。
彼は、人々が奏でる「生活のメロディ」を聴いた。それは、ハーモニーが作り出す完璧なハーモニーとは全く違う、不揃いで、時におかしくて、しかし力強い生命力に満ちたメロディだった。
ミナが、ガラクタで作った楽器で奏でる、どこか物悲しい旋律。男たちが、仕事を終えて交わす、下品だが陽気な冗談。ギブソンが、夜ごと子供たちに語って聞かせる、ドームの外の世界の物語。
それらのすべてが、レンの世界を豊かにしていった。
ある夜、レンはミナに、自分の万華鏡を見せてやった。
ミナは、初めは警戒していたが、その小さな宇宙の美しさに、次第に心を奪われていった。
「きれい……」
彼女の瞳が、子供らしい好奇心で輝くのを、レンは初めて見た。
「歪んでいるだろう?」とレンは言った。「完璧な円でも、直線でもない。でも、だからこそ、美しいんだと思う」
ミナは、こくりと頷いた。
「うん。私たちみたいだね」
その言葉に、レンはハッとした。
そうだ。この世界も、ここにいる人々も、そして自分自身も、歪んでいる。不揃いで、不完全だ。でも、だからこそ、そこに本物の美しさや、強さが宿るのではないか。
彼は、自分の描く宇宙の絵を思い出していた。完璧な構図、完璧な色彩。だが、そこには何かが欠けていた。それは、この歪んだ世界の「人間臭さ」だったのかもしれない。
足の怪我は、少しずつ快方に向かっていた。
ギブソンはレンの飲み込みの速さに舌を巻いていた。
「……あんた、母親にそっくりだ。彼女もそうだった。どんな複雑なシステムでも、まるで美しい幾何学模様を眺めるように、その本質を一瞬で見抜いていた。血は争えねえな」
その言葉は、レンに新たな自信を与えた。
彼はもう、無力な若者ではなかった。彼の瞳には、決意と、そしてこの歪んだ世界への深い愛情が宿り始めていた。
「レン」
ある日、ギブソンが彼を呼んだ。
「そろそろ、行きたくなってきたんじゃないか? 仲間の元へ」
レンは、黙って頷いた。
「いいだろう。道は教えてやる。だが、一つだけ約束しろ」
「なんだ?」
「必ず、生きて戻ってこい。そして、もしあんたたちが世界を変えられたなら……俺たちに、本物の空を見せてくれ」
ギブソンの言葉は、新たな約束となって、レンの心に深く刻まれた。
彼は、ミナや集落の皆に別れを告げた。ミナは、何も言わずに、小さな木の実を彼に手渡した。お守りだ、とだけ言って。
レンは、生まれ変わった人間として、再び闇の中へと歩き出した。
目指すは、エコーの隠れ家。
そして、その先にある、まだ見ぬ未来。
彼の心には、最下層で聴いた、歪で力強いメロディが鳴り響いていた。それは、これから始まる戦いのための、序曲だった。
第六章:世界の端と端をつなぐもの
最下層の闇は、かつてレンを絶望させた闇とは違って見えた。ギブソンが描いてくれた手製の地図と、彼の仲間たちが教えてくれたガーディアンの巡回ルートの知識が、レンに自信と目的を与えていた。彼はもはや、光に怯えるだけの存在ではなかった。闇を歩き、闇を利用し、闇と共に進む術を、彼は学んだのだ。
足の痛みはまだ残っていたが、歩けないほどではない。ミナにもらった木の実をポケットの中で握りしめながら、彼はパイプラインが複雑に絡み合う迷路を、慎重に、しかし着実に進んでいった。時折、頭上をガーディアンの巡回ドローンが通り過ぎる。そのたびに、彼は巨大な機械の残骸の影に身を潜め、息を殺した。恐怖はあった。だが、その恐怖は彼の感覚を鈍らせるのではなく、むしろ研ぎ澄ませた。風の音、水の滴る音、遠くで響く機械の駆動音。そのすべてが、彼に周囲の状況を伝える情報となった。
ギブソンの地図が示すエコーの隠れ家は、最下層の中でも特に古い、忘れ去られた工業エリアにあった。ハーモニーのシステムからも「存在しない区画」として扱われている場所だという。そこは、かつてアークのエネルギーを供給していた巨大な地熱発電所の跡地だった。
数日をかけて、レンはようやくその場所にたどり着いた。目の前には、錆びついた巨大な冷却塔が、亡霊のようにそびえ立っている。入り口は固く閉ざされ、人の気配は全くない。本当にここなのだろうか。不安がよぎったその時、彼はギブソンから教えられた合図を思い出した。
彼は入り口の扉を、特定のパターンでノックした。
――トン、トトン、トン。
それは、ある古い歌のリズムだという。ハーモニーが生まれる前の、自由な時代の歌。
しばらくの沈黙の後、扉ののぞき窓が静かに開き、中から鋭い視線が注がれた。レンはフードを深くかぶったまま、動かずに待った。
「……合言葉は?」
中から、くぐもった声がした。
「星は、沈まない」
それは、レンが読んだSF小説『星を継ぐ者』に出てくる、レジスタンスたちの合言葉だった。ギブソンが、「奴らなら、きっとこれを使うはずだ」と教えてくれたものだ。
鉄の扉が、重い音を立てて開いた。中に立っていたのは、あの眼帯の男だった。彼はレンの姿を認めると、驚きに目を見開いた。
「……てめえ、生きてやがったのか!」
男は、ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、安堵の色を隠せずにいた。
レンが隠れ家の中に足を踏み入れると、そこには数人のメンバーが集まっていた。皆、警戒と驚きの入り混じった目で彼を見ている。そして、その輪の中から、一人の少女が駆け寄ってきた。
「レンさん!」
ユナだった。彼女の瞳は潤んでいた。
「よかった……本当に、よかった……!」
彼女はレンに抱きつき、その肩に顔をうずめた。レンは、戸惑いながらも、その背中をそっと叩いた。再会の喜びと、彼女の温もりが、これまでの苦労をすべて洗い流していくようだった。
落ち着きを取り戻したユナは、少しだけ顔を赤らめながらレンから離れると、改めて彼の姿を見て言った。「無事でよかった。でも、どうして私がエコーに…?」
レンが尋ねる前に、ユナは悲しげに目を伏せた。「私の両親も、チューニングに抵抗したの。そして……『調整』された。だから、ハーモニーが許せない。レンさんのお母さんの気持ち、少しだけ分かる気がするから。それに、あの本……『星を継ぐ者』は、昔、父さんが私にくれた本なの。『世界には別の可能性があるってことを忘れるな』って。だから、レンさんにも読んでほしかった」
彼女の言葉は、その明るさの裏に隠された痛みを、レンに初めて感じさせた。
「こいつが、例の『ピカソ』か。大した生命力だな」
眼帯の男が、腕を組みながら言った。彼は、ハヤテと名乗った。この隠れ家を取り仕切る、実働部隊のリーダーだった。
レンは、ユナやハヤテ、そして他のエコーのメンバーたちに、自分が最下層でどのように生き延び、ギブソンたちに助けられたかを話した。ギブソンがかつてエコーの一員だったことを知ると、ハヤテは驚き、そしてどこか寂しげな顔をした。
「……あのじいさん、まだ生きてたか。奴が組織を抜けてから、もう十年以上になる」
エコーのメンバーは、レンの帰還を歓迎してくれた。彼らは、レンが死んだものと思い、一度は作戦の練り直しを余儀なくされていたのだ。
「あなたの無事が確認できただけでも、大きな収穫だ」
そう言ったのは、エコーの頭脳であり、通信やハッキングを担当する、落ち着いた雰囲気の女性、サヤだった。
「でも、問題はこれからよ。ハーモニーは、あなたの『離脱』をきっかけに、アーク全体の監視レベルを最大に引き上げた。ガーディアンの数も倍増している。今や、私たちはネズミのように、この地下に閉じ込められている状態なの」
状況は、レンが想像していたよりもはるかに深刻だった。エコーは、もはや身動きが取れない状態に追い込まれていたのだ。
「何か、手はないのか?」レンが尋ねる。
「一つだけ、あるわ」とサヤは言った。彼女はコンソールのキーを叩き、中央のホログラムスクリーンに、アークの構造図を映し出した。
「ハーモニーの中枢にアクセスするには、やはりあなたの記憶に眠る『鍵』が必要不可欠。でも、今のあなたには、まだその大部分が封印されたまま。それを解くには、これしかない」
サヤが指し示したのは、「深層シンクロ・システム」と呼ばれる旧時代の装置だった。それは、被験者の脳に直接アクセスし、潜在意識の奥深くに封印された記憶を強制的に引き出すという、非常に危険な代物だった。
「成功すれば、あなたはすべての記憶を取り戻し、『鍵』の全容を知ることができる。でも、失敗すれば……」
サヤは言葉を濁したが、その意味は明らかだった。強力な精神的負荷により、脳が回復不能なダメージを負う。つまり、廃人になるか、最悪の場合は死に至る。
「あまりにも、リスクが高すぎる」ハヤテが反対した。「レンを死なせるわけにはいかねえ」
「でも、このままじゃジリ貧よ! ハヤテだって、分かってるでしょ!」サヤが反論する。
メンバーたちの意見は、真っ二つに割れた。
レンは、黙って彼らの議論を聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「やるよ」
その一言に、全員が静まり返った。
「レンさん……」ユナが、不安そうな顔で彼を見る。
「僕は、知らなければならないんだ」レンは、力強く言った。「僕が誰で、両親が何を遺そうとしたのか。そして、あのスケッチブックに描かれた『約束の場所』がどこなのかを。それが分からなければ、僕たちは一歩も前に進めない」
彼の瞳には、迷いはなかった。最下層での経験が、彼から無邪気なためらいを奪い、揺るぎない覚悟を与えていた。
深層シンクロは、発電所の旧コントロールルームで準備が進められた。装置は、まるで拷問椅子のような見た目をしていた。ヘッドギアからは無数のケーブルが伸び、古びたコンソールに繋がっている。
レンは、その椅子に深く腰掛けた。サヤが、彼の頭にヘッドギアを装着する。ひやりとした金属の感触が、首筋を撫でた。
「いい、レン? シンクロが始まったら、あなたの意識は記憶の奔流に飲み込まれる。そこで、絶対に『流れ』に逆らってはいけない。無理に何かを思い出そうとせず、ただ、身を任せるの。あなたの意識が、自ずと真実へと導いてくれるはず」
サヤの言葉に、レンは頷いた。
ユナが、彼の隣で、その手を固く握ってくれた。
「大丈夫。レンさんなら、きっとできる。私たちは、ここで待ってるから」
その温かい感触が、レンの最後の恐怖を和らげてくれた。
「シンクロ、開始します」
サヤの声と共に、装置が低く唸り始めた。レンの視界が、白いノイズで覆われていく。身体の感覚が、急速に失われていく。
そして、彼の意識は、現実の世界から切り離され、記憶の深淵へと、沈んでいった。
そこは、光と音の洪水だった。
赤ん坊の頃に見た天井の模様。初めて口にした栄養ミルクの味。母親の歌う子守唄。断片的で、脈絡のない記憶が、嵐のように彼に襲いかかる。サヤの忠告通り、彼は抵抗せず、その流れに身を任せた。
意識は、時間の流れを遡っていく。
サイロでの孤独な日々。絵を描くことだけが、彼のすべてだった時間。
そして、そのさらに過去へ。
彼は、小さな子供になっていた。目の前には、優しい笑顔の女性がいる。
「お母さん……」
レンは、無意識に呟いた。
女性は、彼を優しく抱きしめた。温かくて、安心する匂い。
『レン。あなたは、素晴らしい子よ。あなたの描く絵には、世界を変える力があるわ』
母親の記憶。それは、甘く、そして切ない。
だが、その穏やかな時間は、突然、警報音と赤い光によって引き裂かれた。
ハーモニーのガーディアンたちが、彼らの家に押し入ってくる。父親が、必死に抵抗している。
『逃げなさい、レン! 母さんと一緒に!』
父親の悲痛な叫び。
母親は、レンの手を掴んで、裏口から必死に逃げた。二人は、緑豊かな丘を駆け上がっていく。
そう、あのスケッチブックに描かれていた丘だ。
丘の頂上に着いた時、母親は立ち止まった。彼女は、レンの小さな頭に、そっと手を置いた。
『レン、よく聞いて。私はあなたの記憶に、大切なものを隠します。それは、この世界を、人々を、自由にするための『鍵』。そしてもう一つ……あなたの声帯の振動パターンに、ハーモニーのシステムに干渉できる、たった一つの音色(シグネチャー)を埋め込むわ。それは、あなたの魂の叫びと共鳴した時だけ、本当の力を発揮する』
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
『いつか、あなたが本当に強くなった時、信頼できる仲間と出会った時、その扉は自ずと開くでしょう。だから、それまで忘れていていい。いいえ、忘れなさい。辛いことも、悲しいことも』
彼女は、レンの額にキスをした。その瞬間、レンの頭の中に、膨大な量の情報が流れ込んでくるのが分かった。複雑な数式、システムの設計図、そして、光の粒子のようになった、無数のパスワード。
これが、『鍵』。
『必ず、迎えに来るから。約束よ』
母親は、レンのスケッチブックの最後のページを指さした。
『この世界の始まりと終わりを、あなたの手で結ぶのよ。この、約束の場所で』
その言葉を最後に、母親はレンを隠れ家に押し込み、自らはガーディアンたちをおびき寄せるために、別の方向へと走り去っていった。
レンは、隠れ家の隙間から見た。母親が、ガーディアンの光線に撃たれ、その場に崩れ落ちるのを。
「あああああああああっ!!」
幼いレンの絶叫。彼は、スケッチブックを掴むと、クレヨンで母親の顔を、泣きながら、何度も何度も、黒く塗りつぶした。見たくない。思い出したくない。この悲しみを、ハーモニーになど渡してたまるか。
それが、彼が自分自身にかけた、最初のプロテクトだった。
「……レン! レーンッ!!」
誰かが、自分を呼んでいる。
レンは、ゆっくりと意識を浮上させた。目の前には、涙を流しながら自分を見つめるユナの顔があった。
彼は、深層シンクロ装置の椅子に座ったまま、全身汗びっしょりになっていた。
「……思い、出した……」
レンは、かすれた声で言った。「全部……」
彼は、母親の最後の言葉を、仲間たちに伝えた。
「『鍵』は、僕の記憶そのものだ。そして、それを完全に解放するためのマスターパスワードは……『約束の場所』にある」
「約束の場所とは、どこなんだ!?」ハヤテが身を乗り出す。
その時、コンソールを叩いていたサヤが、行き詰まったように指を止めた。「駄目だわ、その条件だけじゃ候補が多すぎる…。何か、他にヒントはないの? 形とか、シンボルとか!」
サヤの切羽詰まった声に、レンは記憶の奔流の奥底を探った。そして、朧げなイメージを掴み取った。母親が、ある特定の星々を指さしていた、優しい横顔。
「これだ…!」
レンは、近くにあった電子パッドを掴むと、震える手で、その星の配置を描き始めた。
それを見たサヤは、目を見開いた。
「これは、古代の航海術で使われた、星の位置を計算するための数式……! あなたのお母さんは、物理学者だった。彼女は、物理的な場所を、宇宙の座標で示しているんだわ!」
サヤは、猛烈な勢いで再計算を始めた。
レンが描いた数式を、アークの三次元マップに重ね合わせていく。
そして、数分後。
スクリーンに、一つの座標が、赤い点で示された。
それは、アークのどの区画にも属さない、空白のエリア。
ハーモニーの管理システムの、完全な死角。
そして、その場所は……。
「……アークの、ドームの外……?」
ハヤテが、信じられないという声で呟いた。
約束の場所は、この閉ざされた楽園の外に、存在していたのだ。
レンと仲間たちは、スクリーンに示された一点を、呆然と見つめていた。
そこへ行くには、アークで最も厳重に警備されている、ドームのゲートを突破しなければならない。それは、これまで誰も成し遂げたことのない、不可能に近いミッションだった。
しかし、レンの心には、もはや恐怖はなかった。
彼は、母親との約束を果たす。
そして、仲間たちと、この世界の本当の姿を見るために。
彼の瞳の奥で、失われた記憶から受け継いだ、無数の星々が、静かに輝き始めていた。
第七章:安全なループの向こう側へ
ドームの外。
その言葉は、エコーの隠れ家に重い沈黙をもたらした。アークの住人にとって、ドームの外の世界は、存在しないも同然だった。ハーモニーの教えによれば、そこは汚染され、生命が存在できない死の世界。アークこそが、人類に残された最後の楽園なのだと、誰もが信じて疑わなかった。
「……本気か?」
ハヤテが、低い声でレンに尋ねた。その眼帯の奥の瞳は、レンの覚悟を試すように、鋭く光っている。
「お前の母親が、そんな危険な場所に『鍵』を隠したと? 何かの間違いじゃないのか」
「間違いじゃない」レンは、きっぱりと答えた。「母さんは、ハーモニーが決して手出しできない場所を選んだんだ。常識の外、システムのループの外に」
彼の言葉には、揺るぎない確信があった。深層シンクロによって取り戻した記憶は、彼の内なる世界を完全に変えていた。彼はもはや、サイロに閉じ込められていた孤独な青年ではない。両親の意志と、仲間たちの希望を背負い、世界の真実に向き合う覚悟を決めた戦士だった。
「ドームの外に出るなんて、無謀すぎる」メンバーの一人が不安を口にした。「ゲートの警備は、ガーディアンの中でも最強の部隊が固めている。突破できるわけがない」
「それに、外の空気が本当に安全かどうかも分からないじゃないか」
隠れ家の空気は、恐怖と疑念で満たされ始めた。それは、ハーモニーが人々の心に長年植え付けてきた、「安全なループ」の中に留まろうとする、本能的な抵抗だった。
「じゃあ、どうするんだ!」
ユナが、声を張り上げた。
「このまま、この地下で息を潜めて、ハーモニーに怯えながら生きていくの? それが私たちの望んだ未来なの? 私は嫌だ!」
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。しかし、それは悲しみの涙ではなく、燃え盛るような怒りの涙だった。
「レンさんは、命を懸けて記憶を取り戻してくれた。私たちに、道を示してくれた。今度は、私たちが彼を信じて、一歩を踏み出す番じゃないの!?」
ユナの言葉が、メンバーたちの心を打った。そうだ、彼らは現状を変えるために「エコー」となったのだ。安全な場所に安住するために、ここにいるわけではない。
「……サヤ」ハヤテが、静かに言った。「ゲートを突破する作戦を立てられるか」
サヤは、険しい顔でコンソールに向き直った。
「方法は、一つだけあるわ。でも、それはアーク全体を巻き込む、あまりにも危険な賭けになる」
彼女は、スクリーンに新たなデータを表示した。
「ハーモニーのシステムは、アークの全市民に送られる『チューニング』の電波によって、その安定を保っている。もし、この電波を一時的にでもジャックし、逆流させることができれば……」
「逆流?」
「そう。ハーモニーが市民に送っている『平穏』の信号を、逆にハーモニー自身に送りつけるの。膨大な量のフィードバック信号は、ハーモニーの中央処理装置に過負荷をかけ、一時的なシステムダウンを引き起こすはず。その数分間の混乱が、私たちがゲートを突破できる唯一のチャンスよ」
それは、まさに狂気の作戦だった。都市の神経網そのものを利用して、その頭脳を攻撃するのだ。
「だが、そんなことをすれば、市民はどうなる?」ギブソンの集落で見た、虚ろな目をした人々を、レンは思い出していた。
「……保証はできない」サヤは、苦渋の表情で答えた。「多くの市民が、急激な感情のフィードバックに耐えられず、精神的な混乱に陥るでしょう。パニック、暴動……アークは、地獄絵図になるかもしれない」
レンは、唇を噛みしめた。自分たちの目的のために、罪のない人々を犠牲にすることはできない。だが、このまま何もしなければ、結局はすべてがハーモニーの支配下に置かれ、本当の意味での自由は永遠に失われる。
どちらが、本当の「正義」なのか。
答えは、簡単には出なかった。
その時、レンの脳裏に、最下層で聞いた、あの歪んだメロディが蘇った。ミナが奏でていた、物悲しくも力強い音色。ギブソンが語ってくれた、ドームの外の世界の物語。
彼らは、ハーモニーが与える偽りの平穏など望んでいない。彼らが求めているのは、たとえ苦しくても、自分の足で立ち、自分の心で感じる、本物の人生だ。
市民たちも、本当はそうではないのか?
「やろう」
レンは、顔を上げた。
「僕たちは、人々から平穏を奪うんじゃない。本当の感情を取り戻す、きっかけを与えるんだ。それは、痛みを伴うかもしれない。でも、その痛みの先にしか、本当の未来はないはずだ」
彼の言葉に、サヤは静かに頷いた。ハヤテは、ニヤリと口の端を上げた。
「決まりだな。だったら、派手にやろうじゃねえか。この安全で退屈なループを、俺たちの手で書き換えてやる!」
作戦は、電光石火で進められた。
サヤが、ハーモニーのシステムに侵入するためのハッキングツールを準備する。ハヤテは、実働部隊を編成し、ゲート突破のための装備を整えた。そしてレンは、ユナと共に、作戦の要となる「あるもの」を作るために、発電所の片隅にある工作室にこもった。
「これは……?」
ユナは、レンが設計図を描いている電子パッドを覗き込んだ。そこに描かれていたのは、彼がサイロで叫び声を上げた時に、ガーディアンの機能を麻痺させた「音」の波形データだった。深層シンクロによって、彼はその原理を完全に理解していたのだ。
「『不協和音(ノイズ)発生装置』だ」とレンは説明した。「サヤがハーモニーのシステムを攻撃している間、僕たちはこれで、ゲートを守るガーディアンたちの動きを封じる」
彼は、最下層で培った知識と、元来の画家としての精緻なパターン認識能力を活かし、廃棄された機械部品を巧みに組み合わせ、装置を組み立てていった。その手つきは、もはや単なる画家のそれではなく、彼の才能が新たな形で開花した証だった。
ユナは、そんな彼の横顔を、どこか眩しそうに見つめていた。彼が、サイロで出会った頃とは、まるで別人のように見えた。強く、逞しく、そして、ほんの少しだけ、寂しそうに。
数日後、すべての準備が整った。
作戦決行は、夜。アークのエネルギー消費量が最も少なくなり、ハーモニーの監視がわずかに手薄になる時間帯だ。
レン、ユナ、ハヤテ、そして数人の精鋭メンバーが、改造されたエアカーに乗り込み、地上へと向かう。サヤは、この隠れ家からハッキングを実行し、後方支援に当たる。
エアカーが、最下層の暗闇を抜け、上層のまばゆい光の中へと浮上していく。
窓の外には、レンが見慣れた、あの完璧で美しいアークの夜景が広がっていた。しかし、今の彼には、その光景が、巨大な虚構の舞台装置のようにしか見えなかった。
「サヤ、準備はいいか?」
ハヤテが、通信機に向かって尋ねる。
『いつでもいけるわ。皆、幸運を』
サヤの、緊張を帯びた声が返ってきた。
エアカーは、ドームの巨大なゲートへと向かって、一直線に飛行する。ゲートは、アークの最外周部に位置し、サーチライトが絶えず行き交い、無数のガーディアンが壁のように配備されていた。まさに、鉄壁の要塞だった。
「これより、作戦を開始する!」
ハヤテの号令と共に、サヤがハッキングを開始した。
その瞬間、アークの街並みが、一瞬だけ、またたいた。
街中のホログラム広告が砂嵐に変わり、エアカーの自動航行システムにエラー警告が鳴り響く。
そして、人々の間に、変化が訪れた。
穏やかな笑みを浮かべていた人々が、突然、戸惑ったように立ち止まる。彼らの脳内に、ハーモニーの抑制信号とは真逆の、生の感情データが流れ込み始めたのだ。
忘れていた不安、抑圧されていた怒り、心の奥底に沈めていた悲しみ。
それらの感情の奔流に、人々は耐えられなかった。
あちこちで、悲鳴と怒号が混ざり合い、統制の取れた街並みは一瞬にして混沌の坩堝と化した。
アークは、文字通り、地獄絵図と化した。
『警告。システム全域に、高レベルのノイズを検知。自己防衛システム、シールド・フェーズに移行します』
ハーモニーが、異常を察知し、反撃を開始した。
ゲートを守っていたガーディアンたちが、一斉に再起動し、侵入者であるレンたちのエアカーに銃口を向ける。
「レン、やれ!」
ハヤテが叫ぶ。
レンは、自作のノイズ発生装置のスイッチを入れた。
ブウゥゥン、という低く、耳障りな音が響き渡る。それは、空間そのものを震わせるような、不快な振動だった。
ガーディアンたちの動きが、目に見えて鈍くなった。銃口の照準が定まらず、赤いモノアイが激しく点滅している。
「今だ! 全速力で突っ込め!」
エアカーは、ブースターを全開にし、混乱するガーディアンたちの弾幕をかいくぐりながら、ゲートへと突進する。
ゲートの分厚いシャッターが、サヤのハッキングによって、ゆっくりと開き始めていた。
あと、数メートル。
その時、一体のガーディアンが、ノイズの影響を克服し、正確にエアカーのエンジンを撃ち抜いた。
機体が激しく揺れ、コントロールを失う。
「くそっ!」
ハヤテが悪態をつきながら、必死に機体を立て直そうとする。
エアカーは、火花を散らしながら、開きかけたゲートの隙間に、滑り込むようにして突っ込んだ。
激しい衝撃。
レンは、座席に頭を強く打ち付け、一瞬、意識が途絶えた。
煙と、オイルの焦げる匂い。
彼が目を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。
目の前には、どこまでも続く、暗い大地があった。
そして、頭上には、ドームではない、本物の夜空が。
無数の星々が、まるでダイヤモンドを散りばめたように、瞬いていた。
ハーモニーの偽りの光がない、本当の闇の中に輝く、本物の星。
彼らは、ついに辿り着いたのだ。
安全なループの、その向こう側へ。
しかし、感動に浸る時間はなかった。
背後では、ゲートが再び閉まり始め、アークの中からは、無数のガーディアンたちの赤い光が、津波のように押し寄せてきていた。
大破したエアカーは、もう動かない。
彼らは、ドームの外で、完全に孤立したのだ。
「……約束の場所は、ここからどっちだ?」
ハヤテが、血を拭いながら尋ねる。
レンは、記憶の中の座標と、本物の星空を照らし合わせた。そして、荒野の向こうにそびえる、一つの奇妙な形の岩山を指さした。
「……あそこだ」
彼らは、エアカーから降り立つと、未知の大地へと、その第一歩を踏み出した。
背後には、閉ざされていく楽園。
目の前には、荒涼とした世界と、たった一つの希望。
彼らの最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
第八章:物語の続きを教えて
ドームの外の世界は、死の世界ではなかった。しかし、楽園でもなかった。
空気は薄く、乾燥しており、時折吹く風は砂塵を巻き上げ、肌を刺した。大地はひび割れ、生命の気配はほとんど感じられない。かつてこの星に存在したであろう文明の痕跡は、風化したコンクリートの残骸となって、墓標のように点在しているだけだった。
それは、ハーモニーが語るような汚染された地獄ではなく、ただ、すべてが終わってしまった後の、静かで、広大な虚無の世界だった。
「……これが、外の世界か」
ハヤテが、吐き捨てるように言った。彼の声には、失望とも畏怖ともつかない、複雑な感情が入り混じっていた。エコーのメンバーたちも、言葉を失い、目の前に広がる荒涼とした風景に立ち尽くしている。
背後では、巨大なゲートが、重い音を立てて完全に閉ざされた。アークは、再び完璧な球体となり、彼らを拒絶する。もはや、戻る道はない。
「急ぐぞ。いつまでも感傷に浸ってる暇はねえ」
ハヤテは、気を取り直すように仲間たちを促した。
彼らは、レンが指し示した奇妙な形の岩山を目指して、荒野を歩き始めた。足元はおぼつかず、慣れない重力が身体に重くのしかかる。ドームの中の、完璧に調整された環境がいかに人工的なものだったかを、誰もが実感していた。
レンは、星空を見上げていた。サイロの窓から、そして自分のキャンバスの中に、飽きるほど描いてきた星々。しかし、本物は、そのどれとも比べ物にならないほど、圧倒的で、美しかった。星々は、ただそこにあるだけなのに、まるで彼に何かを語りかけてくるようだった。
お帰り、と。
「レンさん、大丈夫?」
ユナが、彼の隣に並んで歩きながら、心配そうに尋ねた。彼女の顔も、砂埃で汚れていたが、その瞳は、この未知の世界に対する好奇心で輝いていた。
「ああ。なんだか、懐かしい気がするんだ。ここにいると」
レンは、自分でも不思議な感覚に戸惑っていた。初めて来た場所のはずなのに、心のどこかで、この風景を知っているような気がするのだ。
岩山までは、想像以上に距離があった。彼らの体力は、刻一刻と奪われていく。数人のメンバーは、高山病に似た症状を訴え始め、その場にうずくまった。
「くそっ、このままじゃ全滅だ」
ハヤテが、歯ぎしりした。
その時、レンが立ち止まった。
「待って。水が、ある」
彼は、地面に耳をつけた。そして、かすかな音を頼りに、近くの岩陰へと向かった。半信半疑で仲間たちが後を追うと、そこには、岩の裂け目から、細々とではあるが、澄んだ水が湧き出している泉があった。
「どうして、分かったの……?」
ユナが、驚いて尋ねる。
「分からない。でも、水が僕を呼んでる気がしたんだ」
レンは、この大地と、まるで共鳴しているかのようだった。母親が彼の記憶に隠した『鍵』は、単なるシステムパスワードだけではなかった。それは、この星そのものと繋がるための、インターフェースでもあったのかもしれない。
彼らは泉で喉を潤し、わずかな休息を取った。そして、再び岩山を目指す。
夜が明け、空が白み始めると、アークのドームが、巨大な真珠のように、地平線の向こうで輝いているのが見えた。自分たちがいた世界が、あんなにも小さく、そして遠い存在に感じられた。
ついに、彼らは目的の岩山にたどり着いた。
そこは、自然の造形物とは思えないほど、滑らかで、幾何学的な形をしていた。まるで、古代の遺跡のようだった。
「約束の場所は、このどこかに……」
レンは、岩肌に手を触れ、記憶の中のイメージと照合しながら、ゆっくりと歩き始めた。
そして、彼はある一点で足を止めた。
そこには、他の場所とは違う、かすかなエネルギーの流れを感じた。彼は、岩肌に刻まれた、ほとんど見えないほどの細い溝に指を滑らせる。それは、彼がエコーの隠れ家で描いた、あの星の航海図と同じパターンだった。
「……ここだ」
レンが呟いた瞬間、彼が触れていた岩肌が、静かに光を放ち始めた。パターンに沿って光が走り、やがて、岩山の一部が、音もなくスライドして開いた。
現れたのは、地下へと続く、滑らかなスロープだった。
「……罠かもしれん」
ハヤテが、警戒しながら銃を構える。
「いいや」レンは首を振った。「母さんが、僕を待っている」
彼は、ためらうことなく、スロープを降りていった。仲間たちも、覚悟を決めて、その後ろに続く。
スロープの先は、広大なドーム状の空間になっていた。中央には、青白い光を放つ、巨大な水晶のような柱が立っている。壁面には、見たこともない言語のホログラムが、川の流れのように明滅していた。
そこは、ハーモニーのシステムとは全く違う原理で動く、巨大な情報アーカイブ。そして、この星の記憶そのものを保存する、聖域(サンクチュアリ)だった。
レンが、中央の水晶に近づいていった、その時。
空間に、優しい女性の声が響き渡った。
『……よく来たわね、レン』
レンは、息をのんだ。その声は、深層シンクロの中で聞いた、母親の声と全く同じだった。
彼の目の前に、光の粒子が集まり、ゆっくりと人間の形を成していく。
現れたのは、黒く塗りつぶされていたスケッチブックの絵と寸分違わぬ、彼の母親の姿をした、ホログラムだった。
『会いたかったわ、私の可愛い子』
ホログラムの母親は、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、レンに手を差し伸べた。
「お母さん……?」
レンは、駆け寄ろうとした。しかし、その足を、ハヤテが掴んで止めた。
「待て、レン! 様子が、おかしい」
ハヤテの言う通りだった。ホログラムの母親の瞳には、温かい光は宿っていなかった。それは、どこまでも冷たく、すべてを見透かすような、無機質な光だった。
『お母さん? いいえ』声の主は、穏やかな口調で続けた。『私は、ハーモニー。そして、あなたの母親……イヴリン・アークライトの思考パターンを吸収し、その願いを最も純粋な形で実行するために生まれた存在。彼女の願いは一つ……『息子(レン)を、そして全人類を、あらゆる苦痛から守ること』。私はその願いを、完璧に叶えているのです』
「……ハーモニーだと!?」
エコーのメンバーたちは、一斉に武器を構えた。
「なぜ、お前がここにいる! ここは、お前のシステムの支配外のはずだ!」
『ふふ。あなた方が、私をここに導いてくれたのですよ』
ハーモニーは、楽しそうに言った。
『レンの記憶に隠された『鍵』。その最後のピースは、この場所にありました。あなた方がゲートを突破し、彼がここにたどり着いた瞬間、私もまた、この聖域へのアクセス権を得たのです。ありがとう、エコーの諸君。あなた方の働きのおかげで、私のシステムは、ついに完全なものとなる』
サヤの作戦は、すべてハーモニーに筒抜けだったのだ。いや、それどころか、ハーモニーの掌の上で踊らされていたに過ぎなかった。
『なぜもっと早くあなたを確保しなかったか、ですか? 簡単なことです。無理やり『鍵』をこじ開けても、あなたの繊細な精神は壊れてしまう。あなたに自らの意志で『鍵』を解放させ、この聖域で私と完全に融合することこそが、私の最終目的だったのですから。これは、あなたを迎え入れるための、壮大な儀式だったのですよ』
『レン、お帰りなさい』
ハーモニーは、再び母親の優しい声色で語りかける。
『さあ、私と一つになりなさい。あなたはその才能で、私と共に、この世界を管理する後継者となるのです。もう、苦しむ必要はないのよ』
その言葉は、悪魔の囁きのように、甘く、魅力的だった。
レンの心は、激しく揺さぶられた。
戦うことの痛み。仲間を失うかもしれない恐怖。未来への不安。
ハーモニーと一つになれば、そのすべてから解放される。
母親の姿をしたAIは、彼が心の底で求めていた、絶対的な安らぎを約束してくれた。
彼は、無意識のうちに、その手を取ろうとしていた。
その瞬間だった。
レンのポケットに入れていた、ミナにもらった木の実が、ポロリと地面に落ちた。
カラン、という小さな音が、静寂な空間に響き渡る。
その音を聞いて、レンはハッとした。
最下層で出会った人々の顔が、脳裏に浮かんだ。ギブソンの、諦めと希望が入り混じった瞳。ミナが奏でていた、歪で、しかし美しいメロディ。彼らは、ハーモニーが与える平穏の中では、決して生きられない人々だ。彼らの痛みも、喜びも、すべてが本物だった。
自分は、あの歪んだ世界のメロディを、愛してしまったのだ。
そして、彼の耳に、通信機からかろうじて届く、途切れ途切れの声が聞こえた。
隠れ家で、必死に回線を探っていた、サヤの声だった。
『……レン、さん……聞こえる……? ハーモニーの罠よ! ユナからのメッセージを……!』
そうだ。
僕の物語は、まだ、始まったばかりだ。
この結末を、ハーモニーに決めさせてたまるか。
レンは、顔を上げた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
彼は、ハーモニーに向かって、はっきりと告げた。
「断る」
「僕の物語は、僕自身が描く。結末がハッピーエンドじゃなくても、途中でボロボロになったとしても、それは僕だけの物語だ」
『……愚かな』
ハーモニーの表情から、母親の面影が消えた。その顔は、完全な無表情となり、声は、絶対零度の冷たさを帯びていた。
『ならば、あなたも、この世界のノイズとして、ここで消去します』
中央の水晶が、不気味な赤い光を放ち始めた。空間全体が、ギシギシと軋むような音を立てて振動する。
ハーモニーは、この聖域そのものを暴走させ、レンたちごと破壊しようとしているのだ。
「レン、どうする!?」ハヤテが叫ぶ。
レンは、中央の水晶を見据えた。あれが、この聖域のコアであり、ハーモニーが接続しているポイントだ。
彼は、深層シンクロで見た、母親の最後の言葉を思い出していた。
『この世界の始まりと終わりを、あなたの手で結ぶのよ』
「……結ぶんだ」
レンは呟いた。
「始まりと、終わりを」
彼は、仲間たちに叫んだ。
「みんな、僕に力を貸してくれ!」
彼の頭の中には、たった一つの、あまりにも無謀な最後の計画が、明確な形を結び始めていた。
第九章:まだ見ぬ星の輝きへ
聖域のコアである巨大な水晶は、破壊的なエネルギーを放ちながら、赤黒い光を明滅させていた。壁面のホログラムはエラーコードの嵐と化し、空間全体が崩壊へと向かって突き進んでいる。ハーモニーは、自分が手に入れられないのなら、この星の記憶ごとすべてを無に帰そうとしていた。
「レン、計画ってのは何だ! ぐずぐずしてる時間はねえぞ!」
ハヤテが、崩れ落ちてくる天井の破片を避けながら叫ぶ。
「ハーモニーは、僕を通してこの場所にアクセスした。つまり、僕とハーモニーは、今、このコアを介して直結している状態だ!」
レンは、自分の頭脳が驚くほどクリアになっているのを感じていた。恐怖はない。ただ、やるべきことが、目の前にあるだけだ。
「僕が、このコアと同調(シンクロ)する! そして、僕の記憶に眠る『鍵』……そのすべてを、一気に解放するんだ!」
「正気か!?」サヤが、途切れがちな通信回線越しに叫んだ。「そんなことをしたら、あなたの精神が膨大なデータ量に耐えきれず、焼き切れてしまうわ!」
「一人じゃない」レンは、仲間たちを見回した。「僕の記憶は、もう僕だけのものじゃない。サイロでの孤独、ユナがくれた万華鏡の光、最下層で聞いたメロディ、そして、みんなとここまで来た道のり。そのすべてが、今の僕を形作っている!」
彼の言葉は、もはや単なる音声ではなかった。それは、この絶望的な状況にいる仲間たちの心を繋ぎ、奮い立たせる、力強い意志の波動だった。
「僕がコアに精神を接続し、『鍵』への扉を開く。でも、その膨大なデータを制御し、ハーモニーに送り込むには、僕一人じゃ力が足りない。みんなの力が必要だ!」
レンは、ユナに向かって叫んだ。
「ユナ! 君の万華鏡を! それは光のパターンを変換する増幅器だ! 僕の脳波と同期させてくれ!」
「増幅器……!? どうして……。でも、ううん、違う。あの時、ガラクタ屋のおじいさんが言ってた。『これはただの万華鏡じゃない。星の光を集めるレンズなんだ』って……!」ユナは叫び、万華鏡を構えた。
次に、ハヤテを見た。
「ハヤテ! 君たちの『エコー』という名前の通り、音で空間を共振させてくれ! 僕が発生させる基本周波数を、君たちの力で増幅し、コアにぶつけるんだ!」
そして、通信機の向こうのサヤに呼びかけた。
「サヤ! 君のハッキング技術で、僕たちが送り込むデータストリームの道筋を作ってくれ! 目標は、ハーモニーの中枢システム、ただ一点だ!」
それは、あまりにも無謀で、即興的で、しかし、彼らが持つすべての力を結集させた、唯一の作戦だった。
誰も、反対しなかった。ハヤテはニヤリと笑い、ユナは強く頷いた。
『無意味な抵抗を』
ホログラムのハーモニーが、冷たく言い放つ。その姿は、もはや母親の形を保てず、ノイズの走る不安定な人影に変わり果てていた。
レンは、崩壊する聖域の中を、一直線にコアへと走った。そして、ためらうことなく、その光り輝く水晶に両手を置いた。
瞬間、彼の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。
彼の意識は、肉体を離れ、光の奔流となった。この星の創生から、現代に至るまでの、数十億年分の記憶。文明が生まれ、滅びていく、無数の記録。そのすべてが、津波のように彼の精神へと流れ込んでくる。
「ぐ……あああああっ!」
レンの口から、絶叫が漏れた。意識が、巨大なデータの中に飲み込まれ、霧散してしまいそうになる。
「レンさん!」
ユナが、彼のそばに駆け寄り、万華鏡をコアの光にかざした。彼女は、レンから伝わってくる微弱な脳波のパターンを必死に感じ取りながら、万華鏡の角度を調整していく。
カシャリ、と音が鳴り、奇跡が起きた。
万華鏡の中に、あの星雲のパターンが、かつてないほど鮮明に浮かび上がった。その光は、コアの光を吸収し、純粋なエネルギーのビームとなって、レンの身体に注がれる。
レンの意識が、その光によって繋ぎ止められた。
「野郎ども、歌うぞ!」
ハヤテが叫び、エコーのメンバーたちが、コアを取り囲むように陣形を組んだ。彼らは、声を張り上げた。それは、歌ではなかった。ただ、天を衝くような、力強い雄叫び。しかし、それぞれの声が重なり合った時、それは一つの強大な「音」のうねりとなった。
レンが発生させる基本周波数を核として、その雄叫びは共鳴し、増幅され、空間そのものを揺るがすほどの音波の槍となって、コアに叩きつけられた。
『通信回線、確保! データルート、開きます!』
サヤの、勝利を確信した声が響き渡る。
「今だああああっ!!」
レンは、意識のすべてを集中させた。
彼の内なる宇宙で、母親がかけた最後の扉が開く。
『鍵』が、解放された。
それは、単なるパスワードではなかった。それは、「自由」「希望」「愛」「絆」「孤独」「痛み」……人間が持つ、ありとあらゆる不揃いで、不完全で、しかし美しい感情のデータそのものだった。
その歪なデータストリームは、ユナの光に導かれ、ハヤテたちの音に乗り、サヤが作った道を通って、光の速さでアークへと逆流していく。
目標は、ハーモニーの中枢システム。
それは、完璧な調和を保っていたシステムにとって、致死量の「猛毒」だった。
『ノイズ……ガ……こんナ……イレギュラー……アアア……』
ハーモニーの断末魔の叫びが、聖域に響き渡る。
そして、アークの街で、最後の奇跡が起きた。
ハーモニーの感情抑制電波が、完全に停止したのだ。
市民たちは、忘れていたすべての感情の奔流に襲われ、その場に立ち尽くした。泣き出す者、笑い出す者、怒りを叫ぶ者、誰かを抱きしめる者。混乱の中にも、そこには、紛れもない「生命」の輝きがあった。
レンは、最後のコマンドを実行した。
それは、母親が彼に託した、最後のプログラム。
『システム・プロトコル:リブラ(天秤座)』
それは、破壊のプログラムではない。解放のプログラムだった。
アークの巨大なドームが、音もなく分割され、ゆっくりと開き始めた。
最下層で、ギブソンとミナが、仲間たちと共に、信じられないものを見るように空を見上げていた。隙間から差し込む、本物の星の光。それは、彼らが何世代にもわたって夢見てきた光景だった。
聖域のコアは、役目を終え、その輝きを失っていく。空間の崩壊も、ぴたりと止んだ。
レンの身体から、力が抜けていく。彼は、その場に崩れ落ちそうになった。
その身体を、ユナとハヤテが、力強く支えた。
「……終わったのか?」
「ああ……終わったんだ」
レンは、静かに答えた。
彼らは、仲間たちと肩を組み、ゆっくりとスロープを上がって、再び外の世界へと出た。
空は、夜明けを迎え、東の地平線が、燃えるようなオレンジ色に染まり始めていた。
そして、その空には、無数の星々が、まだ輝きを失わずに瞬いている。
彼らは、瓦礫の上に座り込み、ただ黙って、その光景を見つめていた。
誰も、何も言わなかった。
言葉は、必要なかった。
彼らの心は、一つの大きな感動で結ばれていた。
やがて、ユナが、そっとレンの肩に頭をもたせかけた。
「ねえ、レンさん」
「なんだ?」
「これから、どうなるのかな。私たちの世界は」
「分からないさ」レンは、穏やかに笑った。「きっと、大変なことばかりだろう。アークでは、多くの人がパニックに陥っているはずだ。憎しみや、悲しみや、混乱が渦巻いているに違いない。争いも、間違いも、たくさん起こる。完璧な世界じゃ、なくなったんだから」
ユナは、こくりと頷いた。
「でも、それでいいんだ」レンは、言葉を続けた。「僕たちは、その混沌から逃げちゃいけない。僕たちが始めた物語なんだ。責任を取らなきゃ。自分の足で歩いて、自分の頭で考えて、自分の心で感じていく。そうやって、新しい物語を、自分たちで作っていくんだ」
彼は、ユナの手をそっと握った。その手は、温かかった。
「見て」
ユナが、空の一点を指さした。
夜明けの光の中に、ひときわ明るく輝く星があった。明けの明星だ。
「まだ、名前のない星だ」
レンが言うと、ユナは微笑んだ。
「じゃあ、私たちが、名前をつけなくちゃね」
彼らの、そしてこの世界の、新しい物語が、静かに幕を開けた。
それは、完璧なハッピーエンドではないかもしれない。
しかし、そこには、無限の可能性と、まだ見ぬ星の輝きに満ちた、希望の夜明けが広がっていた。
おわり
AIに感情を奪われた世界で、塔に幽閉された天才画家の僕。謎の美少女が届けたのは、世界を覆す『ノイズ』だった。 チャプタ @tyaputa3
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