第6話『しちゃいましたね?ふふ』
「あの、高橋さん……」
おれは、口ごもりながら、もう一度カフェの誘いを断ろうとした。どう伝えれば角が立たないか、彼女の純粋な感謝の気持ちを傷つけずに済むか。だが、言葉を探している間にも、高橋まゆみは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳は、何か強い意志を宿しているかのようだった。
「やっぱり、あの、その……お礼は、私自身で、きちんとさせていただきたいんです!」
彼女は、まるで言い聞かせるかのように、強く言った。その声には、単なる感謝だけでなく、プライドのようなものすら感じられた。「あなたが受け取ってくれないと、私は気が済まない」――そんな無言の圧力が、ひしひしと伝わってくる。
(いや、ちょっと待てよ……)
脳内で警鐘が鳴り響く。彼女がいる。こんな状況はまずい。このままカフェに行けば、絶対に何かが起こる。いや、何も起こらなくても、その事実だけで、あとで大変なことになる。断固として断らなければならない。そう頭では理解しているのに、目の前の彼女の、純粋すぎるほどの、しかし異常なまでの「お礼」への執念に、おれの決意は揺らぎ始める。
まるで、柔らかいのに決して退かない、ねばりつくような力だ。
(押しに弱い、ってこういうことか……)
抗えない。この場の空気を壊してまで、邪険にするのも違う気がする。いや、違う。そんな言い訳をしている場合ではない。でも、もう、どうしようもなくなっていた。高橋まゆみの、真っ直ぐな視線と、全身で訴えかける「お礼させてください!」のプレッシャーに、おれはただ、口を開けたまま、言葉を失っていた。
「……いやよ!いやよは好きなうち?」なんて、バカなセリフが脳内をよぎった瞬間、もうダメだと思った。
気がつけば。
高層ビルの窓から東京の夜景が見下ろせる、少し広めのホテルの一室。おれはベッドサイドの椅子に腰掛け、慣れた手つきでタバコに火をつけた。深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。肺に染み渡るニコチンの感覚が、脳内を支配していた混乱を、わずかに鎮めてくれるようだった。
ふー、と白い煙が天井へと昇っていく。
その煙を見つめながら、数時間前までカフェでコーヒーを奢られる予定だったはずの自分が、なぜここにいるのか、現実感の伴わない思考が巡る。
視線を煙からベッドに移す。そこに横たわっているのは、シーツにくるまり、満足げな表情でこちらを見上げている高橋まゆみ。
「しちゃいましたね。」
まるで天気の話でもするような、あっけらかんとした声で、まゆみは言った。その言葉は、タバコの煙と共に、おれの頭の中を、再び混沌へと突き落とした。
優柔不断な男が陥った、計算され尽くした地獄。 志乃原七海 @09093495732p
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