第5話.『じゃあお礼いただくよ』
高橋まゆみは、深々と頭を下げた。その姿は、まるで舞台役者のフィナーレのように、大げさなほどだった。だが、彼女の瞳の奥には、偽りない感謝の光が宿っている。
「ありがとうございます!」
そう言って顔を上げた彼女の笑顔は、この喧騒の中にあって、ひどく眩しく見えた。その時、おれの頭の中で、ようやく事の顛末が整理され始めた。
最初はただの反射的な行動だった。危ないものが落ちてきたから、とっさに捕まえただけ。それが誰の物で、誰が落としたか、なんて考える暇もなかった。だが、その結果、目の前の女性がこれほど感謝し、お礼をしたいと申し出ている。そして、その申し出を、半ば流される形で「コーヒー一杯」で受けてしまった。
「あの、お時間、今、大丈夫ですか?この近くに、いいカフェがあるんですけど……」
「私、高橋まゆみです。改めて、助けていただいて、本当にありがとうございます!」
彼女が笑顔で矢継ぎ早に話している間も、おれの脳内には別の警報が鳴り響いていた。
(いや、マジ、ちょっと困るんだな、これ。)
彼女の無邪気な感謝の表情とは裏腹に、おれの心は急速に冷えていく。
(人助けはいい。それは正しい行いだ。でも、この流れはまずい。)
脳裏に浮かぶのは、付き合って二年になる彼女の顔だ。週末のデートで、よく行くカフェ。もし、おれがそこで、見知らぬ女性と二人で座っているところを見られたら?
(弁解の余地なし、だな。)
たとえ、スマホをキャッチしたという正当な理由があったとしても、世間一般的に見れば、見知らぬ男女が喫茶店で向き合っている光景は、誤解を生むに十分すぎる。特に、おれの彼女は、そういう部分には敏感なタイプだ。おれの軽率な行動が、どんなに大きな波紋を呼ぶか、想像に難くない。
「えっと、高橋さん……」
思わず、まゆみの言葉を遮るように声をかけた。ここで引き返すしかない。彼女の気持ちは嬉しいが、自分の状況を考えれば、これ以上は進めない。
「あの、本当に、お礼とか、大丈夫だからさ。俺、本当に、いらないし。それに……」
どう説明すればいいのか。彼女がいる、なんて直接的に言うのは、相手に失礼だろう。純粋な感謝の気持ちを踏みにじるような言い方になるかもしれない。しかし、他に上手い言い訳も思いつかない。口ごもり、言葉に詰まる。
まゆみは、少し首を傾げた。彼女の顔には、困惑と、少しばかりの落胆が浮かんでいるのが見て取れた。
「え?でも、さっき、コーヒー一杯で、って……」
その言葉に、ぐうの音も出ない。本当に、困った。
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