【供養】蝕、或いは

隣乃となり

邂逅

「ぼくは『びいどろ』という言葉が好きでね。あれを口に含んでみた、なんて書いた作家もいる」

 そう呟いたのち、先生は薄柿色の口の端を幽かに持ち上げる。

 葉月、太陽は狼藉者と化していた。たとえ白い指先のみであろうが僅かでも屋根の外を覗き、遠慮など知らぬ光の下に踊り出れば途端に焼き殺されてしまいそうなほどには酷く乾いた夏だった。煮えた空気を慰撫しようと庭では打ち水の音が殊勝にも響き、その涼しげな音色に混じって高くあどけない笑い声がぽつぽつと湧いている。

「……梶井、ですか」

「その通り、よく分かったね。流石は紀野君だ」

 僕の短い返答に、先生は木漏れ日のような笑みを浮かべて満足した様子であった。すっかり掠れてしまった声を飛ばし、それから、ちらちらと天穹を反射する縁側のほうへと顔だけを向ける。

 ふいに、その眉が歪んだ。

 布団の上に仰向けになった痩躯が、藍色の浴衣に薄い皺を作る。先刻から何かを捜しているかのように身を捩ろうとしているが、やはりだ難しいようだった。

 見かねた僕は畳にかかとを押し付け「奥さまをお呼びします」と立ち上がろうとする。しかし先生の細い手は、それを柔く制止したのだった。

「いや、いいんだ。ありがとう」

 それから先生はざらついた咳をひとつして。今度はその双眸に、僕が映ることとなった。

 黒瑪瑙くろめのう

 僕は先生の瞳に覗き込まれるたび、秘かに、そのように形容していた。


 ◇


 先生は小説家だった。

 彼が次々と紡ぐ穿った言葉は、戦後の乱れた日本にとってのいわば支柱のようなものとなっていた。力強さと美しさが溶け合う文体。澄んだ、しかしながらどこか諦観したような目線。

 数年ほど前、高等学校に籍を置いていた頃の話である。然したる用もないというのに学校図書館をすみかにするような生徒であった僕は、ある日のぬるい昼下がり、一冊の小説と出会った。本棚の埃に同化する程に入り浸ること、ひいては文字の群れに目を通すことにすらみ始めていた僕が知っていたのは、それが若い作家の書いたわりあいに新しい小説だということのみであり、何か特別な興味や関心というものは微塵も抱いてはいなかった。

 爪の先端で花布はなぎれの感触を確かめるように人差し指を掛けて軽く曲げれば、その本は穏やかな速度で僕の手の中へと滑り落ちてきた。だあまり触れられていないであろう浅葱色の表面に、そっと指を落とす。ざらり。薄い皮膚を削るように音が鳴った。

 ひら、く。

 「……なんだ」

 瞬いて、うんざりとする。期待をしていたわけでは全くないが、それは当然のように只の文字の群れであり、ありふれた記号の集合に過ぎなかった。元より僕は文学少年なんてものではない。もう、此処にくるのは辞めようか――

 しかしもう一度瞬いて、僕の瞳孔は初めて「文字」を捉える。

 は、と湿度のない息が漏れた。

 濁流。

 文字が言葉に、言葉が文章に、文章が物語に成り、その過程のすべてがあでやかに舞う。僕の脳髄に叩き込まれる。視界が狂ったように暗転し、また激しく光るのを繰り返している。

 濁流。

 せせらぎか? 否、これは何なのだ。全身の細胞に火がつき、湯気を出しながら燃えているのが、己の臓器がひとつ残らず絶叫しているのが、喉元の強烈な圧迫感とともに皮膚の表面にまで伝わってくる。何なのだ、この小説は。この作家は。


 邂逅、であった。

 その日から僕は、まるで憑かれたように先生の作品に耽溺するようになった。


 ◇


 僕が初めて彼の小説を開いたその年、先生は芥川賞を手にした。

 名立たる文豪たちによる称賛が絶え間なく、絶え間なく降り、先生の天辺を華やかにする。たちまち、先生は文壇で彼自身の輪郭を濃くしてゆくこととなった。学校図書館から彼の小説は消え失せ、級友は馬鹿の一つ覚えのように先生の名を口にしている。やはりいいねぇ、などと知顔で抜かす阿呆どもを一瞥しては下がらぬ溜飲に悩まされた。

 先生は何時しか、僕の掌から居なくなっていた。

 僕は何かを喪失したような心地になり、風に撫でられるだけとなった自身の両掌で健気に水を掬うように、只管ひたすらに先生の言葉をなぞり続けていた。


 だが、暫くして僕は心づいてしまう。

「先生は月のような人である」

 彼の言葉は、強かに生きる氷柱つららのような青白い冷たさを孕んでいたのだ。

 無論、彼の小説は何時いつ如何いかなる時も読む者すべてに平等に手を差し伸べていた。しかし何故であろうか。どれほど彼の小説を読み、彼の言葉を指の腹でなぞり、彼の心に触れようとしても、僕は決して、先生に近づくことだけはできなかった。

 やがて悟った。このひとは、このひとの書く小説は、微塵も他人のために微笑んでくれやしない。ただ遠いところでひとり輝き、その御零おこぼれを、僕は享受していただけだったのだ、と。


 けれども不思議なことに、僕は先生の紡ぐ言葉たちに呆気なく突き放されるたびに、彼の生み出す小説により深く淫してゆくようになった。先生の言葉を渇望しては意地汚くしがみ付く僕は、さながら無償の愛を求める稚児であり、或いは水を乞う哀れな魚であった。

 先生の写真が載った新聞を見つめ、その御声をそっと想像してみたこともある。新聞を飾る先生の横顔は端整で、またおそろしいほどに幽玄であった。

 「きっと静謐な優しさと凪いだ精神をお持ちの方だから、さざなみに似た柔らかく涼しい声を発するのだろう」

 そんなふうに夜の窓辺で思いを巡らせ、これではまるで恋に墜ちた少女ではないかと、僕は引かない頬の熱を闇の中で一人恥じたのだった。


 ◇


 想像の中でしか耳にしたことのない声。それが初めて僕の鼓膜を直に震わせたのは、昨冬の雪の日のことであった。

 沫雪、なんて可愛らしいものではない。

 身を貫くような鋭い氷。黙りこくった灰色の空。外を徘徊している孤独な学生の心を憂いで汚すには十分過ぎるほどだった。

 真白の中に僅かな泥を散りばめた厚い雪面の上で、僕は転倒を避けようと少しずつ足を進めながら、重く鬱陶しくなった傘を揺らすように傾ける。すると、前方から一人の男が歩いてくるのが見えた。黒橡くろつるばみの和服を身に纏ったその男は只々俯いて雪に肩を貸すばかりで、その手には何も携えていないようだった。

 彼もまたこの辺り一面の銀に愛想を尽かし、漠然とした憂いを抱いているのだろうか。身勝手にも同情し、僕は再び傘を傾けて静かに彼とすれ違おうとする。


 しかし、視界から彼の姿が消えようとしたまさにその瞬間のこと。

 黒橡の布が、ふっと揺れた。


 ほんの数秒の間、彼のしなやかな身体は質量などというつまらぬものから解放され、雪を背にして鱗翅類りんしるいの如く優雅に踊っていた。僕は地に足を突き刺したかのようにその場に立ち尽くし、息を呑んだ。

 あ、と声帯を震わせたときには、既に男が白い床に倒れてゆく様が、やけに間延びした映像で僕の目の奥に映し出されていた。

「大丈夫ですか!」

 先程まで蝶のように舞っていた男が急速に質量を取り戻し、雪面に自らの身体を投げ出したのを見て、僕は慌てて駆け寄る。

 うっすらと氷を被った和服を掴むと、目が覚めるほどの冷たさに掌の痛覚が悲鳴を上げた。

「ああ、すまないね」

 か細い声が耳に入り、僕は驚いて彼の顔を見る。

「君も濡れてしまう」

 僕の傍らで粗雑に寝かされている傘を見遣り、彼は透き通るような黒髪の先端を揺らしながら低く笑った。

 違う。

 違う、と思った。傘などどうでも良いのだと。僕は視線を忙しなく動かし、彼の輪郭の表面を何度も何度も往復させた。和服に触れた指はぶるぶると震え、やがて腕にまでその振動が侵入してくる。頭蓋の内側から烈しく殴打されるような痛みも感じたが、おそらくこれは寒さゆえではない。むしろ僕の頬はかつてないほどに熱を持ち、吐く息の温度は異常なまでに上昇していた。

「突然倒れて申し訳ないね。ぼくが外に出たのがいけなかったんだ。妻には止められていたんだけど……」

 顔を顰めながら身を起こそうとするその背中に、僕は恐る恐る手を差し入れて彼を支える。

「ありがとう、本当にすまない。君が通り掛かってくれて助かったよ」

「あの、貴方は」

 咽喉が狭くなり、声が堰き止められるせいで上手く出すことができない。口から零れる息の量すら上手く調節できず、僕は己の下衣を握りしめた。

「ねえ」

 彼の声が、優しく投げ込まれる。さざなみに似た柔らかく涼しい声。この白い冷たさの中でも、彼の声は静かに存在感を放っていた。

「すぐそこ、ぼくの家なんだ。お礼もしたいし、もし良かったら来てくれないかい」

 そう微笑んだ彼の横顔は端整で、またおそろしいほどに幽玄で。

 僕が長い間紙越しに、文字越しに焦がれていた「先生」が、確かな質量とともに僕の目の前に立っていた。

「おいで」

 先生の細い手が流れるように曲線を作り、僕を手招く。


 酩酊。


 そうだ、僕は屹度きっと酔っているのだ。不愉快な頭痛に溶け込む心地良い嘔気と戯れながら、僕は提灯に従順な羽虫のように先生の背をふらふらと追っていった。

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【供養】蝕、或いは 隣乃となり @mizunoyurei

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