黄泉戸の桜、うつろ舟の姫
楓かゆ
黄泉戸の桜、うつろ舟の姫
戦は、人の心を、容易く壊す。
父は子を疑い、子は父を殺める。昨日までの友が、明日の敵となる。だが、それでも、人は「明日」を信じて足掻くもの。
しかし、この日ノ本には、明日そのものが、存在せぬ土地がある。
そこは、生者と死者の境が、腐った沼のように、曖昧に溶け合った場所。
過去の亡霊が、今を生きる者の肉体を求め、永遠に、飢え、彷徨い続ける、常世の国。
近江の小領主、浅井家の庶子として生まれた、小夜(さよ)は、「うつろ」な娘だった。
彼女は、美しかった。だが、その瞳には、まるで、この世の者ではないような、奇妙な「空虚さ」が宿っていた。彼女は、人の顔を見ても、その顔の奥にある「別の顔」――その者が、前世で、あるいは、来世で、持つであろう顔――が、幾重にも重なって見えてしまうという、呪われた「眼」を持っていた。
そのため、彼女は、誰とも視線を合わせようとしなかった。人々は、そんな彼女を「魂の抜けたうつろ姫」と呼び、気味悪がって、避けた。
ある日、父である浅井久政は、小夜に、非情な命を下した。
「小夜。そなたには、六角家に嫁いで貰う」
六角家は、かつては近江の守護として栄華を誇ったが、今は見る影もない。現当主の六角義治は、戦の傷が元で、半身が腐り落ち、もはや、生ける屍と噂される男。
だが、問題は、その六角家が、今もなお、支配している土地にあった。
それは、琵琶の湖畔に広がる、「黄泉戸(よみど)」と呼ばれる、湿地帯。
その地は、古来より、この世とあの世を繋ぐ「扉」があると信じられていた。
そして、六角の一族は、その「扉」の番人として、ある恐ろしい儀式を、代々、続けているという。
それは、「魂の入れ替え」。
死期が近い一族の者に、若く、生命力に溢れた、他所の者の肉体を「器」として与え、魂を移し替えることで、擬似的な「不老不死」を得る、という外道の術だ。
そのための「器」として、小夜は、六角家に送られることになったのだ。
「父上!小夜は、まだ十六にございます!あの生ける屍の元へなど…!」
異母兄である長政(ながまさ)が、必死に食い下がる。彼は、うつろな妹を、密かに、不憫に思っていた。
「黙れ、長政!」久政は、吐き捨てた。「六角は、今も、朝廷に太い繋がりを持つ。この縁談を整えれば、我らの官位も上がる。庶子一人の命で、浅井の格が上がるのだ。文句でもあるか」
小夜は、ただ、黙って、そのやり取りを聞いていた。
六角義治。半身が腐った男。
彼女の「眼」には、義治の顔の奥に、いくつもの、若い男たちの、苦悶に満ちた顔が見えていた。彼が、これまで、幾人の若者の肉体を喰らってきたのか。
そして、彼女は、決意した。
この、悍ましい、魂の冒涜を、終わらせなければならない。
たとえ、この身が、どうなろうとも。
彼女の「うつろ」な心に、初めて、明確な「意思」の光が灯った。
それは、「復讐」という名の、冷たい光だった。
小夜を乗せた輿は、黄泉戸の湿地帯へと、入っていった。
空気が、変わる。
淀んだ水の匂い、腐った泥の匂い、そして、微かな、死臭。
霧が立ち込め、昼間だというのに、薄暗い。
六角家の居城である観音寺城は、まるで、巨大な墓石のように、霧の中に、聳え立っていた。
城で小夜を出迎えたのは、六角義治本人だった。
噂通り、彼の体の左半分は、黒く変色し、崩れ落ちていた。豪華な着物で隠してはいるが、強烈な腐臭が漂う。
だが、その目は、ぎらぎらとした生命力に溢れ、小夜の、若く、美しい肉体を、品定めするように、嘗め回していた。
「ようこそ、浅井の姫君。長旅、ご苦労であった」
義治の、ねっとりとした声が、響く。
「お主のことは、聞いておるぞ。「うつろ姫」とな。魂が、半分、抜けておるそうだな。好都合よ。空っぽの器の方が、新しい魂は、馴染みやすい」
その夜、小夜は、城の一室に、閉じ込められた。
儀式は、三日後の、新月の夜に行われるという。
それまで、彼女は、ここで、贄となる時を、待つだけ。
だが、彼女は、諦めてはいなかった。
彼女には、一つの、秘策があった。
それは、彼女の「眼」の、本当の使い方。
彼女は、ただ、死者の顔が見えるだけではない。
彼女は、死者の魂と、対話し、時には、それを、現世に「呼び降ろす」ことさえ、できるのだ。
彼女は、目を閉じた。
そして、意識を、この城に、この土地に、渦巻く、無数の、怨念へと、同調させていった。
(お願い…力を貸して…)
(この地に、囚われた、全ての、無念の魂たち…)
(あなた方の、肉体を奪った、あの男に、報いを…)
すると、部屋の闇が、ざわめいた。
壁の染み、畳の目、天井の木目。
その、ありとあらゆる場所から、無数の、苦悶の顔が、浮かび上がってくる。
彼らは、皆、六角家に、肉体を奪われた、犠牲者たちの、成れの果てだった。
「…あたらしい、ひめ…」
「おまえも、われらと、おなじに、なるのか…」
「いやだ…にげろ…」
怨霊たちの声は、憎しみよりも、深い、諦観に満ちていた。
彼らは、何度も、六角に抗おうとし、そして、その度に、敗れてきたのだ。
「私は、逃げない」小夜は、毅然として言った。「私は、あなた方と、共に戦う。そして、この呪われた連鎖を、終わらせる」
小夜の、強い意志に、怨霊たちの声が、わずかに、変わった。
「…できるのか…おまえに…」
「あの男には、かなわぬ…あの男は、扉の、番人…死者の魂を、支配する…」
その時だった。
部屋の外から、騒がしい声と、剣戟の音が、聞こえてきた。
「姫!小夜姫は、どちらにおわすか!」
聞き覚えのある、声。兄、長政の声だ。
「六角の者どもに、一太刀なりとも、触れさせるものか!」
長政が、助けに来たのだ。
彼は、父の命令に背き、少数の手勢を率いて、この死の城に、乗り込んできたのだ。
怨霊たちが、途端に、恐怖に、ざわめきだした。
「だめだ…!」
「あたらしい、いのちが、きた…!」
「また、うつわが、ふえるだけだ…!」
小夜の心も、絶望に、凍りついた。
兄の、正義感と、妹を思う、その優しい気持ち。
それは、この城では、何の意味もなさない。
それどころか、それは、六角義治にとって、最高の「獲物」が、自ら、やってきたことを、意味するのだ。
障子が、斬り破られ、血まみれの長政が、部屋に転がり込んできた。
「小夜!無事か!」
「兄上…なぜ…」
「お前を、死なせはしない…!」
だが、長政の背後には、六角義治が、音もなく、立っていた。
その、腐り落ちた顔が、歓喜に、歪んでいる。
「これは、これは、浅井の若君。わざわざ、死にに来てくれたか」
義治は、長政の、若く、屈強な肉体を、じろじろと見つめた。
「なんと、見事な、器よ。姫の、か弱い器よりも、よほど、儂に、相応しいわ」
「な、にを…」
長政は、驚愕に、目を見開いた。
彼は、妹を救うために来た。だが、その結果、自分が、次の「贄」として、選ばれてしまったのだ。
「兄上…!」
小夜が叫ぶ。
彼女が、初めて、兄の名を、感情を込めて、呼んだ。
その、姉妹の、強い「絆」という、感情の迸り。
それを、義治は、まるで、極上の酒を味わうかのように、うっとりと、目を細めて、感じていた。
「素晴らしい…実に、素晴らしい「魂の味」よ…」
義治の、腐った半身から、黒い、触手のようなものが、何本も伸び、長政の体に、絡みついていく。
「貴様の、その若き肉体と、その妹への想い、この儂が、有り難く、頂戴つかまつる!」
「う…ああああああ!」
長政の体が、痙攣し、その瞳から、急速に、光が失われていく。
彼の魂が、肉体から、無理やり、引き剥がされていく。
小夜は、ただ、その光景を、見ていることしかできなかった。
彼女が、初めて抱いた、明確な「意思」。
それは、兄を、この世で最も、残酷な運命に、導いてしまった。
希望は、最悪の絶望へと、反転した。
長政の体から、光が完全に消えた。
そして、その体が、まるで操り人形のように、ぎこちなく、立ち上がった。
顔は、長政のままだ。だが、その目に宿る光は、紛れもなく、六角義治の、老獪で、残忍な光だった。
「ククク…素晴らしい!なんと、力が、漲るわ!」
長政の体を乗っ取った義治――「新・義治」は、自らの、若々しく、傷一つない手を見つめ、恍惚と、声を上げた。
「もはや、あの腐った半身は、不要よ」
彼は、部屋の隅で、抜け殻のように転がる、自らの「古い器」を、汚物でも見るかのように、一瞥した。
「さて、姫君」
新・義治は、小夜に、向き直った。その顔は、兄の顔。だが、その笑みは、悪鬼のそれだった。
「貴様は、どうしてくれようか。もはや、器としての価値はなくなった。だが、その「眼」は、少々、興味深い。儂の、新しい玩具として、生かしておくのも、一興か」
絶望。
小夜の心は、砕け散った。
兄を救うこともできず、自らは、これから、永遠に、この男の慰み者として、生き永らえなければならない。
死んだ方が、ましだった。
その、彼女の、完全な絶望。
それを、感じ取ったのか。
部屋の闇が、再び、ざわめいた。
壁や、床から、滲み出していた、無数の怨霊たちの顔が、今度は、はっきりと、囁き始めた。
「…ああ…」
「また、ひとり、ふえた…」
「あの、わかものも、われらと、おなじになった…」
「だが…あの、おとこは、ふるいからだを、すてた…」
怨霊たちの声に、今までにない、奇妙な「響き」が、混じっていた。
それは、諦観ではなかった。
憎しみでもなかった。
それは、飢えた獣が、無防備な獲物を見つけた時のような、微かな、しかし、確かな、「期待」の響きだった。
「…からっぽの、うつわが、ある…」
「ふるいが、つよい、たましいが、はいっていた、うつわが…」
「だれも、はいっていない、うつわが…」
怨霊たちの、無数の視線が、一点に、集中する。
部屋の隅に転がる、六角義治の、古い、腐った、半身。
主を失った、最高の「器」。
小夜は、はっとした。
(まさか…!)
次の瞬間、部屋中の怨霊たちが、一斉に、叫んだ。
それは、何十年、何百年もの間、この地に囚われ、蓄積された、怨念の、大合唱だった。
「「「クレェェェェェェェ!!!!」」」
無数の、黒い霧のような魂たちが、古い義治の、抜け殻へと、殺到した。
まるで、乾いた土が、水を吸い込むように、怨霊たちは、次々と、その腐った肉体の中へと、吸い込まれていく。
「な、何事だ!?」
新・義治が、驚愕の声を上げる。
古い義治の体が、むくりと、起き上がった。その、腐り落ちた半身が、泥のように、再構成されていく。
空っぽだったはずの眼窩に、おびただしい数の、赤い光点が、まるで、虫の複眼のように、灯った。
そして、その口から、何百という、男女の声が、一つに重なり合って、響き渡った。
「「「…み…つ…け…た…ぞ…よしはる…」」」
それは、もはや、六角義治の抜け殻ではなかった。
この土地の、全ての怨霊たちの、憎悪と、飢餓を、その身に宿した、集合体。
新たな「怪物」が、誕生したのだ。
「下賤な亡者どもめが…!儂の、古い器を、勝手に使いおって!」
新・義治は、激昂し、太刀を抜いた。
だが、怨霊の集合体――「亡者の器」は、それを、あざ笑うかのように、腐った腕を、振り上げた。
「「「その、あたらしいからだ、よこせ!」」」
「「「われらの、くるしみを、おまえも、あじわえ!」」」
二体の「六角義治」が、激しく、ぶつかり合った。
一方は、若く、屈強な肉体と、長年の経験を持つ、老獪な魂。
もう一方は、腐り果てた肉体と、数百年分の、純粋な憎悪の塊。
城が、揺れる。
二体の怪物が、互いの肉体を、魂を、喰らい合っている。
それは、地獄そのものだった。
小夜は、その、常軌を逸した光景を、ただ、呆然と、見つめていた。
彼女が、望んだ、復讐。
だが、その結果は、彼女の想像を、遥かに、超えていた。
彼女は、ただ、一つの地獄を終わらせようとしただけなのに、その結果、さらに、おぞましい、二つの地獄を、生み出してしまったのだ。
(私が…私が、これを、望んだというの…?)
彼女の「眼」には、見えていた。
兄の顔をした新・義治が、怨霊たちに肉を喰いちぎられながら、狂気の笑みを浮かべているのを。
そして、怨霊の集合体が、新しい肉体を求め、歓喜の叫びを上げているのを。
そのどちらもが、救いようのない、永遠の苦しみに、囚われている。
この土地の呪いは、終わらない。
形を、変えるだけだ。
より、悪質に。より、絶望的に。
やがて、戦いは、終わりを迎えた。
二つの体は、共に、力尽き、部屋の中央で、一つの、おぞましい肉塊となって、動かなくなった。
兄の顔と、腐った顔が、不気味に、融合している。
その、どちらの目も、虚ろに、天井を見つめていた。
静寂が、戻る。
だが、それは、以前の、死んだような静寂ではなかった。
飽食の獣が、満腹に、眠りについたかのような、不気味な、安らぎに満ちた、静寂。
小夜は、一人、その部屋に、取り残された。
兄も、死んだ。
敵も、滅んだ。
だが、何も、解決していない。
何も、救われていない。
彼女は、どうすれば、いいのか。
ここから、どうやって、生きていけば、いいのか。
その時だった。
肉塊となった、二人の義治の骸から、ふわり、と、一つの、小さな、光の玉が、抜け出した。
それは、長政の、魂の、最後の、燃えカスだった。
光の玉は、小夜の元へと、飛んでくると、彼女の、額に、そっと、触れた。
そして、彼女の脳裏に、兄の、最後の、声が、響いた。
「…さよ…」
「…にげろ…」
「…おまえだけは…しあわせに…」
兄の、最後の、祈り。
その、温かい光が、小夜の、空っぽの心を、満たしていく。
ああ、兄上は、最後まで、私のことを…。
涙が、頬を、伝った。
生まれて初めて、流す、涙だった。
だが。
その、温かい、感情。
その、兄への、愛と、感謝。
その、「幸せになってほしい」という、優しい祈り。
それを、見逃さない、存在が、いた。
「…みつけた…」
声が、した。
今までの、どの声とも、違う。
古くも、新しくもない。男でも、女でもない。
それは、この土地の、呪いの、本当の「核」。
六角家が、代々、儀式を捧げてきた、「黄泉戸の神」そのものの、声だった。
「さいごの、いちばん、おいしい、たましい…」
小夜の足元の、影が、濃くなった。
そして、その影の中から、何かが、ゆっくりと、せり上がってくる。
それは、形を持たなかった。
ただ、純粋な、「飢餓」そのものだった。
小夜は、悟った。
六角義治も、怨霊たちも、全ては、前座に過ぎなかったのだ。
彼らの、憎悪と、苦しみの、饗宴。
その、最高のデザートとして、用意されていたのが、兄の最後の祈りによって、最も、美味しく、熟成された、小夜自身の「魂」だったのだ。
彼女の「うつろな器」は、今、兄の愛によって、最高の「ご馳走」へと、変えられてしまった。
これこそが、この土地の、本当の「儀式」だったのだ。
「あ…ああ…」
小夜の、細い喉から、意味をなさない、声が、漏れた。
彼女の、美しい顔が、生まれて初めて、純粋な「恐怖」に、歪む。
その、絶望の表情を、神は、実に、満足げに、見つめていた。
「いただきます」
「黄泉戸の神」が、そう囁いた、気がした。
小夜の足元の影から伸びた、形のない「飢餓」が、彼女の体を、優しく、包み込む。
それは、暴力的な捕食ではなかった。
まるで、母親が、赤子を抱きしめるかのように、慈愛に満ちた、抱擁だった。
だが、その抱擁に、小夜の「個」という輪郭が、少しずつ、溶けていく。
記憶が、薄れていく。
父の、能面のような顔。母の、早くに亡くなった、おぼろげな面影。兄、長政の、不器用な優しさ。
感情が、消えていく。
生まれて初めて感じた、恐怖。兄を失った、絶望。そして、最後に残った、温かい、感謝の気持ち。
その全てが、色褪せ、意味を失い、大いなる「何か」の中の、ほんの一滴の雫となって、吸い込まれていく。
(ああ…これで、おわり…)
(やっと、ほんとうに、からっぽに、なれる…)
小夜の意識が、完全に、途絶える、その直前。
彼女の、呪われた「眼」が、最後の光景を、映し出した。
それは、未来の、幻視だった。
数年後。
近江の国は、織田信長という、新しい時代の覇者によって、平定されていた。
浅井家は、織田に下り、長政は、信長の妹、お市の方を、正室に迎えていた。
彼は、あの日、六角の城で、死んだはずだった。
だが、彼は、生きていた。
いや、「生きていることになっていた」。
あの日、小夜の魂を喰らい、完全に「満腹」になった「黄泉戸の神」は、満足して、しばしの「眠り」についた。
神の力が弱まった隙に、長政の肉体に宿っていた、六角義治の魂は、かろうじて、城から脱出していたのだ。
だが、彼は、もはや、六角義治ではなかった。
長政の肉体と、その記憶。そして、自らの、老獪な魂。さらに、あの地獄の饗宴で、わずかに取り込んでしまった、怨霊たちの、憎悪の残滓。
それらが、歪に、混じり合った、新しい「何か」に、成り果てていた。
彼は、自らを「浅井長政」として、振る舞った。
誰も、彼が偽物だとは、気づかない。
いや、薄々、気づいていた者もいたかもしれない。だが、乱世を生き抜くためには、時として、真実から、目を逸らすことも、必要なのだ。
偽りの長政は、織田家との同盟を、巧みに利用し、力を蓄えていった。
そして、彼は、待っていた。
「黄泉戸の神」が、再び、目覚め、飢える時を。
そして、彼自身が、神の「巫女」として、次の「饗宴」を、執り行う時を。
幻視は、さらに、未来へと飛ぶ。
姉川の合戦。
偽りの長政は、長年の盟友であった、朝倉家を、見捨てることができず、ついに、信長に、反旗を翻す。
だが、それは、義理や、人情からではなかった。
彼は、知っていたのだ。この戦で、数多の、若者の魂が、死ぬことを。
その、おびただしい数の、無念の魂。絶望の叫び。
それこそが、「黄泉戸の神」を、完全に、目覚めさせるための、最高の「供物」となることを。
戦は、浅井・朝倉連合軍の、惨敗に終わる。
小谷城は、織田の大軍に、包囲された。
落城は、時間の問題だった。
城の一室で、偽りの長政は、妻である、お市の方と、三人の娘たちに、別れを告げていた。
「市よ。そなたは、娘たちと共に、信長兄者の元へ、帰るのだ」
彼の顔は、悲劇の武将そのものだった。
だが、その目の奥底には、抑えきれない、狂気の「歓喜」が、燃え盛っていた。
(そうだ…これだ…!この、絶望こそが!)
(妻との別れ、娘たちとの永遠の離別、そして、自らの死!この、極限の苦痛と、悲しみこそが、神を、完全に、降臨させる!)
彼は、お市と娘たちを城から逃がすと、一人、天守へと、向かった。
そして、彼は、自らの腹に、短刀を、突き立てた。
彼の、肉体が、死ぬ、その瞬間。
彼の、歪な魂は、解放された。
そして、それは、この戦で死んだ、数万の兵士たちの、魂と共に、一つの、巨大な、渦となり、故郷である、「黄泉戸」の地へと、飛んでいった。
小夜の意識は、再び、現在へと、引き戻された。
いや、もはや、そこに、小夜という「個」は、存在しなかった。
彼女は、今、完全に、「黄泉戸の神」そのものと、なっていた。
彼女は、「眼」を開いた。
世界が、違って、見えた。
時間も、空間も、意味をなさない。過去も、現在も、未来も、全てが、同時に、存在していた。
彼女は、これから起こる、全ての悲劇を、知っていた。
兄が、偽りの英雄として生き、そして、最悪の生贄となって、自らの元へ、還ってくることを。
そして、彼女は、理解した。
この、呪いの、本当の、恐ろしさを。
この土地の神は、ただ、魂を喰らうだけではない。
それは、人の世の「物語」そのものを、喰らうのだ。
英雄譚、悲恋、忠義、裏切り…そういった、人々が、意味を与え、語り継いでいく、全ての「物語」を、最も、美味しく、熟成させ、そして、根こそぎ、喰らい尽くす。
喰われた物語は、人々の記憶から、消え去る。そして、その跡には、ただ、意味のない、虚無だけが、残る。
救済者であるはずの草薙は、歴史に残ることなく、喰われた。
悲劇の英雄であるはずの長政も、やがて、その魂ごと、喰われるだろう。
そして、いつか、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、この国の、全ての「物語」が、この、静かなる神に、喰らい尽くされる日が、来るのかもしれない。
そうなった時、この日ノ本は、どうなるのか。
歴史も、文化も、人の想いさえも、全てが、消え去った、真っ白な「無」の国。
小夜(であったもの)は、静かに、微笑んだ。
その、神の、視線の先には、何も知らず、ただ、己の運命を演じ続ける、無数の、人間たちの姿が、映っていた。
これから、始まる、長い、長い、饗宴の、食材たちが。
彼女は、うつろ舟。
全ての物語を乗せ、血の色の、静かなる、虚無の海へと、ただ、漕ぎ出していく。
その旅に、終わりは、ない。
黄泉戸の桜、うつろ舟の姫 楓かゆ @MapleKayu
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