そして、世界の果てへ
車窓の外、左側に大きな海が見えてきた。
海沿いの道を数人の巡礼者たちが歩いている姿が見える。バスが今走っている道は「カミーノ・フィニステラ」。サンティアゴ・デ・コンポステーラから西へ約90キロ、フィニステラまで続く「フィニステラの道」だ。サムエレやマクシム、僕の巡礼仲間も何人かはすでにフィニステラに向けてサンティアゴを出発しているはずだ。もちろん彼らは徒歩で。
フィニステラは昔からサンティアゴ巡礼の本当の終着点として知られていて、名前の由来は「地の果て」を意味するラテン語だ。実際には、ヨーロッパの最西端はポルトガルのロカ岬なのだけど、地図のない中世の人たちはこのフィニステラを世界の終わりだと思っていたらしい。
巡礼者たちは、大聖堂に安置されている聖ヤコブにやっとのことで対面し、祈りを捧げた後、さらに世界の果てまで足を延ばした。徒歩での巡礼が危険に満ちていたことを考えると、これは並大抵の決意ではなかったと思う。ひょっとすると、当時の巡礼者たちも、旅の終わりをできるだけ先延ばしにしたかったのかもしれない。
車窓から流れる景色を眺めながら、昨日のことをぼんやりと思い出していた。
朝起きて、市内観光をする気など全くおきなかった僕は、なんのあてもないままに大聖堂広場に足を向けた。前日と全く同じように、広場には巡礼者たちの熱気があふれていた。
広場の真ん中あたりに腰を下ろし、人びとの様子を見渡す。
北門から巡礼者たちが次々と姿を見せる。そのたびに湧き起こる大きな拍手と歓声。再会を喜ぶ激しいハグ。記念撮影。
時々、そろいのTシャツやキャップを身に付けた集団が広場に入ってくる。先頭のふたりが横断幕を広げて進む姿は、まるでオリンピックの開会式のようだ。
彼らの表情は興奮と感動に満ちあふれている。前日は僕自身も同じ顔をしていたはずだ。それなのに、一晩眠ったあとの今、そんな熱狂の光景を前にして、ちょっと白けた感じさえする。そんなに大騒ぎするほどのことか?
あの拍手もハグも、まるで他人事のようにしか思えない。知り合いの姿がどこにも見当たらないせいなのか、あるいは自分がもう「歩き終えた側」の人間になってしまったからなのか。
その夜、予定通りサンティアゴに到着したデイヴィッドたちと合流し、歴史地区のバルへと繰り出した。彼のお母さんはアルベルゲで休んでいるそうだが、デイヴィッドのほかに、マイケルやワイネ、そして僕の知らない二人のアメリカ人が顔をそろえていた。
「まずは、巡礼達成に乾杯だ!」
デイヴィッドの掛け声で、全員がビールジョッキを掲げてガチャンと打ち合わせた。
どうやら全員、食事よりも飲む方がメインらしい。テーブルには料理の気配がなかったので、僕がフライドポテトやオリーブなどのタパスを適当に注文した。まもなく店員が皿をいくつか運んできて、テーブルの上が少しずつ賑やかになった。
「いやあ、長かったな!」
マイケルがビールを一気に飲み干しながら言うと、
「ああ。でも、サンティアゴに着いてしまえば、なんだかあっけないもんだな」
とワイネが続ける。みんなが頷いた。
「それにしても、サリアから歩くなんて巡礼じゃないな。あんなのはただのピクニックだろ」
デイヴィッドがジョッキ越しに言ったその言葉に、僕は少しだけ曖昧な笑みを浮かべて相槌を打った。やっぱり、みんな同じことを思っていたんだな。
「それでさ、どう? また歩いてみたいと思う?」
僕がそう問いかけると、デイヴィッドはジョッキをテーブルに置き、肩をすくめた。
「将来のことだから『絶対に』とは言わない」
そう前置きした後で、少し間を置いてから答えた。
「今のところは、ノーだな」
それをきっかけに、会話が自然とカミーノから離れ、それぞれが住んでいる場所や家族、これまでの仕事のことなどに移っていった。不思議なことに、道中ではこうしたお互いの背景について話す機会がほとんどなかった。ワイネが引退したパイロットだったと聞いて、一同が「へえ!」と声を上げた。
川岸を変え、ようやく念願のガリシア産のシーフードにありつけた。もっともほかのみんなはシーフードにもそれほど引かれた様子はなく、さっきの続きでひたすらビールを飲み続けていたけれども。僕が「お寿司」を試してみようと思うと言うと、みんなは「絶対にハズレだからやめておけ!」と言った。果たして、サーモン握りはかなりイマイチな代物だった。
夜が更けるまでバルのテラス席で笑い合い、ジョッキを何度も打ち鳴らし、「またいつか、どこかで」と再会を約束して僕らはそれぞれの宿へと帰っていった。
* * *
バスが小さな停留所に到着すると、運転手が後ろを振り向いて、乗客に向かって大声で繰り返した。
「フィニステラ! フィニステラ!」
その声に促されるように、乗客たちは次々とバスを降りていく。僕も前扉からバスを出ると、車体の下から自分のリュックを引っ張り出した。
今夜のアルベルゲは、バス停の向かい側から続く坂道を登り切った所にあった。チェックインを済ませ、ベッドわきに荷物を下ろすと、すぐに身軽な格好で外に出て、イベリア半島の北西端に突き出た岬に向かって歩き始めた。
細い路地の道端で黄色い帆立貝が彫られた石標が目に止まった。ガリシア州が設置している巡礼路の道標だ。ほんの2日前までは、この道標をたどりながらサンティアゴを目指して歩いていたのだ。そのことに、なんだかすでに懐かしさを覚えてしまう。
道標に刻まれた「4.387キロ」という数字は、サンティアゴ・デ・コンポステーラまでの距離ではなく、フィニステラ岬までの距離だ。てっきり僕は、サンティアゴ大聖堂を起点として、今度は数字が増えていくものだと勘違いしていた。でも実際にはフィニステラ岬に向かって数字が減っていく。確かに、数字が増えていったら、旅の終わりに向かっている実感がなく、巡礼者たちにとっては歩く張り合いがないかもしれない。
海岸線に沿って延びる登り坂を急ぐでもなしに淡々と歩いていく。途中、帰路に就く巡礼者たちと何度かすれ違った。そのたびに「ブエン・カミーノ!」と声をかけたけれど、同じ言葉を返してくれる人は半分くらいだった。
町の中心地から1時間ほどで岬に到着した。
胸の高さほどの「0.000キロ」と刻まれた石碑が道沿いに立っていた。二人組の若い女性がポーズを変えながら、石標と一緒にスマホで写真を撮っている。その向こうにはバルやアルベルゲもあって、大きな駐車場にバスや乗用車が何台も停まっている。
さらに先へ進むと、大西洋に突き出た岬の先は、ごつごつとした岩場になっている。そこで、巡礼者や観光客が思い思いの場所に立ったり、座ったりしながら海を眺めている。いかにも、サンティアゴからここまで歩いてきたように見える巡礼者の姿は思ったほど多くないようだ。
見渡す限り、どこまでも海が広がっていて、それ以外には何もない。この眺めを前にしたら、確かにここが世界の果てだという気がしてもおかしくない。
「フィニステラで眺める夕日は何ものにも代えがたい」とダニエルが教えてくれたけれど、空一面を薄く覆っている雲が、あと2時間で消えてくれる気配はまるでない。それどころか、さっきから小雨がぱらつき始めている。残念だけど、今回、夕日はお預けのようだ。
1時間ほど海を眺めて過ごした後、もと来た道を、今度は下り始めた。
アルベルゲに戻ると、タトゥー男のデニスとばったり出くわした。
「デニス! こんな所で会うなんて、すごい偶然だな!」
「そうだな! でも、ほかにも来てる奴がいるぞ」
デニスによれば、巡礼仲間の何人かとバスで一緒だったそうだ。サンティアゴからフィニステラまでは路線バスが1日に4、5本出ている。観光地のフィニステラにはアルベルゲがたくさんあるから、宿まで一緒ということはそうそうないだろうけど、この狭い港町を歩いていれば誰かと顔を合わすかもしれない。
夜は、港付近のシーフード・レストランでシーフードを堪能した。
翌日は朝から晴れていた。ガリシア州に入ってから、午前中にこんな青空を見るのは初めてのことだ。今日ならさぞかし夕日も美しいはず。そう思いきや、スマホで天気予報を確認すると、午後には曇ってしまうらしい。
バス停に向かう途中、思いがけずレアと再会した。数日前の夜に「さよなら」を済ませていたけれど、会う時には会うものだ。
「そういえば、一昨日ね、人生初のタトゥーを入れたの」
と彼女が笑顔で教えてくれた。サムエレと同じだなあ、と思ってつい笑ってしまった。
「じゃあ、これが本当のさよならだね。良い旅を!」
そう言ってお互いに手を振った。
バスの発車は11時45分。でも、ひと通り町なかは見て回ったし、やり残したことも見当たらない。少し早いけれど、11時にはバス停に向かった。
バス停に着くと、ちょうどそのタイミングで路線バスが到着して、観光客たちがドヤドヤと降りてきた。その中に、見覚えのあるドイツ人のボクサーがいた。こっちに気づくと、彼は大きく手を振ってくる。思わず僕も手を振り返す。彼の「国籍コレクション」は、あれから増えただろうか?
もちろん毎日一緒にいたわけではないけれど、1か月間、同じ道を歩き続けた巡礼仲間たちとの結びつきはなかなか強いものだなあ、と妙に感じ入ってしまった。
ベンチに腰を下ろしながら、静かにこの旅を振り返った。
巡礼を終えた翌日、大聖堂前の広場で湧き上がる拍手や歓声を見た時、なんだか白けたような気持ちになっていた。でも、あれはきっと、羨ましさの裏返しだったのだと思う。巡礼を終えた側として彼らを眺めるのではなく、歩いている側として、あの輪の中に戻りたかったのだ。
もう一度カミーノを歩きたいかとデイヴィッドに尋ねた時、彼は「今のところはノーだ」と答えた。スチュアートは「2回で十分だ」と笑ったけれど、少なくとも彼らは2回目を歩いたのだ。色んなルートで何度もカミーノを歩いているという、「お四国病」ならぬ「カミーノ病」のベテラン巡礼者もいた。
気がつくと周囲にバス待ちの観光客や巡礼者の姿が増えてきていた。空っぽのバスが到着し、運転手が降りてきて「サンティアゴ! サンティアゴ!」と声を張り上げる。僕はリュックを荷物スペースに預けてバスに乗り込むと、海岸線が見える右側の席に陣取った。
バスが走り出す。これで僕の旅は終わり。
海沿いのカミーノを歩く巡礼者の姿が見えた。終わったはずの旅が、まだあの道の先で続いている。ふいに、彼らに向かって叫び出したい衝動にかられた。
「ウルトレイヤ! もっと先へ!」
ウルトレイヤ! その先へ! 土橋俊寛 @toshi_torimakashi
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